見もの・読みもの日記

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「政治的正しさ」を超えて/「反戦」のメディア史(福間良明)

2006-07-20 23:48:39 | 読んだもの(書籍)
○福間良明『「反戦」のメディア史:戦後日本における世論と輿論の拮抗』(世界思想ゼミナール) 世界思想社 2006.5

 なるほど、上手い。こう言っては失礼かもしれないが、最初に膝を叩いたのは、著者の方法論の切れ味である。戦後60年、日本国民が「先の戦争」に対して示してきたさまざまな反応を、著者は「輿論」と「世論」という2つのタームによって、鮮やかに切り捌いていく。戦後生まれの眼には、もつれた毛糸のように分かりにくかった対立・葛藤・混濁が、きれいに整理されていく様子は、すがすがしいほどだ。

 今日、「ヨロン/セロン」と呼ばれる概念は、戦前には用字で区別されることがあった。「輿論」は、理性的な思考に基づき、政治的な正しさを志向する「public opinion」を指し、「世論」は、私的な体験や感情に基づく大衆的な情念「popular sentiment」を意味した。この区別に基づけば、日本人の戦争認識は、おおよそ「被害者」としての心情に固執する「世論」と、「加害責任」の自覚を求める「輿論」との間で揺れ動いてきたと言える。著者はそれを、政治家や知識人の発言ではなく、戦争映画に対する大衆の反応から読み取ろうと試みている。すなわち、『ビルマの竪琴』『二十四の瞳』『ひめゆりの塔』『きけわだつみの声』など。

 これらの作品は、戦後、一度ならず、繰り返し映画化されてきた。同じ作品であっても、時期によって、制作者の重点の置き方や、観客の受け取り方は微妙に異なる。あるときは「無垢な被害者性」が強調され、あるときは戦争の愚かしさを自覚する「聡明さ」と、それでも国を守ろうとする「勇敢さ」が、折り合いをつけたかたちで提示される。そこには、そのときどきのナショナルな欲望が反映されている。

 80年代以降は、戦争責任を問うことが「政治的に正しい輿論」として、一定の定着を見た。しかし、そのことは「被害者としての語り」を抑圧し、「加害」を自らに向けられた問いとして問い返す契機を失くしてしまった。むしろ、日本人に必要なことは、被害者としての立場を徹底的におしすすめていくことではなかったか。それによって、朝鮮人や中国人の被害者、アジアや太平洋の被害者の姿が見えてくるのではないか――これは、原水爆禁止運動にかかわった岩松繁俊の主張である。

 「世論」「輿論」の二分割法によって、明快に整理されてきた論理は、ここで、鈍器で頭を殴られるようなパラドクスに陥る。岩松は「被害者としての意識の薄弱が加害者としての意識と認識の薄弱さをうむ」とも述べているという。「反戦」の語りの可能性を考えるうえで、示唆的、いや挑戦的と言ってもいい思弁である。

 あの戦争は正しい戦争だった→我々は加害者ではない→被害者を哀悼して何が悪い、という「世論」を、私はこれまで拒絶の対象だと思っていた。だが、そんな受け入れ難い主張でも、とことん耳を傾けて付き合ってみたら、何か違うものが見えてくるのかも知れない。今年の8月15日が来る前に、多くの人におすすめしたい1冊。
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