見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

無心の破壊力/朝鮮時代の絵画(日本民藝館)

2011-10-24 23:13:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
日本民藝館 『朝鮮時代の絵画-19世紀の民画を中心に』(前期:2011年9月13日~10月16日、後期:10月18日~11月23日)

 先々週末、今日が前期の最後だった!と気づいて、慌てて行って来た。そして、先週末には、始まったばかりの後期にも。なので、前後期まとめてレポートする。伝統的な描法や合理的な構図に捉われない、明快で大らかな魅力に満ちた「朝鮮民画」約100点を展示。

 まず前期。2階の大展示室に入って、あーなるほど、と思う。展示されているのが、いわゆる絵画作品だけでないのだ。屏風や軸物の間に、木工品や石像や陶磁器が、混然と並んでいる。本展の出品リストからは、それらは省かれているが、実際に鑑賞する際は、陶磁器に描かれた草花や動物も「民画」の一種として眺めていくことになる。リストに載っている作品にも、刺繍があったり、ガラス絵があったり、粉板(牧童図)があったりして、絵画と工芸の区別は曖昧である。ちなみに「粉板」とは、粉をこねるのに使うのかと思ったら、そうではなくて、習字の練習板だそうだ。

 面白かったのは、手書き・色絵入りの『占書』2冊。手に持って読むことを想定していないのか、やたらとデカい。1冊は漢文、1冊はハングルだった。手書きの縦書きハングルって、満州文字やモンゴル文字に似ていると思う。これは、刺繍の『狩猟図』を見て、朝鮮って両班(ヤンバン)文化だけでなくて、騎馬民族文化もそれなりに継承していたんだな、と感じた影響もあるかもしれない。

 大展示室を出ると、大階段の裏側には、金庾信(ユシン)墓の十二支像画像石の拓本5点(巳、酉、午、丑、龍)が展示されていた。驚くほど明瞭な拓本である。日本民藝館って、こんな資料も持っていたのか。ほか、大津絵や泥絵など、日本の絵画も味わいのある絵画資料が展示されていて面白かった。

 2階の第3展示室が、大展示室を補うかたちで、「鑑賞画と記録画」を中心とした朝鮮絵画の特集になっていることに気づく。さりげなく李巌の『花下狗子図』(16世紀)が出ていたりして、驚いた。これも日本民藝館の所蔵なんだなあ。同館では、ほとんど見たことがない。伝・李巌筆『猫蝶図』も好き。いま調べたら、中国では、猫と蝶に長寿を祝う意味があるそうだ(以上は前期のみ)。

 さて、後期である。一般の展示はほとんど変わっていないが、『朝鮮時代の絵画』に関しては、総入れ替えに近い。ただし、元来が無記名の民藝(民画)であるから、雰囲気はさほど違わない。注目は『天下図』(折本?)。前期は、朝鮮国内の地方図が展示されていたが、後期は、天下図・日本国図・琉球図・中国図・それに朝鮮全図(我国)の5図が開かれている。その天下図(世界図)があまりに稚拙で、ええ~19世紀でこれかよ~と思うと可笑しくて仕方ない。日本国図・琉球図もかなりテキトー。中国図は、さすがに主な地名の位置関係は正しく把握しており、文人の教養として、黄鶴楼とか岳陽楼とかまで正確なのが、また可笑しい。

 こんな書き方をすると朝鮮絵画を貶めているようだが、私は「どうしてこうなった」的な『瀟湘八景』とか、「朝鮮民画」の破壊力が大好きなのである。

 後期にも紙本の『狩猟図』が出ている。でも弓矢でなく、青龍刀や二刀流で、虎や猪を追いつめるって有り? 三国志演義や水滸伝の版本から、構図を借りてきているのではないかと疑う。馬上の人々は、お椀に毛皮を巻いたような帽子をかぶり、満州族の風俗に見える。余談だが、朝鮮民画の虎図って、前脚を交差させたポーズが多いのはなぜなんだろう。文字絵は前後期とも多かったが、後期に版画(墨摺)の『孝悌忠信』というのがあり、ふと谷中安規の作品を思い出した。谷中さん、一時期、朝鮮に渡っていたことがなかったっけ。

 第3室もすっかり入れ替わった。李巌の『架鷹図』が見られる。若冲の『鸚鵡図』を思い出す人もいると思う。『青紫聯芳図』は茄子と瓜の図。「中国・明時代(伝・朝鮮時代)」と成立時期・国が訂正されている。まだまだ、中国/朝鮮/日本絵画の整理って、これから進むんだろうな、と思う。『文官肖像』は、西洋絵画の学習を思わせる異色の写実画。でも、やっぱり民画のほうが好きだ。
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これからどうなる?/女性と学歴(橘木俊詔)

