〇サントリー美術館 六本木開館10周年記念展『絵巻マニア列伝』(2017年3月29日~5月14日)
東京に引っ越して、ようやくネットも開通。今週末は、気になっていた展覧会にも行ってみることができた。本展は「絵巻」を通じて、個性に満ちた「絵巻マニア」の人々に焦点をあてた企画。登場する「絵巻マニア」は、後白河院、花園院、後崇光院・後花園院父子、三条西実隆、足利将軍家、松平定信。まあ、なるほどの人選である。
制作にかかわった作品の質の高さで群を抜くのが、冒頭の後白河院。『病草紙』断簡が複数出ていて有難かった。「不眠症の女」はサントリー美術館所蔵だったか。見た目は特に病気らしさもない女だが、同輩たちが無防備な寝顔をさらしている中で、ひとり体を起こしている「わびしさ」が表現されている。指先は数を数えているのかしら。個人蔵の「居眠りの男」は色彩あざやかで明るい画面。あと九博所蔵の「侏儒」が出ていた。
『伴大納言絵巻』がデジタル複製、『年中行事絵巻』が伝・田中親美模写の京都市立芸術大学本だったのは仕方のないところ。東博の『後三年合戦絵巻』が出ていたのは嬉しかった。後白河院も後三年合戦を描く絵巻(承安本)を制作させており、蓮華王院→醍醐寺→仁和寺に所蔵されていた記録があるが、行方不明である。展示の貞和本は承安本の面影を伝える作例と考えられている。
後白河院が上洛した源頼朝に、自慢の絵巻コレクションを見せようとしたが、頼朝が丁寧に遠慮したという話が『古今著聞集』に載っているというのは知らなかった。どうもこの二人の関係は面白い。一方、実朝は和歌や絵巻を愛好したことという。へえ、和歌はともかく、実朝が絵巻マニアだとは思っていなかった。『吾妻鏡』には、実朝が「小野小町一期盛衰事」を好んだ記事がある。ということで「九相図巻」(個人蔵)が展示されていたが、すさまじかった。首のくるっとひっくり返った犬のいるやつである。実朝の趣味、よく分からないなあ。
花園院は、あまり絵巻マニアの印象がなかったが、父の伏見院ともども絵巻好きで、この父子の周辺で絵画制作に従事していたのが高階隆兼であると聞くと、なるほどと思う。三の丸尚蔵館本の『春日権現験記絵』などを展示。後崇光院と後花園院も父子で絵巻好きであったことが、日記や書簡から浮かび上がる。『彦火々出見尊絵巻』が「若狭国松永荘新八幡宮」にあるという記事は、後崇光院の『看聞日記』に見える。展示は複製だったが、『看聞日記』の当該箇所を見ることができて、ちょっとわくわくした。この父子は『玄奘三蔵絵』(藤田美術館)も興福寺大乗院(※『応仁の乱』に出てきた)から取り寄せて見ているのだな。
『実隆公記』を残した三条西実隆も絵巻マニアで、『酒呑童子絵巻』など数々の制作にかかわった。2012年のサントリー美術館『お伽草子』展でも同様の指摘がされていたと思う。室町時代の絵巻は、絵も物語も稚拙で、そこが一種の魅力になっている感じもする。足利将軍家では、義教が後崇光院と後花園院の絵巻貸借サークルに加わっていた由。また、義尚は「天性の絵巻好き」と呼ばれている。私は、足利家=唐物愛好のイメージが強かったので、彼らの内心でどのように「棲み分け」ていたのか興味深い。
最後の松平定信は、考証マニアであったことは確かだが(絵画+文学を楽しむような)絵巻マニアだったかどうかは疑問。しかし『蒙古襲来絵詞』が世に知られるようになったのは、新井白石の武器考証書に紹介されてからで、定信の求めにより、細川斉茲がこの絵巻を江戸に運んで以来だというのは面白い。伝統の始まりは、意外と新しかったりするものだ。最後に付け加えておくと、歴史上、女性の「絵巻マニア」はいなかったのだろうか。主な享受層は、むしろ女性だったのではないかと思うのだが。
