○東京都美術館 『ボルゲーゼ美術館展』(2010年1月16日~4月4日)
西洋美術の展覧会は、混むから嫌い。雨の日曜日、そう思いながら、会場内に入ったら、閑散としていた。展覧会のハイライト『一角獣を抱く貴婦人』の前にも、誰も立っていなくて、ゆっくり独り占め状態で眺めることができた。等伯展の混雑ぶりを思い合わせると、時代は変わったなあ、と思う。日本人として喜ぶべきなのか…。でも、あんまり内に向かう関心もよくないんじゃないかと、ちょっと複雑な気持ちを味わう。
ローマ市北東に位置するボルゲーゼ美術館は、ボルゲーゼ家歴代のコレクションで知られる、ルネサンス・バロック美術の宝庫だそうだ。会場の展示は、15世紀から17世紀まで、時系列に沿って作品が並んでいる。15世紀(実際は16世紀初頭まで)の作品は、純潔の象徴の白百合とか、豊穣を表わすザクロとか、明らかな「寓意」がいろいろ描き込まれていて面白い。1505年作の『祝福のキリスト』(ドッジョーノ)は地球儀を持っているが、地球球体説は1474年にトスカネッリが唱えた説で、現存最古の地球儀は1492年の制作だそうだから、これは最新の科学機器を携えたキリスト像とも言えるだろう。
この時代の代表作、ラファエロの『一角獣を抱く貴婦人』は、澄んだ青い空、深紅のビロードの袖がシンプルに美しい。女性の胸に抱かれた一角獣は「貞節」のしるしだが、ミニチュアダックスフンドみたいで(笑)あまり「寓意」を感じさせない。振り返って、背後の解説パネルを読んでみたら、この作品、20世紀初頭までは、車輪に手を添えた貞女カタリナの図像とされてきたのだそうだ。それを、美術史家ロンギの監修で修復してみたところ、車輪の下から一角獣(ただし、もとは犬として構想されたらしい)が姿を現したという。えええ~。これは、塗り重ねが基本の油彩ならではのエピソードだろう。東洋美術では、ここまでの改変は、なかなかないのではないか。
1階の最後に、びっくりする作品が待っていた。アルキターナ・リッチによる『支倉常長像』である(Wikiに画像あり)。伊達政宗の家臣として、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡航し、ローマで貴族に列せられた人物だ。白地に花鳥文を金蘭で縫い取りしたような羽織・袴姿。足袋も豪奢。これは、日本で作った羽織袴を持っていったのだろうか? それとも? 画家の誤解が混じっている? 解説によれば、ローマに到着した常長一行は、ボルゲーゼの館(現・美術館)で歓迎の宴に出席したそうだ。ちょうど、この肖像画の直前がビデオシアターになっていて、現在のボルゲーゼ美術館の様子を見ることができるのだが、四百年前、支倉常長も、この天井画や大理石の彫刻群を見上げたのだろうか、と思うと、ひときわ感慨深いものだある。
2階に上がると、16世紀、ルネサンス百花繚乱の時代。どの作品も、それぞれに安定感を感じる。私は、ヴェロネーゼ『魚に説教する聖アントニオ』が好きだ。17世紀は、カラヴァッジョ(1571-1610)とその追随者たちが、写実主義と強烈な明暗という、新たな表現方法を模索した時代だった。カラヴァッジョの『洗礼者ヨハネ』は、まあなんというか、聖人らしさが微塵もなくて、不貞腐れた浮浪者みたいだと思った。そこが色っぽいんだけど。少したるんだ肉のつきかたが生々しい。この作品は、ふとした口論から殺人を犯して逃亡中だったカラヴァッジョが、パトロンであるボルゲーゼ卿に取りなしを願い出るために描いたものだという。いや、こういう天才に捕まると、パトロンも大変だね、全く。
西洋美術の展覧会は、混むから嫌い。雨の日曜日、そう思いながら、会場内に入ったら、閑散としていた。展覧会のハイライト『一角獣を抱く貴婦人』の前にも、誰も立っていなくて、ゆっくり独り占め状態で眺めることができた。等伯展の混雑ぶりを思い合わせると、時代は変わったなあ、と思う。日本人として喜ぶべきなのか…。でも、あんまり内に向かう関心もよくないんじゃないかと、ちょっと複雑な気持ちを味わう。
ローマ市北東に位置するボルゲーゼ美術館は、ボルゲーゼ家歴代のコレクションで知られる、ルネサンス・バロック美術の宝庫だそうだ。会場の展示は、15世紀から17世紀まで、時系列に沿って作品が並んでいる。15世紀(実際は16世紀初頭まで)の作品は、純潔の象徴の白百合とか、豊穣を表わすザクロとか、明らかな「寓意」がいろいろ描き込まれていて面白い。1505年作の『祝福のキリスト』(ドッジョーノ)は地球儀を持っているが、地球球体説は1474年にトスカネッリが唱えた説で、現存最古の地球儀は1492年の制作だそうだから、これは最新の科学機器を携えたキリスト像とも言えるだろう。
この時代の代表作、ラファエロの『一角獣を抱く貴婦人』は、澄んだ青い空、深紅のビロードの袖がシンプルに美しい。女性の胸に抱かれた一角獣は「貞節」のしるしだが、ミニチュアダックスフンドみたいで(笑)あまり「寓意」を感じさせない。振り返って、背後の解説パネルを読んでみたら、この作品、20世紀初頭までは、車輪に手を添えた貞女カタリナの図像とされてきたのだそうだ。それを、美術史家ロンギの監修で修復してみたところ、車輪の下から一角獣(ただし、もとは犬として構想されたらしい)が姿を現したという。えええ~。これは、塗り重ねが基本の油彩ならではのエピソードだろう。東洋美術では、ここまでの改変は、なかなかないのではないか。
1階の最後に、びっくりする作品が待っていた。アルキターナ・リッチによる『支倉常長像』である(Wikiに画像あり)。伊達政宗の家臣として、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡航し、ローマで貴族に列せられた人物だ。白地に花鳥文を金蘭で縫い取りしたような羽織・袴姿。足袋も豪奢。これは、日本で作った羽織袴を持っていったのだろうか? それとも? 画家の誤解が混じっている? 解説によれば、ローマに到着した常長一行は、ボルゲーゼの館(現・美術館)で歓迎の宴に出席したそうだ。ちょうど、この肖像画の直前がビデオシアターになっていて、現在のボルゲーゼ美術館の様子を見ることができるのだが、四百年前、支倉常長も、この天井画や大理石の彫刻群を見上げたのだろうか、と思うと、ひときわ感慨深いものだある。
2階に上がると、16世紀、ルネサンス百花繚乱の時代。どの作品も、それぞれに安定感を感じる。私は、ヴェロネーゼ『魚に説教する聖アントニオ』が好きだ。17世紀は、カラヴァッジョ(1571-1610)とその追随者たちが、写実主義と強烈な明暗という、新たな表現方法を模索した時代だった。カラヴァッジョの『洗礼者ヨハネ』は、まあなんというか、聖人らしさが微塵もなくて、不貞腐れた浮浪者みたいだと思った。そこが色っぽいんだけど。少したるんだ肉のつきかたが生々しい。この作品は、ふとした口論から殺人を犯して逃亡中だったカラヴァッジョが、パトロンであるボルゲーゼ卿に取りなしを願い出るために描いたものだという。いや、こういう天才に捕まると、パトロンも大変だね、全く。