〇京都国立博物館 開館120周年記念特別展覧会『海北友松(かいほうゆうしょう)』(2017年4月11日~5月21日)
海北友松(1533-1615)は、狩野永徳や長谷川等伯と並び称される桃山画壇の巨匠。近江浅井家の家臣の家に生まれたが、父の死をきっかけに禅門に入り、狩野派を学ぶ。浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗して家門の再興を目指したが、晩年は画業に専念した。以上はWikiなどからの抜粋。私は「海北友松」の名前は知っていたが、特に注目したことはなかった。京博は開館120周年に地味な画家を取り上げるなあと思っていた。
会場は平成知新館なので、名品ギャラリーは1階の彫刻を除いて全て休止になっていた。3階にあがると、いつもの陶磁・考古展示室は、壁際の展示ケースだけ残して、きれいに片づけられており、広々した印象である。展示ケースには、もちろん友松の作品が並んでいる。障壁画が多いこともあって、ゆったりした空間のつくりがとてもいい。3階は、友松が狩野派(元信説、永徳説あり)に支持して、絵を学びはじめた頃の作品が中心である。図録を見ると「画風の上で友松的な要素と狩野派的な要素が混在する無款の屏風絵がいくつか紹介され、友松初期作であるとの判断が下された」とある。ふうん、この判断は最近下されたものなのだろうか。
私はこの「友松的な要素+狩野派的な要素」の初期作品群がけっこう好みだ。『菊慈童図屏風』(岡山・蓮台寺)は特に気に入った。1997年、大津市歴史博物館での『近江の巨匠-海北友松』展で初めて紹介され、話題になったものだという。『山水図屏風』は、四阿や庵が描かれているのに人の姿のない山奥の風景。「留守模様」を思わせる、という解説の表現が素敵だ。米国サンフランシスコ・アジア美術館が所蔵する『柏に猿図』は、まるまるもふもふした白と黒のテナガザルが描かれていて、かーわいいー!と叫びたくなる。
2階へ。いよいよ本格的な活動が始まる。聚光院の『琴棋書画図襖』(謹厳で楽しげな理想の文人世界)、大中院の『山水図襖』(茫洋とした風景)、霊洞院の『唐人物図襖』(内面を感じさせる人物像)、『松竹梅図襖』(禅居庵)のうち「梅図」(簡潔で迷いのない墨線!)など、ヴァリエーション豊かで、どれも個性的で驚く。聚光院は大徳寺の塔頭、大中院は建仁寺の塔頭で、行ったことがあるはずなのだが、友松の作品は記憶にない。でも友松の作品が、京都の寺院(美術館でなく)に多く残っているということは、関東育ちの私から見て、縁の薄い画家だったのも仕方ないかなと思う。
友松が67歳で制作に携わった建仁寺大方丈の障壁画は、さらに自由な境地が感じられる。まず、とてつもなくデカい『雲龍図』。恐ろしいが、どこか愛らしい。『竹林七賢図』を見て、ああこれ、友松の描く顔だ、と思い当たった。聖人君子らしくなく、かと言って奇妙キテレツでもない。まさしく凡庸な人間の顔なのだ。この顔は、最晩年まで友松作品を特徴づけていると思う。私が好きなのは『楼閣山水図屏風』(MOA)や『瀟湘八景図』(群馬県立美術館)などの、省略の多い墨画山水図の美しさ。『山水図屏風』(東博)はあまり見たことがない気がする。もっと出してほしい。
(このへんから?)1階。「大和絵金碧屏風」とよばれる『網干図屏風』は、またガラリと作風が違う。後半に出品の『浜松図屏風』もすごい。光琳みたいというか、狩野山雪みたいというか。晩年まで、変化を続けた画家であるらしい。そして、本展の見もののひとつは、友松が得意とした「雲龍図」各種を集めた展示室。あごがしゃくれて、嫌な顔をした龍が多いなあ。この部屋は、ライトアップされた作品が、展示ケースのガラスに映り込んでしまっているのだが、そのため、実際より多くの龍が暗闇に潜んでいるように見える。絶対、ねらった展示方法だと思う。最晩年のゆるい墨画は、もう自分の楽しみのためだけに描いていたのかしら。
なお、作品だけでなく、文献資料(書簡など)もところどころに展示されていた。妙心寺に納めた屏風の制作料を示す領収書(銀子一貫目並びに銀子二十枚)は、当時の物価が分かる貴重な資料である。
