見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

怪物も怨霊も大集合/浮世絵お化け屋敷(太田記念美術館)

2024-09-29 20:02:08 | 行ったもの(美術館・見仏)

太田記念美術館 『浮世絵お化け屋敷』(2024年8月3日~9月29日)

 歌川国芳や月岡芳年の名品をはじめ、妖怪や幽霊を描いた浮世絵約170点を紹介する。前後期で完全展示替えだったので、前期に続いて後期も見てきた。いや楽しかった! 浮世絵といえば、伝統的にコレクターに愛されてきたのは美人画や役者絵だと思うが、いま一番人気があるのは、スペクタクルな怨霊・妖怪画ではないかと思う。会期末にあたるこの週末、小さな美術館は大混雑で、若者や外国人の姿も多かった。

 後期の見ものは歌川国芳『相馬の古内裏』。一度見たら忘れない、背を丸めて覗き込む巨大な髑髏が巨神兵みたいなやつ。しかし私はこの原作にあたる山東京伝作『善知鳥安方忠義伝』は、いまだ機会がなくて読んでいない。昨年、歌舞伎座で見た『新・陰陽師』に将門の復権を企む滝夜叉姫が登場したので、お、あの滝夜叉姫!と思ったが、だいぶ改変された物語だった。

 後期展示で好きなのは、月岡芳年の『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』と『平維茂戸隠山鬼女退治之図』。どちらも縦長の構図を巧く使って、化けものと英雄をそれぞれクローズアップで描いている。髭のおじさんがどちらもカッコいい。

 歌川芳艶『丹波国山中は数千年越し蜘蛛あまたの人なやますと聞源頼光四天王お召つれ遂にたいししたまふ図』は3枚組の中央を占める(左右の2枚にはみ出している)土蜘蛛の怪物感が半端ない。確か「新収作品」という注記が付いていたが、他館を含めて初見かどうかは不確実。四天王が蓆を編んだような籠に乗って谷底に吊り下ろされている様子は見た記憶がある。しかし背中に八ツ眼のような模様を持ち、大蛇を難なく抑え込んでいる土蜘蛛の迫力、爽快に感じるくらいにすごい。

 本展は、長く語り継がれてきた日本の怨霊・妖怪の物語をあらためて確認する機会にもなった。その中で、私が再認識したもののひとつが、大森彦七(盛長)。南北朝時代、足方尊氏に与し、湊川の戦いにおいて南朝方の楠木正成を敗死させた後、正成の怨霊に遇う。伊予国の矢取川で川を渡してほしいと美女に頼まれ、背負って渡ろうとすると、川の中程で、怨霊の正体をあらわしたという。武将の怨霊(平将門、源義平、新田義興)って荒ぶるイメージが強いので、美女に化けるのは、かなり異質ではないかと思った。

 将門といえば、芳年には戯画『東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強』(明治14/1881年)がある。明治の東京に現れた平将門の写真撮影の図で、七人の影武者がいたという伝承に基づき、背後に7つの顔が浮かんでいるのだが、怒っているもの、あくびしているもの、妙ににこやかな顔もあって、かわいい。

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付藻と松本/眼福(静嘉堂文庫美術館)

2024-09-27 22:18:43 | 行ったもの(美術館・見仏)

静嘉堂文庫美術館 特別展『眼福-大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋』(2024年9月10日~11月4日)

 三菱第2代社長・岩﨑彌之助とその嗣子で第4代社長の岩﨑小彌太の父子二代によって収集された茶道具の名品展。静嘉堂としては8年ぶりの茶道具展で、将軍家、大名家旧蔵の由緒ある茶入や名碗をはじめ、著名な茶人たちの眼にかなった、格別の名品が一堂に会する。

 ギャラリー1は、建窯の油滴天目(デカい)に始まり、灰被天目、井戸茶碗、楽茶碗、織部、高取などが1~2点ずつで、茶碗の種類を学ぶ教科書の趣き。私は、いわゆる井戸茶碗は、持ち重りしそうであまり好きでないのだが、つるっとした玉子手茶碗(銘:小倉山)は触ってみたいなと思った。

