〇奈良国立博物館 特別展『快慶 日本人を魅了した仏のかたち』(2017年4月8日~6月4日)
快慶の代表的な作品を一堂に集め、わが国の仏教美術史上に残した偉大な足跡をたどるとともに、快慶作品の成立と密接に関わる絵画や、高僧たちとの交渉を伝える史料をあわせて展示し、いまだ多くの謎に包まれた快慶の実像に迫る特別展。日曜の朝、開館より30分ほど早く博物館に着いたら、短いけれど待ち列ができていたので、慌てて並ぶ。鑑賞に支障を感じるほどではないが、それなりに客は入っていた。
会場入口には、京都・金剛院の金剛力士(仁王)像一対。それぞれ片手を振り上げ、逞しい筋肉で来場者を威嚇しているようだ。私は、運慶が武士好みの力強い作風であるのに対し、快慶といえば貴族的で美麗な如来や菩薩のイメージを最初に思い浮かべる。しかし実は快慶には、ギラギラと殺気を漂わす怪物みたいな仏像の一群があるのだ。この仁王像は筋肉質の肉体が、立体を積み上げるような感覚で表現されている。正面からは、腰をしぼった逆三角形が強調されているが、横から見ると、意外に腰回りが太いことも面白かった。
京都・金剛院という名前は、すぐに思い出せなかったが、あとで同寺院の執金剛神立像と深沙大将立像を見て、舞鶴の「花の寺」だ!と思い出した。秘仏バスツアーで行ったところだ。執金剛神は、まあ仏像らしいが、深沙大将は、巻毛を逆立て、血走った目を見開き、歯をむき出して、神かケモノか分からない。腿には二匹の白象の顔を穿いてさえいる。
会場に入ってすぐは、見慣れない金色の弥勒菩薩立像がいらした。米国ボストン美術館の所蔵だという。ああ、快慶の仏像(きれいな仏像)はアメリカ人好みだろうなあ、となんとなく感じる。その対面には、醍醐寺の弥勒菩薩坐像の写真パネルが飾られていた。実物は4/25からの展示と分かっていて、この週末に見に行ったのだが、ちょっと物足りなかったのは否めない。壁の展示ケースに、顔立ちの消えかかった貴人の肖像画があって、これはと思ったら『後白河法皇坐像』(妙法院)だった。壮年期の快慶は、後白河院と出会い、院ないし院の近臣であった信西一門との密接なかかわりの中で、造仏に起用された。ああ、醍醐寺の弥勒菩薩も後白河院の追善供養のためにつくられたのだったな。この春は、東のサントリー美術館の『絵巻マニア列伝』と西の奈良博の『快慶』展で、期せずして後白河院の遺徳(?)を偲ぶかたちになった。
快慶の飛躍の舞台となったのは、焼き討ち後の東大寺再興である。重源上人像(浄土寺)は、いつ見ても何度見ても好きだ。その視線の先には、裸形の阿弥陀如来立像(浄土寺)。いつも仏像館に展示されているものだ。浄土寺の阿弥陀三尊像が写真パネルでの紹介なのは、仕方ないなと思った。高野山・金剛峯寺の孔雀明王坐像は、さりげなく隅のほうにいた。
ワイルド系の仏像では、金剛峯寺の四天王立像(広目天、多聞天)が登場。いつも高野山の国宝館でうっとり見とれる四天王だ。筆と巻子を持っただけの広目天が、むちゃくちゃ武闘派の雰囲気で笑えた。金剛峯寺の執金剛神立像と深沙大将立像も、躍動感と異形感にあふれている。三重・新大仏寺の如来坐像(頭部のみ快慶作)は思わぬ巨大さに驚いた。重源が日本各地に営んだ東大寺別所のひとつ伊賀別所に由来するものだという。
西新館に進んで最初の展示室には、東大寺の僧形八幡神坐像がいらっしゃった。ほかにも東大寺所蔵の快慶仏がまとめて並んでいたような気がするが、ほかの記憶が曖昧になるほど、僧形八幡神の印象が強い。生き人形のような生々しい迫真性がある。東大寺の西大門勅額は、なんと珍しいことに八体の天王像が、額から取り外されて展示されていた。作者に快慶をあてる新説が出され、大方の支持を得ているのだそうだ。本当かなあ。
東国など諸国に伝来の像、結縁合力による造像、朝廷・門跡寺院の造像、長谷寺本尊の再興など、快慶仏の諸相を紹介し、最後に「安阿弥様(よう)」と呼ばれた三尺(90センチメートル)前後の来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像にたどりつく。法然をはじめとする浄土宗教団の僧侶たちとの親交から生まれたもので、生涯にわたって作り続けた。壮年期の作品は比較的シンプルで、晩年になるに従い、衣文線や襟のたるみなどの装飾性を増していく。ほんとだ! こんなふうに様式の変遷があるとは思ってもいなかった。
会場の中ほどで、運慶と快慶を主人公にした短編アニメーションを上映していて、これがなかなかよかった。秋に東博でおこなわれる運慶展が楽しみになった。そして、東の東博で運慶展、西の奈良博で快慶展をやる意味に得心がいった。運慶、快慶の二人が造像にかかわった東大寺南大門の金剛力士像が見たくなって、奈良博を出たあと、急いで南大門まで行って、満足した。
