○池内敏『竹島-もうひとつの日韓関係史』(中公新書) 中央公論新社 2016.1
最近は、竹島・尖閣諸島などの領土問題が中高の教科書にも掲載されているそうだが、私はそうした教育を受けなかった。なので、2000年代になって、この問題が過熱し始めても、正直、島の位置さえ分かっていなかった。信頼できる研究者の(しかも手ごろな分量の)仕事で、きちんと歴史的経緯を学びたいと思ってきたが、ようやくその念願にかなう本に出会うことができた。
まず名前がややこしい。朝鮮半島の東岸から約130km沖合いに鬱陵島があり、かつて竹島(磯竹島)と呼ばれた。明治以降は松島と呼ばれることが多いが、昔どおり竹島(磯竹島)とも呼ばれることもある。その鬱陵島から東に87.4Kmの距離にあるのが現在の竹島で、江戸時代までは松島と呼ばれ、明治以降はりゃんこ(リアンタール岩から)とも呼ばれた。韓国では、独島という名称が1904年の文献に現れるが、その前は石島とも呼ばれた。前近代の文献に于山島という名称も見えるが、これが全て現在の竹島(独島)を指すという見解は成り立たない。
日本と韓国は、より古い地図に竹島(独島)の記載を求めて競争しているように見えるが、「地域図が隣接する領域を描き込むのは当然のこと」と著者は冷淡である。そりゃあそうだ。彩色の有無にこだわる論者もいるが、著者は主要な古地図を丁寧に検証して、竹島(鬱陵島)・松島(竹島)のほか、沖ノ島、八丈島、鬼界島、朝鮮半島、蝦夷地などが、多くの地図で無彩色であることから、それらが「異域(異国)」と「境界領域」であると考える。これは納得できる。前近代の地図や文献を領土問題の根拠に使う人たちが、この「境界領域」という概念を、わざと忘れたような顔をしているのが、私はいつも腑に落ちない気持ちでいた。前近代において「日本」の領外であるということは、隣国「朝鮮」の領内であることに直結しないと思うのに。
それでは、日本人が具体的にどのように竹島(独島)にかかわってきたか。具体的な史料に即した解説は、分かりやすく興味深かった。17世紀、鳥取藩米子の町人が竹島(鬱陵島)への定期的な渡海を幕府に願い出て許可され、途中の停泊地として松島(竹島)を自然に利用するようになった。この事実をもって、外務省は、我が国が「遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」根拠としているが、渡海免許と称されている文書や、その後のできごと(元禄竹島渡海禁令、天保竹島渡海禁令)を、著者の分析をたどって読むと、やっぱり無理がある主張だと思う。
明治10年(1877)に太政官が内務省に対し「竹島外一島の義、本邦関係これ無き義と相心得べきこと」という指令を出していることは初めて知った。「竹島(鬱陵島)外一島」の一島は、松島(竹島)を指したものではない、という反論もあるそうだが、両島の不即不離の関係を、史料に基づき検証するならば、それは「強弁」だという著者の主張に賛同する。日本側も韓国側も、竹島(独島)を己が固有の領土だと言いたい人たちは、その思いが強すぎて、史料の扱い方が粗雑にすぎ、かえって残念な感じがする。
結局、前近代の史料や史実を論拠にする限り、竹島(独島)は日本領とも韓国領とも定めがたい。重要なのは、1900年をまたいだ約10年の動向である(その後、1911年8月29日に朝鮮半島は日本に併合されてしまう)。1900年前後には、日本人の鬱陵島(竹島・松島)定住が進み、200~500名を数えるようになり、一方、定住朝鮮人も1000名を超えたという。両国民が共存していたということ? 明治38年(1905)1月、竹島の日本領編入が閣議決定される。
のちに、第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約(1952年)において日本の領土を確定する過程で、「ラスク書簡」なるものが残されており、アメリカ国務次官補ラスクは、1905年の竹島日本領編入を問題なしと認めている。しかし著者は、手放しでラスクの認識を妥当と評価することには疑問を呈している。ここ(日露戦争期 1904-05 の竹島問題)について、本書の解説はやや物足りないと感じたが、その理由は「あとがき」に明かされている。近現代は堀和生氏が書く約束だった由。
最後に、政府広報等で使われる「日本固有の領土」の正しい(?)意味を、私は本書で初めて知った。それは「むかしからずっと日本の領土であった」という意味ではなく、日本の領土であったとは言えないが「いまだかつて一度も外国の領土になったことがない」という意味で「日本固有の領土」と言えるのだそうだ。ええ~何その語法。だいたい、日本国自体が連合国軍占領下にあった経験との整合性は取れるんだろうか? こんな言葉遊びみたいな主張はやめたほうがいいと思う。「むかしからずっと日本の領土であった」という証明はできないにもかかわらず、「固有」を連呼することで、間違った歴史認識に国民を導いている気がする。