2011-10-24 00:10:06 | 読んだもの(書籍)
○橘木俊詔『女性と学歴:女子高等教育の歩みと行方』 勁草書房 2011.10

 一時期、格差論が流行って、さまざまな書き手が登場した中で、橘木さんは私の好みだった。声高に主義主張を唱えたり、危機感を煽ったりせずに、数量データを用いて淡々と語るスタイルに好感を持った。その後、2008年頃から、立て続けに大学論の著書を発表されていて、少し研究テーマを変えられたのかしら?と思っていたが、なるほど、本書を読むと、高等教育システムと格差の問題は、「学歴社会」をキーワードに直結していることが分かる。

 本書は、まず明治以来の日本の女子高等教育の「歩み」を概観する。言及されているのは、東京女子高等師範(現・お茶大)、津田英学塾、東京女医学校、日本女子大学校、東京女子大など。あまり多くのデータは残っていないので、橘木さんらしい切り口の分析は少ないが、各校の沿革史等を素材に、事実に即して語っていく。ところどころ「興味が尽きない」とか「不思議に思う」とか、学術書らしからぬ率直な感想が挟まれている。

 女子教育をめぐって、男性知識人たちが多く登場するのも、本書の面白いところ。東大総長・山川健次郎は、大正年間、内閣直属の臨時教育会議において「女子に高等教育を受けさせることは、民族の繁栄に害がある」と発言しているという。山川(大山)捨松の兄にして、この発言あり。東北帝国大学に女子を受け入れた沢柳政太郎総長は、大学経営の立場(東北大は旧制高校生の入学者が不足していた)から認めたのであって、積極的な男女平等論者ではなかったとか、同じく大正年間、九州帝大に2名の女子学士が誕生した際、リベラリストで知られる美濃部達吉教授は「僅か2人であるからその弊もなかろう」と発言しているとか…。まあ、こんな発言を後世に残されてしまった男性知識人も、迷惑な話だろうけど。

 なお、本書は「高等教育」の範疇を少し広げて、高等女学校進学者に関するデータ分析を行っている。高等女学校の教育水準は、男子でいえば旧制中学に等しい。しかし、特定の人々(女性)の中で、その教育を受けている人の数が少ない(1920年代で15%)ことは、これを高等教育とみなす根拠となる、と著者は述べている。ううむ、それでいうと、今の大学教育なんて、ぜんぜん高等教育ではないな。

 海外の女子教育への目配りも興味深かった。アメリカでは、第二次大戦後、経済的繁栄によって社会が保守化し、1950~60年代には、男性が外で稼ぎ、女性は家で家事と子育てに専念するという思想が有力になったという。そうか、アメリカの女性の解放(社会進出)というのも、決して単線的に進んできたわけではないのだ。1960~70年代、主にリベラル・フェミニズムの影響によって、アメリカの女子教育は大きな変革を迫られ、今日に至る。

 日本では、戦後、本格的に女子の高等教育が認められるにあたり、GHQは男女共学を原則としようとしたが、「本国アメリカでは私立学校で別学を認めているのに、日本の私立学校に共学を勧めるのはおかしい」という指摘を受け、多くの女子大学が誕生することになった。著者は、「私が関心を持つのは…旧制の女高師や女子専門学校が…ほとんどが共学化しなかった事実とその理由である」と述べている。これはどうやら、女子教育関係者の自負と、父兄の希望が大きかったらしい。一方で、現役女子学生は、むしろ共学化を希望していたことが、当時のアンケートから分かっているのが皮肉である。

 近年、女子の高等教育には、別学→共学へ、短大→四年制へという流れが顕著である。もうひとつ、女子教育全体としては「超高学歴層(名門・難関大学卒)」「高学歴層(女子大を含めた普通の大学・短大卒)」「低学歴層(高卒以下)」という三極化が進行しているという。では、これまで高学歴の男性によって占められてきた社会的な指導者層は、今後、「超高学歴層」の女性によって一部代替されていくのだろうか。著者は「そうあってほしい」と希望を述べつつ、そのための条件(考慮すべき点)を3つ挙げる。第一に、ワーク・ライフ・バランス。第二に、差別という障壁(の行方)。第三に、日本が学歴社会であり続けるか否か。

 学歴社会の風潮が続くほうが、高い学歴をもった女性たちは、社会の指導者層に到達しやすい。もし日本がその特色を放棄するような時代になれば、「競争は混沌としたものになる」。さあ、あなたの望む社会はどっち?と問われているような、悩ましい設問である。ちなみに著者は、企業や役所の昇進においては、学歴の比重が小さくなるが、いわゆる専門職に関しては、学歴社会の退潮はないと考えており、この方面への女性の進出に期待している。それはいいんだけど、これから社会の指導者層(管理職)は何で決まるようになるんだろう。学歴社会がベストだとは思わないが、「混沌」の行方が恐ろしくて、不安になる。
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