 ギャラリー2は茶入。それぞれ仕覆やら木箱やら、大量の付属品が一緒に並んでいて面白かった。本展は、すべて展示品の伝来(旧蔵者)の系譜をパネルで添えているのだが、特に茶入は、複雑で長い伝来経路をたどっているように思った。なかでも代表格は、唐物茄子茶入の「付藻茄子」と「松本茄子(紹鷗茄子)」だろう。どちらも信長、秀吉、家康が手にしたもの。豊臣秀頼所持の際に、大坂夏の陣で罹災したが、土灰の中から掘り出された。家康の命を受けて、茶器塗師(ぬし)の藤重藤元・藤厳が修理に当たり、成果に満足した家康は、2つの茶入を藤重家に下賜した。この話は、2013年に静嘉堂の『曜変・油滴天目 茶道具名品展』で知ったもので、X線写真のパネルが強く印象に残っている。本展では、さらに写真が増えていると思ったら、1994年のX線撮影に次いで、本年(2024年)東京国立博物館で最新の機器によるX線CTスキャンをおこなったのだそうだ。

 なお、2つの茶入は、明治17年(1884)彌之助が歳末の給料を前借りして購入したもので、「付藻」が旧土佐藩の「九十九商会」と同名だったことも、彌之助を決心させた一因だったのではないかという。彌之助、33歳かな。しかし兄・彌太郎の訓戒を受け、2つの茶入は彌太郎の預かりとなって、最晩年まで彌之助の手元に戻ってこなかったという。岩崎家の兄弟、おもしろいな。本展は「曜変天目以外、撮影可」だったので、2つの茶入を撮影させてもらった。

大名物『唐物茶入 松本茄子(紹鴎茄子)』

大名物『唐物茶入 付藻茄子』

 付藻茄子のほうが少し頸が長いのだな。そして、この「茄子」というかたちは、よくある肩衝茶入に比べて、自然に手になじみそうで好き。

 ギャラリー3は、青磁花入やら虚堂智愚の墨蹟やら仁清の色絵やら、多様な名品が入り混じる中に同工異曲の『猿曳棚』4件が並んでいるのは目を引いた。形式的には「紹鴎棚」と呼ばれるもので、地面に接する引き違い戸の袋戸棚の上に、柱で支えられた天版(棚)が載っている。この袋戸棚の板戸に猿曳と紐でつながれた猿が描かれているのだ。最も古いものは、伝・狩野元信筆、室町時代の作で、江戸時代、さらに明治時代の狩野派絵師が「写し」の棚を作成している。「写し」と言っても、猿曳というモチーフを継承しているだけで、図様はけっこう変えていた。

 最後はギャラリー4で、いつもの曜変天目。茶碗の中に差し込む照明が、ちょっと明るすぎるんじゃないかと危惧している。

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伴大納言絵巻上巻を見る/物、ものを呼ぶ(出光美術館)

2024-09-23 21:37:43 | 行ったもの(美術館・見仏)

出光美術館 出光美術館の軌跡 ここから、さきへIV『物、ものを呼ぶ-伴大納言絵巻から若冲へ』(2024年9月7日~10月20日)

 休館を控えたシリーズ展もいよいよ最終章になってしまった。本展は、同館が所蔵する2つの国宝、『伴大納言絵巻』と古筆手鑑『見努世友』をはじめ、やまと絵、風俗画、仏画、文人画から古筆まで、書画コレクションの粋を展観する。

 私は2016年の展示以来となる『伴大納言絵巻』をゆっくり見たくて、日曜の朝イチに入館しようと計画を立てていた。ところが家を出るのが遅れて、到着したのは開館の10分後くらい。展示室内が見るからに混雑していたので、あっマズい!と思った。ところが、人混みを突っ切って先に進むと、奥はまだ人がいない。みんな、冒頭の若冲と江戸絵画で滞留しているのだ。私のお目当て『伴大納言絵巻』は、第3展示室の奥の壁際にあった。まだほとんど他に人がいなかったので、行きつ戻りつ20分くらい眺めていた。

 冒頭は、まだどこかのんびりした検非違使たちの巡行。黒い小札を赤い糸で綴じた揃いの鎧を身に着けている。馬上の人々は弓矢を携え、徒歩の従者たちが剣を持っている様子。剣は直刀っぽい。何人かが松明を持っているのは、夜であることを示すのだろう。

 次第に人々の足取りが早くなり、注意が前方に向けられる。朱雀門を潜って、群衆が大騒ぎをしながら眺める先には、凄まじい炎と黒煙に包まれた応天門(よく見ると瓦屋根が見える程度)。反対側(大極殿側)でも貴族たちが呆然と眺めている。これ、同じ野次馬でも、門の内外の身分の対比を、けっこう意識して描き分けているように思う。外の群衆の中には女性がいない(たぶん)が、内側には、垂髪の女性が二人混じっている。なお、今回の展示は上巻のみ。え~中巻、下巻も見たくなってしまった。この作品が出光コレクションに入ったのは、2代目館長・出光昭介のときというのも初めて知ったので書き留めておこう。