最近は、竹島・尖閣諸島などの領土問題が中高の教科書にも掲載されているそうだが、私はそうした教育を受けなかった。なので、2000年代になって、この問題が過熱し始めても、正直、島の位置さえ分かっていなかった。信頼できる研究者の(しかも手ごろな分量の)仕事で、きちんと歴史的経緯を学びたいと思ってきたが、ようやくその念願にかなう本に出会うことができた。
まず名前がややこしい。朝鮮半島の東岸から約130km沖合いに鬱陵島があり、かつて竹島(磯竹島)と呼ばれた。明治以降は松島と呼ばれることが多いが、昔どおり竹島(磯竹島)とも呼ばれることもある。その鬱陵島から東に87.4Kmの距離にあるのが現在の竹島で、江戸時代までは松島と呼ばれ、明治以降はりゃんこ(リアンタール岩から)とも呼ばれた。韓国では、独島という名称が1904年の文献に現れるが、その前は石島とも呼ばれた。前近代の文献に于山島という名称も見えるが、これが全て現在の竹島(独島)を指すという見解は成り立たない。
日本と韓国は、より古い地図に竹島(独島)の記載を求めて競争しているように見えるが、「地域図が隣接する領域を描き込むのは当然のこと」と著者は冷淡である。そりゃあそうだ。彩色の有無にこだわる論者もいるが、著者は主要な古地図を丁寧に検証して、竹島(鬱陵島)・松島(竹島)のほか、沖ノ島、八丈島、鬼界島、朝鮮半島、蝦夷地などが、多くの地図で無彩色であることから、それらが「異域(異国)」と「境界領域」であると考える。これは納得できる。前近代の地図や文献を領土問題の根拠に使う人たちが、この「境界領域」という概念を、わざと忘れたような顔をしているのが、私はいつも腑に落ちない気持ちでいた。前近代において「日本」の領外であるということは、隣国「朝鮮」の領内であることに直結しないと思うのに。
それでは、日本人が具体的にどのように竹島(独島)にかかわってきたか。具体的な史料に即した解説は、分かりやすく興味深かった。17世紀、鳥取藩米子の町人が竹島(鬱陵島)への定期的な渡海を幕府に願い出て許可され、途中の停泊地として松島(竹島)を自然に利用するようになった。この事実をもって、外務省は、我が国が「遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」根拠としているが、渡海免許と称されている文書や、その後のできごと(元禄竹島渡海禁令、天保竹島渡海禁令)を、著者の分析をたどって読むと、やっぱり無理がある主張だと思う。
明治10年(1877)に太政官が内務省に対し「竹島外一島の義、本邦関係これ無き義と相心得べきこと」という指令を出していることは初めて知った。「竹島(鬱陵島)外一島」の一島は、松島(竹島)を指したものではない、という反論もあるそうだが、両島の不即不離の関係を、史料に基づき検証するならば、それは「強弁」だという著者の主張に賛同する。日本側も韓国側も、竹島(独島)を己が固有の領土だと言いたい人たちは、その思いが強すぎて、史料の扱い方が粗雑にすぎ、かえって残念な感じがする。
結局、前近代の史料や史実を論拠にする限り、竹島(独島)は日本領とも韓国領とも定めがたい。重要なのは、1900年をまたいだ約10年の動向である(その後、1911年8月29日に朝鮮半島は日本に併合されてしまう)。1900年前後には、日本人の鬱陵島(竹島・松島)定住が進み、200~500名を数えるようになり、一方、定住朝鮮人も1000名を超えたという。両国民が共存していたということ? 明治38年(1905)1月、竹島の日本領編入が閣議決定される。
のちに、第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約(1952年)において日本の領土を確定する過程で、「ラスク書簡」なるものが残されており、アメリカ国務次官補ラスクは、1905年の竹島日本領編入を問題なしと認めている。しかし著者は、手放しでラスクの認識を妥当と評価することには疑問を呈している。ここ(日露戦争期 1904-05 の竹島問題)について、本書の解説はやや物足りないと感じたが、その理由は「あとがき」に明かされている。近現代は堀和生氏が書く約束だった由。
最後に、政府広報等で使われる「日本固有の領土」の正しい(?)意味を、私は本書で初めて知った。それは「むかしからずっと日本の領土であった」という意味ではなく、日本の領土であったとは言えないが「いまだかつて一度も外国の領土になったことがない」という意味で「日本固有の領土」と言えるのだそうだ。ええ~何その語法。だいたい、日本国自体が連合国軍占領下にあった経験との整合性は取れるんだろうか? こんな言葉遊びみたいな主張はやめたほうがいいと思う。「むかしからずっと日本の領土であった」という証明はできないにもかかわらず、「固有」を連呼することで、間違った歴史認識に国民を導いている気がする。
北海道や沖縄の島々に著者が一人で渡り雑誌連載の一回分を仕上げるというスタイル。
両島だけは上陸できなかった。
国有化騒動の時、民間の所有者が購入した価格(昔新聞報道されている)も載っていて、国の購入価格とのあまりの差額に唸って、この本のことを思い出しました。
文庫に入っていると思います。