若しかしたら、以前にも教えて貰ったかもしれないが、スミマセン忘れました!でも、好きな花です。
世の中が騒がしく、ある投資専門家によると、近頃の情勢は、1937年の世界に酷似しているとか・・・恐ろしい気がするけれど、では、どうすべきか?
悲しい事に、その記事の結びに、人間は歴史に学ぶ事が出来ないのだろうか・・・とあった。
9月4日付、毎日新聞「風知草」欄(山田孝男氏著)に掲載されていた言葉「人知らずして慍(イキドウ)らず。また君子ならずや」に、目が留まった。
「論語」である。
小泉元首相がトランプ大統領に「論語」を伝えたいと話しているのだとか・・・他人が自分を理解してくれなくても憤らない、怒らない。これが君子(徳を越えた理想の人格者)なんだ・・・そうですね。
トランプ大統領ならずも、わが身にも、ズシンと思い当たる言葉である。
今も残念に思うのは、高校の選択科目に「漢文」が取れなくて、正式には「論語」を学習できなかったが、社会に出てから、何かしら聞きかじり、2500年も前に述べられた事が現代でも通用する事で、孔子に感服する一方、人間て、何も賢くなっていないな・・・とも思ったりしていた。
歳を経て、様々な出来事にも遭遇し、ま、自分としては、賢くなったような気分でいるが、最近、頻繁に友人達と語らう時間を持つ場を得て、彼らが、数年前、或いは、数十年前とどこか違った所があるのだろうかと、しばし、眺めたりした。
様々な人生を潜り抜けてきた友人達だが、幸いにも、良い人生を送っているように思う。
でも、性格も依然と変わったような様子もないし、数年前、数十年前の出来事も、あたかも昨日の事のように縮まって、今日と継続する・・・私も変わっていないのだ。
ただ黙って友人らの話を聞きながら、ふと思ったのは、友人達には、本当に私の心の内を理解して貰っているのだろうか・・・という事だった。
何故ならば、私自身が、殆ど、自身のすべてを語らない人間だからである。
ある課題を提示されたら、如何に問題なく対処するかは考え実行するが、その姿勢が私の目的(希望?)ではない事もある。
結果を判断して、こういう人間かと思われている部分もありそうな事は認識しているが、言い訳はしない。
人格者だというのではなく、あれこれ説明するのが面倒なだけだ。
「面倒」を避けたのは自分自身なのだから、どう判断されても仕方ない事であるな、きっと。
理解を得たかったら丁寧に語る事、それが出来なければ「論語」の如く、「君子になる」を選ばずはなるまい。
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庭先の花を整理し、ついでに、年一回(?)の芝刈もして、秋を待つ
ご近所君子さんから差し入れの「いなりずし」・・・丁度、食べたかったので、大喜びで頂いた。
「寄せ植えの鉢」ではなく、「余り物寄せ集めの鉢」だが、結構、イイでしょ?