 さて冒頭に戻って、鑑賞スタート。プライスさん、若冲の『鳥獣花木図屏風』を日本に譲ってくれて、本当にありがとうございます。縁取り模様が緑と茶色で、唐三彩のタイルみたいだと思った。仙厓『双鶴画賛』は出光佐三氏が最後に収蔵した作品で、賛に「鶴は千年、亀は万年、我は天年」という。鈴木其一『蔬菜群虫図』は、上からキュウリ、ナス、ヘビイチゴの重なりを描いているが、視点の位置がヘンで、非現実的な雰囲気を漂わせる。クールなシュールレアリスム絵画みたいで江戸絵画畏るべし。

 酒井抱一は『風神雷神図屏風』(光琳作品を写したもの)に加えて、『十二ヵ月花鳥図貼付屏風』と『十二ヵ月花鳥図』(元プライスコレクション)を同一展示室内で見比べる楽しみあり。たとえば1月はどちらも梅だが、後者には赤い太陽が添えられている。10月はどちらも柿の木だが、前者は目白(?)、後者はカラスを配する、など。

 山水画では与謝蕪村『山水図屏風』に見惚れてしまった。いやー本場の明清の山水図みたいに巧い。それに比べると、池大雅や田能村竹田は和風な感じがする。こっちが好きな人もいるだろうけれど。

 『祇園祭礼図屏風』は学生の頃に見て、派手な母衣武者の出で立ちに驚き、風俗画の面白さを知った作品。『江戸名所図屏風』は、もちろん黒田日出男先生の『江戸名所図屏風を読む』が副読本(向井将監邸を見つけてニヤリ)だが、男女問わず、描かれた人々の目もとが妙にくっきりしているのも好き。

 古筆は、高野切第一種と継色紙(むめのかの)を堪能。ほかに久松切倭漢朗詠集や中務集が出ていたのは、出光佐三の好みに従ったセレクションだったようだ。いま、出品リストを見直したら、江戸絵画以外は全て国宝・重文・重美指定という、とんでもない展覧会だった。

 丸の内の出光美術館に入れるのは、これが最後になるだろうか?と、ちょっと感傷的になっていたのだが、11月~12月にまだ次の展覧会があるらしい。よかった。お別れはもう少し先。

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お伊勢参り2024:松浦武四郎記念館

2024-09-21 22:18:13 | 行ったもの(美術館・見仏)

 お伊勢参り旅行最終日、地元の友人が朝から車を出してくれることになって、三人で松浦武四郎記念館へ。東京を発つ前にいろいろ調べたのだが、公共交通によるアクセスがかなり限られる立地で、今回はあきらめようと思っていたところ、念願が叶ってうれしい。稲穂の揺れる田園風景をドライブして無事到着。

松浦武四郎記念館 企画展『武四郎の晩年』(2024年7月26日~9月29日)

 「北海道の名付け親」として知られる松浦武四郎(1818-1888)は伊勢国一志郡須川村(現・松阪市小野江町)生まれ。同館は、松阪市(旧三雲町)が、松浦武四郎の功績を偲び、松浦家で代々大切に保存され、寄贈を受けた武四郎ゆかりの資料を展示する博物館として1994年に開館したもので、今年が開館30周年になる。2022年にリニューアルされたこともあり、映像やビジュアル資料を効果的に使った、分かりやすい展示になっていた。まあ、松浦武四郎の生き方自体がおもしろいことも大きいのだが。

松浦武四郎誕生地

 記念館から徒歩10分くらい。記念館で共通入場券を購入すると、地図が貰えて、道順を案内してくれる。「誕生地」というので、ポツンと石碑でも立っているのかと思ったら、瓦屋根の立派な旧家が残っていた。奥から案内人のおじいちゃんが出て来て、説明をしてくれる。ここは武四郎の実家で、父親は庄屋を営み、武四郎の兄が跡を継いだ。その子孫の方が改築して代々住んでいらしたが、史跡として保存公開するため、むかしの状態を復元したとのこと。

 家の前は伊勢街道で、毎日、多くの旅人が行き来する様子(おかげ参りの時代!)を見て、武四郎少年は旅への憧れを育んだといわれる。現在は、ほとんど人通りがなく、空き家も多くなってしまったそうだ。家ごとに「屋号」の看板を出しているのは、観光プロモーションかもしれないが、おもしろかった。

 武四郎は、ほとんど実家に帰らなかったそうだが、唯一、この石灯籠は「従五位守開拓判官阿倍朝臣弘建之」と彫り込まれた記念の品である。武四郎、正式の名乗りは阿倍弘なのか。

