見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2017年5月@関西:ひょうごの美(み)ほとけ(兵庫県立歴史博物館)

2017-05-12 23:15:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇兵庫県立歴史博物館 特別展『ひょうごの美ほとけ-五国を照らす仏像-』(2017年4月22~6月4日)

 兵庫県内各地の文化財調査や市町史関係の調査で確認された注目すべき仏像と関連資料、約50件を展示する。会場の兵庫県立歴史博物館は姫路城の北側にある。何度か来たことがあるように思っていたが、いつも素通りしていたようで、初訪問だった。

 冒頭には朝来市円龍寺の銅造菩薩立像(白鳳時代)。頭部が大きくて子供のようにかわいい。薄くて細い体をかすかにS字にねじっている。このほか、白鳳時代の仏像が全部で4点並ぶ。そうそう、この一帯は白鳳の金銅仏が多いんだよなあ、鶴林寺とか一乗寺とか…と思い出して悦に入る。

 展示は大雑把に時代順で、奈良時代の仏像として金蔵寺(多可町)の阿弥陀如来坐像が展示されていた。そのとなりに「参考」として掲げられた菩薩坐像の写真に見覚えがある。近年、横浜市の龍華寺で発見された脱活乾漆像ではないか(金沢文庫で見た)。実は、顔かたちの類似から見て、この菩薩像は、金蔵寺の像の右脇侍であった可能性が高いのだという。金蔵寺の像は、首から下の肉付きのいい体は候補で、頭部には細かい螺髪がびっしり植えられているが、確かに顔だけに意識を集中してみると似ている。なお金蔵寺の像は、もとは摂津に伝来したことが分かっている。

 本展には、ほかにも「移動する仏像」の例がいくつかあって、興味深かった。以下は全て、参考写真パネルで展示されていたものだが、いちばん驚いたのは、朝光寺(加東市)の千手観音立像。京都の蓮華王院(三十三間堂)の千体仏の一躯が、あるとき持ち出されたもので、現在の千体仏には室町時代の作が一躯だけ混じっているそうだ。室町幕府の要職にあった播磨守護赤松氏の関わりがあったのではないかという。

 また、舎那院(長浜市)の薬師如来坐像は、底面の朱書と円教寺(姫路市)の記録によって、もと円教寺にあったが、長浜城主・羽柴秀吉が毛利攻めで円教寺に布陣したとき、長浜に持ち出されたものと推定されている。現在、円教寺に伝わる小さな如意輪観音坐像は、チョコレート色の肌に衣の截金文様が映える美仏だが、やはり羽柴秀吉に持ち出され、戻ったものであるらしい。まったく武士は無茶なことをする。

 快慶(または快慶工房)の「安阿弥陀様」の阿弥陀如来立像、運慶の作風に近い毘沙門天立像も出ていた。私は、善光寺(多可町)の阿弥陀如来立像(平安前期)など、古い姿が好みである。丹波市山南町の薬師如来坐像(平安後期)は、表情のかたい素朴な像だが、墨で描かれた文様がはっきり残る板光背が面白かった。33年に一度ご開帳の秘仏を拝ませていただき、感謝に耐えない。会場で唯一、ケースなしで展示されていたのは、随願寺(姫路市)の毘沙門天立像(平安中期)で、2メートルを超す堂々とした体躯、腰高でスタイルもいいのだが、顔が農民顔で、少し困った様子なのが微笑ましい。

 兵庫のいろいろな仏像を知ることができて嬉しかったが、写真パネルの「参考展示」が多かった(18例)のは、得をしたような損をしたような、微妙な気分。安養寺(猪名川町)の阿弥陀如来立像は、いわゆる「逆手来迎印」で、一目見て腕のきれいな伸ばし方が(仏画の)高麗仏っぽいと感じた。 いちばんの「美仏」だと思ったのは、観音寺(朝来市)の聖観音立像で、これはぜひ本物を拝観に行きたいと思ったら、秘仏なのだそうだ。

 あとで知ったのだが、同館は、昭和59年(1984)と平成3年(1991)にも「ふるさとのみほとけ」展を開催しており、これが三度目の仏像展になる。博物館の仕事は展示だけではないので、二度目の仏像展以降、地域の仏像について丁寧な調査を重ね、貴重なデータを蓄積してきたことが、しみじみ感じられた。図録の解説は、仏像の来歴、記録、様式、構造(後補や転用の跡など)がしっかり記述されていて、安心感がある。今後も、この地方の仏像が愛され、守り伝えられていきますように。



 姫路城は、2009~2015年に行われた「平成の大修理」が終わって、初めて見たと思う。「白くなりすぎでは?」という感想を見た記憶があるが、なるほど、本当に白くなった。いまネットで画像検索すると、屋根瓦の黒と壁の白のコントラストがはっきりした「改修前」の姿と、全体に白くなった「改修後」の姿が混じってヒットする。だんだん前者は忘れられていくのかな…と思い、ここに記憶を書きとどめておく。まあしかし、このくらい白いと、最上階の天守には、いかにもこの世ならぬあやしく美しいものたちが住んでいそうなのは、大変いいと思う。
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政党政治・貿易・植民地・君主制/日本の近代とは何であったのか(三谷太一郎)