東京に引っ越して、ようやくネットも開通。今週末は、気になっていた展覧会にも行ってみることができた。本展は「絵巻」を通じて、個性に満ちた「絵巻マニア」の人々に焦点をあてた企画。登場する「絵巻マニア」は、後白河院、花園院、後崇光院・後花園院父子、三条西実隆、足利将軍家、松平定信。まあ、なるほどの人選である。
制作にかかわった作品の質の高さで群を抜くのが、冒頭の後白河院。『病草紙』断簡が複数出ていて有難かった。「不眠症の女」はサントリー美術館所蔵だったか。見た目は特に病気らしさもない女だが、同輩たちが無防備な寝顔をさらしている中で、ひとり体を起こしている「わびしさ」が表現されている。指先は数を数えているのかしら。個人蔵の「居眠りの男」は色彩あざやかで明るい画面。あと九博所蔵の「侏儒」が出ていた。
『伴大納言絵巻』がデジタル複製、『年中行事絵巻』が伝・田中親美模写の京都市立芸術大学本だったのは仕方のないところ。東博の『後三年合戦絵巻』が出ていたのは嬉しかった。後白河院も後三年合戦を描く絵巻(承安本)を制作させており、蓮華王院→醍醐寺→仁和寺に所蔵されていた記録があるが、行方不明である。展示の貞和本は承安本の面影を伝える作例と考えられている。
後白河院が上洛した源頼朝に、自慢の絵巻コレクションを見せようとしたが、頼朝が丁寧に遠慮したという話が『古今著聞集』に載っているというのは知らなかった。どうもこの二人の関係は面白い。一方、実朝は和歌や絵巻を愛好したことという。へえ、和歌はともかく、実朝が絵巻マニアだとは思っていなかった。『吾妻鏡』には、実朝が「小野小町一期盛衰事」を好んだ記事がある。ということで「九相図巻」(個人蔵)が展示されていたが、すさまじかった。首のくるっとひっくり返った犬のいるやつである。実朝の趣味、よく分からないなあ。
花園院は、あまり絵巻マニアの印象がなかったが、父の伏見院ともども絵巻好きで、この父子の周辺で絵画制作に従事していたのが高階隆兼であると聞くと、なるほどと思う。三の丸尚蔵館本の『春日権現験記絵』などを展示。後崇光院と後花園院も父子で絵巻好きであったことが、日記や書簡から浮かび上がる。『彦火々出見尊絵巻』が「若狭国松永荘新八幡宮」にあるという記事は、後崇光院の『看聞日記』に見える。展示は複製だったが、『看聞日記』の当該箇所を見ることができて、ちょっとわくわくした。この父子は『玄奘三蔵絵』(藤田美術館)も興福寺大乗院(※『応仁の乱』に出てきた)から取り寄せて見ているのだな。
『実隆公記』を残した三条西実隆も絵巻マニアで、『酒呑童子絵巻』など数々の制作にかかわった。2012年のサントリー美術館『お伽草子』展でも同様の指摘がされていたと思う。室町時代の絵巻は、絵も物語も稚拙で、そこが一種の魅力になっている感じもする。足利将軍家では、義教が後崇光院と後花園院の絵巻貸借サークルに加わっていた由。また、義尚は「天性の絵巻好き」と呼ばれている。私は、足利家=唐物愛好のイメージが強かったので、彼らの内心でどのように「棲み分け」ていたのか興味深い。
最後の松平定信は、考証マニアであったことは確かだが(絵画+文学を楽しむような)絵巻マニアだったかどうかは疑問。しかし『蒙古襲来絵詞』が世に知られるようになったのは、新井白石の武器考証書に紹介されてからで、定信の求めにより、細川斉茲がこの絵巻を江戸に運んで以来だというのは面白い。伝統の始まりは、意外と新しかったりするものだ。最後に付け加えておくと、歴史上、女性の「絵巻マニア」はいなかったのだろうか。主な享受層は、むしろ女性だったのではないかと思うのだが。