 母屋の奥には、広い中庭、土蔵(武四郎の関連資料がたくさん保存されていた!)が並び、生垣で仕切られた隣家の庭に大きな桜の木が育っている。1960年、金田一京助博士が武四郎の実家を訪ねてきた際に植えたもので、「金田一桜」と呼ばれているそうだ。当時は、ほとんど松浦武四郎の功績を語る者はなく、昭和30~40年代にかけて、徐々に知られるようになったのだという。ちょっといい話だ。

(おまけ)松浦武四郎記念館の「週刊武四郎」は、おそらく展示では紹介し切れなかったおもしろい話が読めて、大変ありがたい。

 帰りは伊勢中川駅まで車で送ってもらい、解散。

真宗高田本山 専修寺(三重県津市一身田町)

 旅の最後に、地元の友人のおすすめもあったこの寺院に寄っていくことにした。まあとにかく敷地が広くて伽藍がデカい。真宗寺院というのは、戦いに備える「城」だなあ、としみじみ感じた。宝物館の燈炬殿では、仏教文化講座特別展観『学山高田の文化』(2024年8月1日~9月29日)を開催中で、応挙や原在明の絵画があり、石水博物館で聞いた「伊勢商人は四条円山派が好き」とつながる気がした。また宮家との縁で昭憲皇太后(たぶん)から下賜された工芸品の中にあった、リアルすぎる象牙製の『栗置物』、その場で名前が思い出せなかったけど、安藤緑山だろうな、おそらく。

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お伊勢参り2024:外宮、内宮界隈

2024-09-20 23:48:40 | 行ったもの(美術館・見仏)

 お伊勢参り2日目は久居駅で友人2人と落ち合って伊勢市に向かうはずだったが、友人たちは改札で待っていたのに、私は先にホームに降りており、ひとりで予定の列車に乗ってしまうというアクシデント。それでもなんとか外宮の入口で落ち合うことができた。

式年遷宮記念せんぐう館

 朝からすでに暑いので、外宮の入口にある展示館で少し涼んでいくことにする。伊勢神宮の歴史、特に式年遷宮と御装束神宝の調製にかかる技術を紹介する展示館。外宮正殿東側の原寸大模型が見どころで、実際には近づけない距離から細部を観察することができる。欄干に「五色の座玉(すえたま)」が置かれていることを初めて知った。調べたら、伊勢神宮と丹後の籠神社(このじんじゃ)にしかないそうだ。「伊勢神宮のふるさと」とも呼ばれる籠神社、成相寺に行ったときに寄ったことがあるかもしれないが、また行ってみたい。

 ほかにも伊勢神宮の摂社末社など関係神社の一覧や、それらも基本的に式年遷宮を繰り返すシステムであること、毎日、朝夕の神饌を奉る神官のつとめなど、興味深い展示だった。

外宮(豊受大神宮)

 地元出身の友人の案内で、別宮(多賀宮、土宮、風宮)をめぐって、正宮に参拝。私が前回、お伊勢参りに来たのは、2013年の遷宮直後の2014年1月だったので、まだ新旧の社殿が並んでいたが、現在は旧社殿跡は更地になって、令和15年(2033)の式年遷宮に備えていた。ふむ、2033年なら、まだ私も体験することができるかな。

月夜見宮

 外宮の神域から少し離れたところにある別宮で、月読尊(ツクヨミノミコト)を祀る。伊勢はアマテラス、出雲にはスサノオだと思ったら、伊勢には、ツクヨミも祀られているのかと認識を新たにした。しかし調べたら、出雲にも月読社はあるようだ。

 道路を隔てて、月夜見宮と隣り合っている小学校が、友人の母校であると聞く。

月読宮

 伊勢うどんの昼食のあと、近鉄で五十鈴川駅へ移動。ここにも内宮の別宮で、ツクヨミを祀る月読宮があるので立ち寄る。ここには三貴神の父母であるイザナギ・イザナミも一緒に祀られていた。イザナギ・イザナミも出雲や熊野のイメージだが、伊勢にもひっそりと(?)居場所があるのだな。

内宮(皇大神宮)

 おはらい町やおかげ横丁の人混みに揉まれながら、内宮の正宮と別宮(風日祈宮など)を参拝。外宮、内宮どちらにも風の神様が祀られているのだな、と思いながら、「神風の」は伊勢の枕詞だったことを思い出す。夕方からは、美味しいお酒を存分にいただいて、お伊勢参りの一日を終えた。