快慶の代表的な作品を一堂に集め、わが国の仏教美術史上に残した偉大な足跡をたどるとともに、快慶作品の成立と密接に関わる絵画や、高僧たちとの交渉を伝える史料をあわせて展示し、いまだ多くの謎に包まれた快慶の実像に迫る特別展。日曜の朝、開館より30分ほど早く博物館に着いたら、短いけれど待ち列ができていたので、慌てて並ぶ。鑑賞に支障を感じるほどではないが、それなりに客は入っていた。
会場入口には、京都・金剛院の金剛力士(仁王)像一対。それぞれ片手を振り上げ、逞しい筋肉で来場者を威嚇しているようだ。私は、運慶が武士好みの力強い作風であるのに対し、快慶といえば貴族的で美麗な如来や菩薩のイメージを最初に思い浮かべる。しかし実は快慶には、ギラギラと殺気を漂わす怪物みたいな仏像の一群があるのだ。この仁王像は筋肉質の肉体が、立体を積み上げるような感覚で表現されている。正面からは、腰をしぼった逆三角形が強調されているが、横から見ると、意外に腰回りが太いことも面白かった。
京都・金剛院という名前は、すぐに思い出せなかったが、あとで同寺院の執金剛神立像と深沙大将立像を見て、舞鶴の「花の寺」だ!と思い出した。秘仏バスツアーで行ったところだ。執金剛神は、まあ仏像らしいが、深沙大将は、巻毛を逆立て、血走った目を見開き、歯をむき出して、神かケモノか分からない。腿には二匹の白象の顔を穿いてさえいる。
会場に入ってすぐは、見慣れない金色の弥勒菩薩立像がいらした。米国ボストン美術館の所蔵だという。ああ、快慶の仏像(きれいな仏像)はアメリカ人好みだろうなあ、となんとなく感じる。その対面には、醍醐寺の弥勒菩薩坐像の写真パネルが飾られていた。実物は4/25からの展示と分かっていて、この週末に見に行ったのだが、ちょっと物足りなかったのは否めない。壁の展示ケースに、顔立ちの消えかかった貴人の肖像画があって、これはと思ったら『後白河法皇坐像』(妙法院)だった。壮年期の快慶は、後白河院と出会い、院ないし院の近臣であった信西一門との密接なかかわりの中で、造仏に起用された。ああ、醍醐寺の弥勒菩薩も後白河院の追善供養のためにつくられたのだったな。この春は、東のサントリー美術館の『絵巻マニア列伝』と西の奈良博の『快慶』展で、期せずして後白河院の遺徳(?)を偲ぶかたちになった。
快慶の飛躍の舞台となったのは、焼き討ち後の東大寺再興である。重源上人像(浄土寺)は、いつ見ても何度見ても好きだ。その視線の先には、裸形の阿弥陀如来立像(浄土寺)。いつも仏像館に展示されているものだ。浄土寺の阿弥陀三尊像が写真パネルでの紹介なのは、仕方ないなと思った。高野山・金剛峯寺の孔雀明王坐像は、さりげなく隅のほうにいた。
ワイルド系の仏像では、金剛峯寺の四天王立像(広目天、多聞天)が登場。いつも高野山の国宝館でうっとり見とれる四天王だ。筆と巻子を持っただけの広目天が、むちゃくちゃ武闘派の雰囲気で笑えた。金剛峯寺の執金剛神立像と深沙大将立像も、躍動感と異形感にあふれている。三重・新大仏寺の如来坐像(頭部のみ快慶作)は思わぬ巨大さに驚いた。重源が日本各地に営んだ東大寺別所のひとつ伊賀別所に由来するものだという。
西新館に進んで最初の展示室には、東大寺の僧形八幡神坐像がいらっしゃった。ほかにも東大寺所蔵の快慶仏がまとめて並んでいたような気がするが、ほかの記憶が曖昧になるほど、僧形八幡神の印象が強い。生き人形のような生々しい迫真性がある。東大寺の西大門勅額は、なんと珍しいことに八体の天王像が、額から取り外されて展示されていた。作者に快慶をあてる新説が出され、大方の支持を得ているのだそうだ。本当かなあ。
東国など諸国に伝来の像、結縁合力による造像、朝廷・門跡寺院の造像、長谷寺本尊の再興など、快慶仏の諸相を紹介し、最後に「安阿弥様(よう)」と呼ばれた三尺(90センチメートル)前後の来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像にたどりつく。法然をはじめとする浄土宗教団の僧侶たちとの親交から生まれたもので、生涯にわたって作り続けた。壮年期の作品は比較的シンプルで、晩年になるに従い、衣文線や襟のたるみなどの装飾性を増していく。ほんとだ! こんなふうに様式の変遷があるとは思ってもいなかった。
会場の中ほどで、運慶と快慶を主人公にした短編アニメーションを上映していて、これがなかなかよかった。秋に東博でおこなわれる運慶展が楽しみになった。そして、東の東博で運慶展、西の奈良博で快慶展をやる意味に得心がいった。運慶、快慶の二人が造像にかかわった東大寺南大門の金剛力士像が見たくなって、奈良博を出たあと、急いで南大門まで行って、満足した。