見もの・読みもの日記

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著作権法の現在/情報の私有・共有・公有(名和小太郎)

2006-07-09 23:53:08 | 読んだもの(書籍)
○名和小太郎『情報の私有・共有・公有:ユーザーからみた著作権』(叢書コムニス) NTT出版 2006.6

 1980年代の末に図書館で働き始めた私は、文化庁の主催する「図書館等職員著作権実務講習」を受けに行った。しかし、その後、「著作権法が(また)変わった」という話を、幾度、聞かされてきたことか。

 著者によれば、日本の現行法は1970年に公布されたものだが、1970年代の前半に2回、後半に2回、80年代の前半に3回、後半に5回、そして90年代に至っては前半に6回、後半に7回、改訂が重ねられているという。ええ~こんなの、同一法令と言っていいのだろうか。要するに「規制あるところに事業機会を見つけるユーザーとのイタチゴッコ」であり、「その場しのぎに部分最適化」を重ねてきた結果、現在の著作権制度は「冷えたスパゲッティのようにもつれてしまった」と著者はいう。

 著作権をめぐる状況が、どうしてこんなにもつれた事態になってしまったかと言えば、デジタル技術(劣化しない複製が、誰でも容易に作れる)とネットワーク技術(複製を、誰でも容易に頒布・共有できる)が急激に進歩したから、と答えるのがお約束である。しかし、もっと本質的な問題として、現在の著作権制度は「19世紀ロマン主義」の論理で組み立てられている、と指摘されて、なるほどそうか、と思った。つまり、著作物を生み出すことができるのは一握りの天才であり、万人はこれを享受する消費者に過ぎない。現行の著作権法の原型となったベルヌ条約は、小説家ユーゴーの強い支援を受け、天才(=原著作者)の権利を保護するために作られたのである。

 現行著作権法の論理を噛み締めてみると、その時代がかった古めかしさは、一種微笑ましいほどである。我々は、学問の本質が、先人の業績を批判的に継承することにあることを知っている。多くの芸術作品でさえ、伝統の共有・継承抜きには成り立たない。そして、つねに先行する著作者が上位で、継承者が下位にあるとは、必ずしも言えない。技術とのイタチゴッコ以前に、まずこの「19世紀的論理」から脱却したほうがいいのじゃないか。本気でそう思った。

 さて、そしてどこへ向かうかであるが、著者は今後の著作権制度を「伝統指向型の集団」「市場指向型の集団」「ユーザー主導型の集団」のせめぎあいになるだろうと予想し、最終的には「ほどよいコモンズ」の実現を提案している。すなわち、著作権を有償登録制とし、期間を短縮することで、守らなければならない著作物の範囲を狭め、できるだけ多くの著作物をコモンズ(共有地)に置こう、という考えかたである。

 現にファイル交換ソフトのような「粗っぽい」手法でコモンズの拡大を図るインターネットユーザーを見ていると、著者の提案は、楽観的に過ぎるように聞こえるかもしれない。でも、やっぱり、進むべき方向はこっちだと私も思う。
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