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お伊勢参り2024:本居宣長記念館、石水博物館

2024-09-18 23:12:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

 三連休はお伊勢参り旅行へ。初日は夕方、友人たちと落ち合う間ではひとりで観光。名古屋から近鉄週末フリーパスを使って松阪へ向かった。駅に下りると「ベルタウン」という不思議なかたちの商業施設が目についたが、人影は少なかった。観光ルートをたどって、松阪城跡にある本居宣長記念館へ。

本居宣長記念館 令和6年 秋の企画展『もののあはれを知る~宣長とひもとく「源氏物語」~』(2024年9月10日~12月8日)

 今年の大河ドラマにちなんだ『源氏物語』がテーマとは言いながら、展示品はほぼ文献資料で、華やかな絵画や服飾資料はないので、辛気臭いだろうなあと思ったが、意外と面白かった。『源氏』を読むには一語一語の意味を正しく理解すべき、というような提言があって、古典研究の基本的な方法論は、この頃から変わっていない気がした。読みたい本を求めてはるばる旅をしたり、用例を集めて言葉の来歴を探ったり、先生に学び、仲間と議論し、自分の論考をまとめるなど、現代の研究者の行動様式とあまり変わらない。

 私は30年くらい前にもこの施設に来たことがあるのだが、こんなに明るく、誰にでも分かりやすい展示だった記憶がない。調べたら、2017年にリニューアルされているので、展示の方針もいい意味で見直されたのではないかと思う。

 なお、記念館の隣りには、本居宣長旧宅が移築されている。2階の書斎が「鈴屋」だが、2階には上がれない。写真は、玄関の正月飾り(笑門飾り)。伊勢地方では一年中見ることができる。

■三井家発祥地(松阪市本町)

 三井家については、最近、おもしろい著作や展覧会のおかげで関心が増しているので、「遠祖」三井高安が住みつき、孫の高利が生まれ育った、ゆかりの地を訪ねてみた。松阪観光協会三井広報委員会のホームページを見ると、屋敷門や井戸が残っているようだが、無粋な板囲いをされていて、何も見えず。ガッカリ。

 これで松阪観光を切り上げ、久居へ移動。駅前からバスで石水博物館へ向かう。

石水博物館 洛東遺芳館所蔵名品展『京商人の美意識』(2024年9月14日~11月17日)

 同館は、江戸時代に伊勢商人の豪商であった川喜田家の旧蔵資料を中心とする博物館。久居駅から津駅方面行のバスに乗り「青谷口」で下車して、用水池をまわりこむように歩いていくと、全面ガラス張りのモダンな博物館に行きあたる。

 この日から始まった展覧会では、京都五条にある洛東遺芳館のコレクションを紹介する。洛東遺芳館は、京の豪商であった柏屋(柏原家)伝来の婚礼調度・絵画・浮世絵・工芸品・古書古文書等を所蔵する博物館だという。同じ商人どうし、しかも川喜多家と柏原家は親戚どうしということで貴重な作品をたくさん出陳してくれたのだそうだ。ちょうど学芸員の方のギャラリートークが行われており、楽しく拝聴した。応挙、呉春など、円山四条派の作品が多く、こうした写実的な絵画は伊勢商人に好まれた、という解説に納得した。また宋紫石の『猛虎図』6曲1双屏風が30余年前に板橋区立美術館に出陳して以来とのこと。2階展示室の川喜多半泥子の作品も面白かった。

 収蔵庫として使われている千歳文庫(非公開)は、もう少し近づけるのかと思ったら、本館の回廊から木立越しに眺めることしかできなかった。女性の職員の方が「冬は木の葉が落ちて、もう少し見やすいんですが…」と申し訳ながっていた。

■忠犬ハチ公像(久居駅前)

 最後は久居駅に戻って、忠犬ハチ公と飼い主の上野英三郎先生(久居市出身)の像を眺める。ハチ、先生と一緒で嬉しそうだね。

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陶芸家の息子/昭和モダーン モザイクのいろどり(泉屋博古館)

2024-09-11 22:11:22 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館 特別展『昭和モダーン モザイクのいろどり 板谷梅樹の世界』(2024年8月31日~9月29日)

 昭和のモザイク、特に興味ないなあ…と思っていたが、本展が取り上げるモザイク作家・板谷梅樹(いたやうめき、1907-1963)が、陶芸家・板谷波山(いたやはざん、1872-1963)の息子であるという情報をネットで見て、興味が湧いて、見て来た。

