○三橋健『すぐわかる日本の神像:あらわれた神々のすがたを読み解く』 東京美術 2012.9
東京国立博物館のミュージアムショップで購入。特別展『みちのくの仏像』を見に行って、青森・恵光院の女神坐像がとても印象的だったので、帰りに通りかかった美術書コーナーで、本書を見つけて、パラパラめくってみた。そうしたら、ちゃんと写真が載っていた(54頁)ので、思わず買ってしまった。「最古期の木彫像から近世・近代の御影まで150点を超える神像を収録」という。
私は、仏像を見ることの楽しさに目覚めたのは早いが、神像(彫刻)に関心を抱くようになったのは遅い。だいたい、仏像に比べると神像は「秘匿」されていることが多くて、神社でも展覧会でも、書籍や写真集でも、実際に接する機会が非常に少ない。2013年の『大神社展』は、実に画期的な試みだったと思う。
本書には、私の乏しい見聞の範囲であるが、大好きな神像の写真がたくさん載っていて嬉しかった。京都・松尾大社の男神坐像は怖いなあ。冷ややかな霊威が漂っている。対になる女神坐像も立派な押し出しで威厳にあふれているが、円満な包容力も感じさせる。最古級だという島根・青木遺跡出土の男神坐像は、手のひらに収まるほどの小ささ。きわめて簡素な彫りで、厳めしさを表現する。『大神社展』で出会った、小浜・若狭彦神社の愛らしい男神・女神像は、人間の理想像を写実的に表していて、むつまじい若夫婦のようにも思われる。
本書は、日本の伝統に従って「神仏」の区別を曖昧におく。そのため「仏像」の範疇で紹介されることの多い彫像も、多数紹介されている。そもそも「仏」は「蕃神」「客神」「他国神」と呼ばれたわけだし、古い仏像は「神性」を宿している。長谷寺の十一面観音像とか新薬師寺の薬師如来坐像とか。奈良・融念寺の地蔵菩薩像は、どこかで見たと思ったら、2006年の『仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り』展に出ているんだな。そして当時、雑誌『芸術新潮』の表紙も飾ったようだ。「奈良を中心とする古代寺院に安置されている比丘形菩薩像のなかには神像と思われるものが少なくない」という解説に深く同意する、
女神像には、ときどき不思議なポーズのものがある。奈良・玉龍寺の女神像は、片膝を立て、裾から足の指が見えている。右手は膝の上。左手は袖で覆い、顔の下半分を隠して、両目だけを見せている。これ、写真には記憶があるのだが、実物は見ていないかなあ…。神奈川・箱根神社の女神立像は、羽織った袿(うちぎ)の袖を頭上にかざし、「いや~まいった」と頭を掻いているようなポーズ。面白いなあ。
神仏の習合、体系化(春日社寺曼荼羅、山王二十一社、熊野十二所など)の説明も図像が豊富で分かりやすかった。童女の姿をした雨宝童子は天照大神なのか。しかも大比叡明神の名前も持つ。老翁と女神のダブルイメージを持つ稲荷明神。由来不明の謎の神・荒神など、実は、時代が新しくなるほど、神々の機能分化が進み、正体不明の神格が増えてくる感じがする。
正直、清浄、慈悲をあらわす天照大神、八幡大菩薩、春日大明神の「三社託宣」は(鎌倉時代に現れたという説もあるが)庶民に広まったのは江戸時代からだそうだ。知らなかったので書いておこう。春日大明神が「赤童子」だったり、鹿に乗る老翁だったり、変幻するのも面白い。
まだ見たことのない(たぶん)神像で、見たいと激しく思ったのは、上述の奈良・玉龍寺の女神像と山梨・美和神社の男神立像(伝・大物主命)。あと小品だけど、富山・武部神社の片膝を立てた「動の男神」と「静の女神」。いつか会える日を信じて待つ。
東京国立博物館のミュージアムショップで購入。特別展『みちのくの仏像』を見に行って、青森・恵光院の女神坐像がとても印象的だったので、帰りに通りかかった美術書コーナーで、本書を見つけて、パラパラめくってみた。そうしたら、ちゃんと写真が載っていた(54頁)ので、思わず買ってしまった。「最古期の木彫像から近世・近代の御影まで150点を超える神像を収録」という。
私は、仏像を見ることの楽しさに目覚めたのは早いが、神像(彫刻)に関心を抱くようになったのは遅い。だいたい、仏像に比べると神像は「秘匿」されていることが多くて、神社でも展覧会でも、書籍や写真集でも、実際に接する機会が非常に少ない。2013年の『大神社展』は、実に画期的な試みだったと思う。
本書には、私の乏しい見聞の範囲であるが、大好きな神像の写真がたくさん載っていて嬉しかった。京都・松尾大社の男神坐像は怖いなあ。冷ややかな霊威が漂っている。対になる女神坐像も立派な押し出しで威厳にあふれているが、円満な包容力も感じさせる。最古級だという島根・青木遺跡出土の男神坐像は、手のひらに収まるほどの小ささ。きわめて簡素な彫りで、厳めしさを表現する。『大神社展』で出会った、小浜・若狭彦神社の愛らしい男神・女神像は、人間の理想像を写実的に表していて、むつまじい若夫婦のようにも思われる。
本書は、日本の伝統に従って「神仏」の区別を曖昧におく。そのため「仏像」の範疇で紹介されることの多い彫像も、多数紹介されている。そもそも「仏」は「蕃神」「客神」「他国神」と呼ばれたわけだし、古い仏像は「神性」を宿している。長谷寺の十一面観音像とか新薬師寺の薬師如来坐像とか。奈良・融念寺の地蔵菩薩像は、どこかで見たと思ったら、2006年の『仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り』展に出ているんだな。そして当時、雑誌『芸術新潮』の表紙も飾ったようだ。「奈良を中心とする古代寺院に安置されている比丘形菩薩像のなかには神像と思われるものが少なくない」という解説に深く同意する、
女神像には、ときどき不思議なポーズのものがある。奈良・玉龍寺の女神像は、片膝を立て、裾から足の指が見えている。右手は膝の上。左手は袖で覆い、顔の下半分を隠して、両目だけを見せている。これ、写真には記憶があるのだが、実物は見ていないかなあ…。神奈川・箱根神社の女神立像は、羽織った袿(うちぎ)の袖を頭上にかざし、「いや~まいった」と頭を掻いているようなポーズ。面白いなあ。
神仏の習合、体系化(春日社寺曼荼羅、山王二十一社、熊野十二所など)の説明も図像が豊富で分かりやすかった。童女の姿をした雨宝童子は天照大神なのか。しかも大比叡明神の名前も持つ。老翁と女神のダブルイメージを持つ稲荷明神。由来不明の謎の神・荒神など、実は、時代が新しくなるほど、神々の機能分化が進み、正体不明の神格が増えてくる感じがする。
正直、清浄、慈悲をあらわす天照大神、八幡大菩薩、春日大明神の「三社託宣」は(鎌倉時代に現れたという説もあるが)庶民に広まったのは江戸時代からだそうだ。知らなかったので書いておこう。春日大明神が「赤童子」だったり、鹿に乗る老翁だったり、変幻するのも面白い。
まだ見たことのない(たぶん)神像で、見たいと激しく思ったのは、上述の奈良・玉龍寺の女神像と山梨・美和神社の男神立像(伝・大物主命)。あと小品だけど、富山・武部神社の片膝を立てた「動の男神」と「静の女神」。いつか会える日を信じて待つ。