見もの・読みもの日記

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いつか私も/発心集(鴨長明)

2014-03-12 00:16:25 | 読んだもの(書籍)
○鴨長明著;三木紀人校注『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成) 新潮社 1976.10

 今回は「発心集」のみ。実は大学の授業で、つまみ食い的に読んだ経験がある。その後、社会人になってから、日本の説話文学にハマった時期があるので、一度くらい通読したのではないかと思う。2012年の夏に、ちくま学芸文庫の『方丈記』を読むにあたって「数ヶ月前から、鴨長明の『発心集』が読みたいと思っている」と書いているのだから、我ながらのんびりした話だ。

 居ても立ってもいられなくなって、本屋に走っていくような、強い読書欲とは違う。しかし、2年にわたって、ずっと読みたい気持ちが持続していた。考えてみると「発心」(仏門に入りたいという気持ち)もこんなふうに、人によりけりなのかもしれない。

 むかし習った「発心集」の説話で、最も印象に残っているのは「讃州源大夫、俄に発心・往生の事」という一編。数年前から、これが読みたくて「発心集」のテキストを探していた。今回、読んでみたら頭注に「往生譚のうち、もっとも感動的とされる有名な一編」とあるのに心から同意する。今昔物語等、いくつかの説話集に入る。「仏法の名をだに知らず、生き物を殺し、人を滅ぼすよりほかの事なければ」というから、在地の下級武士だったのだろうか、ある日、仏供養をしている家を通りかかり、導師の説法を聞いて「いといみじき事にこそ」と感動する(自分の行いを悔い改めるわけではないところがよい)。「我を只今法師になせ」と命じて出家し、「南無阿弥陀仏」を唱えながら西に向かい、ついに西海に面した岩の上で、眠るがごとく往生してしまう。なんともパセティックな往生譚。この時代に勃興する「武士」集団のエートス(道徳、心的特性)を垣間見る気がする。

 私は、源大夫のようなパセティックな発心に憧れているのだが、たぶん実際には、こういう果断で俊敏な行動はとれないだろう。もし「発心」することがあるとしたら、心の底に押し込めた憧れと何年も同居したあげく、最後は追いつめられて、行動を起こすのではないかと思う。

 どちらにしても、日本という国には、名利を厭い、往生極楽だけを一心に求めた人々が、ある時期まで一定数は存在したはずなのに、彼らの子孫はどこに消えてしまったのだろう。今の社会は、誰もが名望と利益に動かされていおり、名利を求めない生き方は「あり得ない」ことになっている。だからこそ私は本書を読み返したかったのだ。

 本書には、著名な高僧たちも登場すれば、歌人の西行、白河院、崇徳院など、著者に近い時代を生きた人々が、思わぬかたちで登場するエピソードも語られる。全く無名の人物しか登場しない短い物語もある。共通するのは、名利を厭い、往生を願う気持ちだけだ。いつか私も、彼らの仲間になりたい。
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