 エントランスホールに展示されていたのは、縦長の巨大なモザイク壁画。遠景には三角形に立ちあがった富士山、雲海と山並み・森林を挟んで、清流が手前に向かって流れている。近代水道発祥の地・横浜市の依頼で制作され、日展に出品されたのち、横浜市水道局に納められた『三井用水(みいようすい)取入所風景』(1954年)という作品である。その後、1987年に近代水道100周年を記念して開館した横浜水道記念館の1階ロビ-に展示されていたが、2021年の同館閉館に伴い、板谷波山記念館に寄贈されたという。

 雪をいただく富士山の山肌は、色の違うパーツを並べて繊細に表現されており、印象派の絵画を思わせる。一方、岸辺の草木は、抽象的な形態にまるめられていて、琳派のデザインのようでもある。しかし昭和の人間としては、モザイク画の富士山を見たとたん、風呂屋の壁画を思い出して苦笑してしまった。

 展示室に入って、また大きな壁画があると思ったら、これは写真パネルだった。有楽町にあった日劇にあった壁画だという。あとで、講堂で放映されていた「さらば日劇(仮)」という短編動画を見たら、日劇は昭和8年(1933)竣工。1階玄関ホ-ルには、板谷梅樹のモザイク壁画「音楽」「平和」「戦争」「舞踊」4作品が設置された。古代ギリシャの壺絵ふうの人物群像で、華やかな色彩が使われている。戦争中は風船爆弾の工場に使われた(!)こともあったが、復活。しかし梅樹のモザイク壁画は、戦後の大衆路線に合わないと見做され、タイアップ商品の物販売場を設置するためにベニヤ板で覆われてしまった(Wikiによれば1958年)。

 1981年、施設の老朽化に伴う解体工事の際に、壁画が「発見」された。新ビル(有楽町マリオン)に移設する案もあったが、重量の問題等で実現せず、仮の保管場所だった東宝砧撮影所の閉鎖に伴い、2000年に廃棄された。うわああ…そんなのありか、と頭を抱えたが、どこかで権威を与えられた「芸術」ではない、一般の「装飾芸術」としてはやむをえない運命なのだろうか。

 わずかに小型の壁画3面が遺族に引き取られ、一部は渋谷の「染織工芸 むら田」にあるという。お店のホ-ムページに「祖父のモザイク」とあるので、梅樹のお孫さんのお店なのだろうか。そして場所を探したら、あ、山種美術館や國學院大學の近隣ではないか。今度、そっとお店の前まで行ってみよう。

 展示されている梅樹の作品は70件ほど。ほとんどが個人蔵である。壁画のような大作は、施設の老朽化とともに失われてしまうものが多いのだろう。煙草箱、飾り皿などは、次第に作者の名前を忘れられて、いわば「民藝」として残っていくのかなと思った。小さな面積で色とかたちを楽しむ、遊び心にあふれたブロ-チやペンダントヘッドには、時代を超えた魅力がある。帯留もおしゃれ。比較的大型の作品「きりん」は、首を下げたポーズが琳派の鹿みたいだと思った。

 梅樹のモザイクとあわせて、板谷波山の陶芸作品も展示されていた。波山は出光佐三だけでなく、住友春翠の支援も受けていたのだな。2011年、波山の田端旧宅からは、おびただしい陶片とともに、モザイクやステンドグラスの材料片も見つかっている。ブルーグリーンの材料片(色ガラス?)が展示されていて、美しかった。それにしても、父・波山と息子・梅樹が同じ1963年に没していることに気づいて、いま複雑な気持ちでいる。

※(参考)田端文士村記念館:『開館20周年記念誌』は、板谷波山と家族に関して詳しい。「学習院大学教授荒川正明先生の御助力で、波山の家の土台や陶片などは、郷里下館の有志や学生の皆さんが丁寧に発掘して、下館の波山記念館に納められました」という記述を見つけて唸る。荒川先生!出光美術館の学芸員だった方だ。

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神さまの乗りもの/神輿(國學院大學博物館)

2024-09-07 23:20:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

國學院大學博物館 企画展『神輿-つながる人と人-』(2024年6月29日~9月16日)

 国学院大学が所蔵する祭礼を描いた屏風、絵巻、刷り物などから「神輿とは何か?」を紐解き、さらに「祭りの力」についても考える。絵画資料が多くて、視覚的におもしろかった。