海北友松(1533-1615)は、狩野永徳や長谷川等伯と並び称される桃山画壇の巨匠。近江浅井家の家臣の家に生まれたが、父の死をきっかけに禅門に入り、狩野派を学ぶ。浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗して家門の再興を目指したが、晩年は画業に専念した。以上はWikiなどからの抜粋。私は「海北友松」の名前は知っていたが、特に注目したことはなかった。京博は開館120周年に地味な画家を取り上げるなあと思っていた。
会場は平成知新館なので、名品ギャラリーは1階の彫刻を除いて全て休止になっていた。3階にあがると、いつもの陶磁・考古展示室は、壁際の展示ケースだけ残して、きれいに片づけられており、広々した印象である。展示ケースには、もちろん友松の作品が並んでいる。障壁画が多いこともあって、ゆったりした空間のつくりがとてもいい。3階は、友松が狩野派(元信説、永徳説あり)に支持して、絵を学びはじめた頃の作品が中心である。図録を見ると「画風の上で友松的な要素と狩野派的な要素が混在する無款の屏風絵がいくつか紹介され、友松初期作であるとの判断が下された」とある。ふうん、この判断は最近下されたものなのだろうか。
私はこの「友松的な要素+狩野派的な要素」の初期作品群がけっこう好みだ。『菊慈童図屏風』(岡山・蓮台寺)は特に気に入った。1997年、大津市歴史博物館での『近江の巨匠-海北友松』展で初めて紹介され、話題になったものだという。『山水図屏風』は、四阿や庵が描かれているのに人の姿のない山奥の風景。「留守模様」を思わせる、という解説の表現が素敵だ。米国サンフランシスコ・アジア美術館が所蔵する『柏に猿図』は、まるまるもふもふした白と黒のテナガザルが描かれていて、かーわいいー!と叫びたくなる。
2階へ。いよいよ本格的な活動が始まる。聚光院の『琴棋書画図襖』(謹厳で楽しげな理想の文人世界)、大中院の『山水図襖』(茫洋とした風景)、霊洞院の『唐人物図襖』(内面を感じさせる人物像)、『松竹梅図襖』(禅居庵)のうち「梅図」(簡潔で迷いのない墨線!)など、ヴァリエーション豊かで、どれも個性的で驚く。聚光院は大徳寺の塔頭、大中院は建仁寺の塔頭で、行ったことがあるはずなのだが、友松の作品は記憶にない。でも友松の作品が、京都の寺院(美術館でなく)に多く残っているということは、関東育ちの私から見て、縁の薄い画家だったのも仕方ないかなと思う。
友松が67歳で制作に携わった建仁寺大方丈の障壁画は、さらに自由な境地が感じられる。まず、とてつもなくデカい『雲龍図』。恐ろしいが、どこか愛らしい。『竹林七賢図』を見て、ああこれ、友松の描く顔だ、と思い当たった。聖人君子らしくなく、かと言って奇妙キテレツでもない。まさしく凡庸な人間の顔なのだ。この顔は、最晩年まで友松作品を特徴づけていると思う。私が好きなのは『楼閣山水図屏風』(MOA)や『瀟湘八景図』(群馬県立美術館)などの、省略の多い墨画山水図の美しさ。『山水図屏風』(東博)はあまり見たことがない気がする。もっと出してほしい。
(このへんから?)1階。「大和絵金碧屏風」とよばれる『網干図屏風』は、またガラリと作風が違う。後半に出品の『浜松図屏風』もすごい。光琳みたいというか、狩野山雪みたいというか。晩年まで、変化を続けた画家であるらしい。そして、本展の見もののひとつは、友松が得意とした「雲龍図」各種を集めた展示室。あごがしゃくれて、嫌な顔をした龍が多いなあ。この部屋は、ライトアップされた作品が、展示ケースのガラスに映り込んでしまっているのだが、そのため、実際より多くの龍が暗闇に潜んでいるように見える。絶対、ねらった展示方法だと思う。最晩年のゆるい墨画は、もう自分の楽しみのためだけに描いていたのかしら。
なお、作品だけでなく、文献資料(書簡など)もところどころに展示されていた。妙心寺に納めた屏風の制作料を示す領収書(銀子一貫目並びに銀子二十枚)は、当時の物価が分かる貴重な資料である。