○雑誌『芸術新潮』2015年2月号「追悼大特集・超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」 新潮社 2015.2
2014年10月26日に亡くなられた赤瀬川原平さん(1937-2014)の大特集である。でも追悼「大特集」って言うのかね。表紙は赤瀬川さんの「赤」一色。黒地に水玉みたいなポップはシャツを着た赤瀬川さんが笑っている。そうそう、この笑顔。なぜかマスコミに載るときの赤瀬川さんの写真は、気持ちよく上下の歯を見せて笑っていることが多かった。
本書は77年の「超芸術家」人生をゆっくりたどっていく。私は、尾辻克彦名義で発表した小説「肌ざわり」(1980刊)や「父が消えた」(1981刊)を読んだのが、たぶん赤瀬川さんとの最初の接触である。60年代の前衛芸術家時代、70年代のパロディ・ジャーナリズム時代はよく知らない。最近になって「ネオ・ダダ」とか「櫻画報」を知って、すごい活動をしていたんだなあと呆れている。パソコンもSNSもない時代、面白いことは身体を張って体験するしかなかった時代なのかな。
私が本格的に赤瀬川さんと「その一味」を追いかけ始めたのは、1986年結成の路上観察学学会、それから藤森照信先生の縄文建築集団、山下裕二先生の日本美術応援団と続く。これら、少しずつメンバーの重なる仲良し集団の中で、赤瀬川さんは、ちょっと長老格で、いつも穏やかにニコニコしていた。若い頃の前衛芸術家ぶりを見ると、もちろん、ただの人のいいオジサンではなくて、人間の暗い衝動や嫌な面も理解していただろう。それなのに、中年以降は、どうしてあんなに超常識人のさわやかな笑顔が保てたのか、不思議な気がする。
本誌には、久住直之氏を聞き手とする長尺の「尚子夫人インタビュー」が掲載されている。おふたりが出会った頃の思い出話を少しどぎまぎしながら読んだ。晩年の闘病中、ポツリと「赤瀬川原平やめよっかな」とおっしゃったという話が、しみじみ胸に応えた。病気は辛かったんだろうな。
でも林丈二さんが、毎日写真絵ハガキを病室に送ってくれたという話に感動した。ひとりずつ、この世を旅立っていくのは世の習いだけど、看取ってくれる仲間を持つことの幸せ。
![](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51vaxbyO7uL._SL160_.jpg)
本書は77年の「超芸術家」人生をゆっくりたどっていく。私は、尾辻克彦名義で発表した小説「肌ざわり」(1980刊)や「父が消えた」(1981刊)を読んだのが、たぶん赤瀬川さんとの最初の接触である。60年代の前衛芸術家時代、70年代のパロディ・ジャーナリズム時代はよく知らない。最近になって「ネオ・ダダ」とか「櫻画報」を知って、すごい活動をしていたんだなあと呆れている。パソコンもSNSもない時代、面白いことは身体を張って体験するしかなかった時代なのかな。
私が本格的に赤瀬川さんと「その一味」を追いかけ始めたのは、1986年結成の路上観察学学会、それから藤森照信先生の縄文建築集団、山下裕二先生の日本美術応援団と続く。これら、少しずつメンバーの重なる仲良し集団の中で、赤瀬川さんは、ちょっと長老格で、いつも穏やかにニコニコしていた。若い頃の前衛芸術家ぶりを見ると、もちろん、ただの人のいいオジサンではなくて、人間の暗い衝動や嫌な面も理解していただろう。それなのに、中年以降は、どうしてあんなに超常識人のさわやかな笑顔が保てたのか、不思議な気がする。
本誌には、久住直之氏を聞き手とする長尺の「尚子夫人インタビュー」が掲載されている。おふたりが出会った頃の思い出話を少しどぎまぎしながら読んだ。晩年の闘病中、ポツリと「赤瀬川原平やめよっかな」とおっしゃったという話が、しみじみ胸に応えた。病気は辛かったんだろうな。
でも林丈二さんが、毎日写真絵ハガキを病室に送ってくれたという話に感動した。ひとりずつ、この世を旅立っていくのは世の習いだけど、看取ってくれる仲間を持つことの幸せ。