 展示パネルによれば、神輿が歴史の舞台に登場するのは、天慶8年(945)志陀羅神などの神輿が摂津の国から移動したときのことだという。図録の解説はもう少し詳しくて、『続日本紀』によれば、天平勝宝元年(749)宇佐八幡宮の八幡神は東大寺の大仏建立を助けたいとの託宣を下し、約1ヶ月かけて平城京へ上京したが、神輿を使用したかどうかは明確でない。神輿の明確は記事は、『本朝世紀』天慶8年(945)7月28日の条になる。はじめは志陀羅神など3基の神輿と記されていたものが、自在天神(菅原道真公の霊)と八幡神という認識に変化していく。このへん、当時の社会背景(災害、感染症、内乱)や、名前の挙がっている神々の性格を考えると、とても興味深い。

 その後、天延2年(974)の祇園御霊会を早い例として、神輿で神々が移動する祭りのかたちが定着する。この前提として「古代において、神霊は『坐す』存在であり、八幡神ほか、特定の神々を除けば、原則として移動することはなかった」と説明されていたけど、そうかなあ。移動を繰り返して最終的に「坐す」に至る神々はけっこう多いように思う(伊勢神宮もそうだし)。

 展示資料では『付喪神絵詞』(江戸時代後期)が可愛かった。ネズミやウサギみたいな付喪神たちが、面を付けたり、獅子舞を演じたり、神輿を担いだりしている。歌川芳宗の錦絵『天王御祭礼之図』は、モブ(群衆)の表情にひとりひとり個性があって、細かく眺めると楽しい。

 この日は、行ってみたら「神輿を担ぐ!(学生神輿サークルによる実演と解説)」というイベントがあったので、参加してしまった。神輿サークル「若木睦(わかぎむつみ)」の学生さん4名による神輿トークで、この展示を担当した大東敬明先生が話を聞くかたちで進行した。典型的な「江戸前担ぎ」として紹介されていたのは、神田明神の神田祭、赤坂日枝神社の山王祭。神田祭では法被の下は上下とも黒が正式なのだそうだ。あれ?深川八幡祭りは白だな。季節が関係しているのか、それとも水をかぶるからか。

 本来、神輿は神様を乗り移らせ、巡行するものだが、靖国神社のみたままつりでは、英霊は社殿から動かないので、ただ賑やかな祭礼を見せて英霊を慰めるのが目的だという。品川の天王祭は「城南担ぎ」と言って、江戸前担ぎとは全く様子が異なる。神奈川県の湘南地方には「どっこい担ぎ」というのもあるそうだ。大東先生いわく、「どれが正しいんですか?」と聞かれることがあるが、その地域で長年受け継がれてきたものが正しいんです、という説明に同感である。

 須賀神社(栃木県小山市)祇園祭の神輿は「アンゴステンノ-」という不思議な掛け声をかけるそうで、大東先生の「南無牛頭天王」が訛ったものだろうという解説に深く納得した。おもしろいなあ。もっと各地の神輿を見たくなってきた。

 最後はフロアの椅子を片付けて、学生さんたちが実際に神輿を担いで見せてくれた。神輿好きらしいおじさんが飛び入り参加をしていたが、足の運びがかなり複雑で、素人がいきなり担げるものじゃないなあと思った。

(おまけ)最近、國學院大學博物館に行くときは、学食に寄ってランチをいただくことにしている。学外者も利用しやすくてありがたい。

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深川江戸資料館を訪ねる

2024-09-03 20:54:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

深川江戸資料館(江東区白河)

 門前仲町の住民になって8年目、ようやくご近所・深川江戸資料館を見てきた(コロナ禍でなかなか機会がなかったのだ)。こじんまりした施設ではあるけれど、天保年間頃の深川佐賀町の町並みの「情景再現、生活再現展示」が見どころである。

 私が展示場に入ったときは夜の設定で、夜空に月が浮かんでいた。舂米屋の土蔵の隣り、長屋の屋根でぶち猫が眠っている。その下は三味線のお師匠さんの住まいという設定。

 八百屋の店先。青物だけでなく、卵やコンニャクも商う。

 棒手振りの住まい。深川らしく、桶の中には貝がゴロゴロ。私は子供の頃、夏休みになると、深川森下町の従兄弟の家(母親の実家)に泊まりにいくのが楽しみだったが、昭和40年代でも、朝早くアサリ売りが町を歩いていた。寝床で聞いた「ア~サリ~シ~ジミ~」という売り声を覚えている。

 蕎麦屋の屋台。稲荷寿司や天ぷらの屋台もあった。必要な食品・調理道具・食器などを効率よく収納できる構造になっていて、おもしろい。

 川岸の杭には、都鳥ことユリカモメ。赤い嘴と赤い脚が特徴である。

 狭いエリアに、船宿、火の見櫓、稲荷、共同井戸と便所など、見どころをうまくまとめていると思ったが、解説パネルを読んだら、実際に深川佐賀町(隅田川東岸、永代橋の北側)の絵図に基づいて再現されているのだそうだ。

