見もの・読みもの日記

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「本」か「草」か/和本への招待(橋口侯之介)

2011-10-19 23:45:54 | 読んだもの(書籍)
○橋口侯之介『和本への招待:日本人と書物の歴史』(角川選書) 角川書店 2011.6

 誠心堂書店店主、橋口さんの本、(私にとっては)3冊目。前二著は、私たちが古書店等で目にすることの多い「江戸の本」を中心に書かれていたと記憶する。

 ところが、本書は「第1章 千年前の『源氏物語』を復元する」で始まり、「第2章 中世の本づくり」と続く。おお、大胆! 大丈夫か?と思ったが、すごく面白かった。千年前(書かれた当初)の「源氏物語」を想定することで、話がいちいち現実味を帯びてくる。そもそも冊子だったのか、巻子だったのかというと、藤原定家が記録した貫之自筆本の『土佐日記』は巻子本であり、『紫式部日記』に出てくる「物語」(源氏?)は冊子本である。

 平安時代、正式な書物は巻子だった。漢文の仏典や記録はもちろん、仮名日記も巻子だった(鎌倉時代に入ると、次第にこの観念は弱まり、「玉葉」は冊子だったといわれる。→これを読んだ後、書陵部の展示会で「玉葉」の写本を見たので興奮したのである)。歌集も正式な勅撰集は巻子にし、私家集は粘葉装(冊子)にしたという。すごい~。私は、これでも大学で日本文学を学んだのだが、こういう物理的形態についての講義って、ほとんど聞いた覚えがない。

 しかし、中世のはじめ、明確な意思をもって書物の形を改めた人物がいる。藤原定家である。定家は、書写した本のほとんどを冊子に、歌集や物語は列帖装にした。詳細は省くが、列帖装のほうが合理的な装訂だったからである。それと、巻子本や粘葉装は、貼り合わせに糊を用いるので害虫がつきやすい。この点でも糸綴じのほうが優れている。そうだったのか! これまで、たくさん糸綴じ本を見てきたのに「糊を使わない」利点を一度も考えたことがなかった。

 中世には、より簡単な糸綴じ方法「袋綴じ」が一般化する。中世において、書物の収集・保存を担ったのは寺社勢力だった。書写・校訂・註釈といったテキストを育てる仕事だけでなく、定期的な虫干しとか、火災や変事への備え(すぐ運び出せるように小ぶりな櫃に収められていた)とか、努力を惜しまなかった人々のおかげで、多くの書物が、今日の私たちのもとに伝わった。「文書史料残存度の国際比較によると、日本は最も数が多いといわれているが、その第一の功績は寺社の力である」に納得。感謝、感謝。

 近世以降の書物史は、同じ著者の前著と重なる記述もあった。ただ、読む側の意識の変化で、あらためて気づかされたことも多かった。たとえば、江戸期には多くの私家版が作られ、収益が上がる、類板の恐れがない、御公儀から御咎めがない、などの見極めがつくと、本屋が売り出しに名乗りを上げるという仕組みがあった、というのを読んで、電子書籍による自費出版支援システムを思い出してしまった。

 また、日本人の絵巻好きというか、画巻をスクロールしながら、同時に耳で物語を聞いて楽しむとか、画巻や絵本の挿絵にぐちゃぐちゃ書き込まれたセリフを拾い読みする楽しみ方は、今のわれわれが動画サイトでコメントやtwitterの流れを読む態度と、似ているかもしれない、と思った。

 著者は日本の書物史を、正統的でプロフェッショナルな書物「本」と、格下で大衆的な書物「草」のダイナミズムで考えていく。いつの時代も「草」は大胆で、次々と新しいアイディアを打ち出し、読者層を拡大してきた。それによって、かつて「草」だった書物が「本」に格上げされることもあった。

 だとすれば、話題の電子書籍も、まずは「草」の世界の変動として捉えることができるかもしれない。やれることはどんどんやってみればいい。「草」の変革エネルギーは頼もしい。と同時に、「『本』はよく残されるかわりに、『草』の方は残存度が低い」という著者の指摘も、心に留めおかなければならないと思った。

 近世までの「和本」の世界を跡形もなく消し去って、そのあとに来たのが近代というシステムだった。しかし、近代もそろそろ終わろうという時、その先にくる世界を想像するには、意外と過去に学ぶことが多いと、最近、思っている。
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