 なお、同館は昭和61年(1986)開館とのこと。私は、昭和の終わりか平成のはじめに、三谷一馬氏の『江戸物売図絵』の展覧会を見に来たことがあり、展覧会も楽しかったが、この街並み展示も面白かったことを強く記憶している。30年ぶりに再訪できてうれしかった。次は何かイベントの時に来てみよう。

 1階には、江東区名誉区民でもある横綱大鵬を顕彰するコーナーがあった。私は大鵬を覚えている世代だが、それよりもこのひとは樺太(サハリン)の敷香町(ボロナイスク)の生まれで、現地の郷土博物館に関連展示があったことを思い出し、その距離感をしみじみ味わった。

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理想の推し活/高畠華宵が伝えてくれたこと(弥生美術館)

2024-09-01 20:51:42 | 行ったもの(美術館・見仏)

弥生美術館 開館40周年 生誕祭!『大正ロマン・昭和モダンのカリスマ絵師 高畠華宵が伝えてくれたこと』(2024年7月6日~9月22日)

 1階展示室では、大正末から昭和初期にかけ、絶大な人気を誇ったイラストレーター・高畠華宵(1888-1966)の作品を展示。私はさすがに華宵の人気をリアルに知る世代ではないのだが、2015年の『橘小夢展』を見に行ったとき、常設エリアの華宵に関する展示があまりに面白かったので松本品子編『高畠華宵』を買って帰り、ますますその魅力に引き込まれてしまった。

 華宵の描く少年・少女は、いずれも訴えるような三白眼が印象的で、現実離れした美形だが、肉体が生々しい実感を持っている。女性は、意外とむっちりした肉付きが魅力的。

このイラストは手塚治虫の『リボンの騎士』に影響を与えているんじゃないかと思った。

古代エジプトを舞台にした小説の挿絵も描いていて、1970年代の少女マンガのエジプトブームを思い出した。直接の影響関係はないかもしれないけど。

 華宵は鎌倉・稲村ケ崎一ノ谷(いちのやと)の自宅兼アトリエ「華宵御殿」に「弟子の美少年たち」ともに住んでいた(とパネルに書いてあってドキッとした)。彼らに特別にモデルをさせることはなく、ただ日常の様子をスケッチしていたという。夜になるとトルコ風のアーチのある寝室に籠ったそうで、これは写真をもとに会場内に再現された寝室の風景。

 生い立ちの紹介を読むと、幼い頃は女の子と人形遊びをしたり、一人遊びをすることを好む子供で、のちに「私自身の素質の中に、余りにも女性に似たものがある」とも語っている。しかし一方「女性を寄せ付けなかった」という証言もあり、唯一の例外が古賀三枝子さん(のちに弥生美術館館長)だった。複雑なジェンダーの持ち主という感じがする。

 2階展示室の物語は、華宵の存在がすっかり忘れられた1960年代から始まる。戦前、熱烈な華宵ファンだった弁護士・鹿野琢見(かの たくみ、1919-2009)は、華宵が明石市の老人ホームで暮らしていることを知り、書簡を交わし、華宵会(ファンダム!)を発足させ、華宵の復権のために奔走する。ついに弥生町の自宅に華宵を招き、1966年、華宵の最期を看取り、その後、華宵の遺族から著作権を譲渡される。そして鹿野の自宅を活用して、1984年に創設されたのが弥生美術館なのである(のちに竹久夢二美術館を併設)。

 いやもう「推し活」の究極の姿ではないかと思った。自分の満足のために起こした行動が晩年の「推し」の幸せを生み、さらに同じ「推し」を持つ仲間、あるいは未来の仲間のために美術館を建ててしまうのだから。

 40年前、雑誌の挿絵や漫画・イラストを正面切って取り上げる公設の美術館はほとんど無かった。1階展示室で、同館の過去の企画展のポスターを振り返るスライドが流れており、その功績の大きさをしみじみ実感した。

 なお、3階展示室では日本出版美術家連盟(JPAL)の作家展を開催中。見たかった『小松崎茂展』(2024年7月30日〜9月1日)を見ることができた。これはネットミームとしてもそこそこ有名な、攻めてくるイルカ。『なぜなに学習図鑑:なぜなに からだのふしぎ』掲載。

1980年に描かれた「宇宙コロニー」の図。

ふつうの町風景の写生画も出ていて興味深かった。

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