2017-05-11 22:46:40 | 読んだもの(書籍)
〇三谷太一郎『日本の近代とは何であったのか:問題史的考察』(岩波新書) 岩波書店 2017.3

 日本の近代史の主要な年譜はだいたい頭に入っていると思う。でも、こういう本を読むと、何度でも歴史を学び直すことの重要性を強く感じる。知っている事項の羅列でも、新たな視点を導入することで、全く違った姿が見えてくるのだ。日本の近代は19世紀後半に始まる。モデルとしたのはヨーロッパ列強だった。そのとき、ヨーロッパでは「近代とは何であったか」という理論的省察が始まっていた。その典型例、英国人ウォルター・バジョットは「議論による政治」(政党政治)「貿易」(資本主義経済)「植民地化」を近代の条件と考えた。著者は、これに「君主制」(天皇制)の問題を加えて、日本の近代を論じていく。

 はじめに政党政治。複数政党制の成立は世界的に見て、決して一般的ではない。それがなぜ日本に成立したか、まず日本における立憲主義から考える。明治憲法は、かつての幕府のような「覇府」の出現の防止を目的とし、権力分立制を目指して作られた。権力分立制は「天皇大権のメダルの裏側」であり、いかなる国家機関も単独では天皇を代行しえないように設計された。伊藤博文は特に議会について「議会こそまさに覇府であってはならない」という点を強調した。また「統帥権の独立」というのは、要するに「司法権の独立」と同じで、あくまでも権力分立のイデオロギーだったという。これには、久しぶりに目からウロコがぼろぼろ剥がれ落ちる快感を感じた。しかし、ということは「体制を全体として統合する機能を持つ、憲法に書かれていない何らかの非制度的な主体」というものが必要になる。それが、当初は藩閥(元老集団)であり、政党政治(デモクラシー)を経て、1930年代初頭から「立憲主義」(デモクラシーなき立憲主義)が浮上し、「立憲的独裁」に変質していく。この「立憲的独裁」という概念は、まさに目前の政治を考える上でも重要だと思う。

 次に資本主義。日本においては、政府主導の「殖産興業」政策によって世界市場に適応しうる資本主義的生産様式が作り出された。地租改正によって国家資本の源泉としての租税収入を確保し、義務教育制度の整備によって均質的な労働力を育成し、外交的には戦争を回避して平和を保った。最後の点は、米国大統領をつとめたグラント(いわゆるグラント将軍)が明治天皇に与えた忠告が大きな影響を与えているという。戦費を外債で調達すれば、金を借りた相手国の支配・干渉を免れることができず、自立を保てなくなるというのだ。単純で分かりやすい理屈である。日清戦争の勝利以降、日本は非外債主義を放棄し、国際的資本主義(金本位制と国際協調主義)に転換するが、やはり1930年代初頭、英国が金本位制を離脱することで、世界的に自由貿易が収縮し、各国における国家資本および経済ナショナリズムの台頭が促される。うーん、この状況は2017年の現在と類似するのか違うのか、経済にうとい私には、判断がつかないことを告白しておく。

 植民地。まず国内問題として、日本の植民地統治の法的枠組みはどのように作られたか、政府(文官)と軍部の権限の取り合いを論じ、次に国際政治のイデオロギーの変化に着目する。1930年代、国際秩序は「帝国主義」あるいはグローバリズムから「地域主義」に転換する。このことが日本においては「東亜新秩序」を裏付ける原理となり、最終的に対英米戦争を正当化する論理となった。このあと、東アジアにおける「地域主義」は、今日に至るまで未解決のままになっていると感じる。

 最後に天皇制。伊藤博文は、ヨーロッパにおいてキリスト教が果たしている「国家の機軸」と等価の機能を果たすものとして天皇制を取り入れた。これによって近代日本の天皇制は、ヨーロッパの君主と異なり、宗教的機能を担わざるを得なくなった。この説明は、かなり昔に聞いたことがあり、私はずっと納得している。なので、近世以前の天皇と近代以降の天皇を混ぜこぜにした論法には、強い違和感を感じてしまう。派生問題として、明治憲法における「神聖不可侵」の意味や、「教育勅語」の成り立ち(なぜ現在の内容と形式になったか)も面白かった。

 以上を踏まえて最終章では、「近代」の経験を、日本の現在と将来にどう生かしていくかを語る。デモクラシーや国際協調などの重要な遺産を活かしつつ、負の遺産を正しく教訓とすべきことが提言されている。そのあとの「あとがき」も読み応えあり。人生80年を越えたという著者が語る「老年期の学問」のありかた、学問の発展には「総論」が不可欠であるという論がたいへん興味深い。
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2017年5月@関西:宇治→大阪→神戸

2017-05-09 22:44:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇宇治・平等院~藤田美術館~大阪歴史博物館~神戸市立博物館

 連休2日目は、藤が見たかったので宇治の平等院へ。8時半の開門からまもなくに到着できたので、ゆっくり見られるだろうと思っていた。そうしたら、庭園はともかく、鳳凰堂内部のツアーは3時間くらい先まで受付終了だという。え?どういうこと?と思って聞いてみたら、みんな開門前から並んで待つのだそうだ。やれやれ。今回は、庭園とミュージアムと塔頭の浄土院だけにしておく。あと源三位頼政公の墓所にはお参り。



満開絶頂の藤の花房は、精巧な飴細工か何かのように美しくて美味しそうだった。



藤田美術館 『ザ・コレクション』(2017年3月4日~6月11日/後期:5月2日~4月30日)

 先々週、前期展示を見たばかりだが、後期も見たくてまたやってきた。ちょうど学芸員らしきスーツの男性による(前期にも見かけた方だ)展示解説が行われていた。日本には三つの曜変天目があるという意味を正しく説明し、いま東京の茶の湯展にも静嘉堂の曜変天目が出ていますと紹介。なぜかウチが曜変天目を出すと、同じ頃に静嘉堂さんも出すんですよ、でも聞いてみたら、向こうも同じことを思ってたと言ってました、と大阪人らしい(?)軽妙なトークで笑いを取る。もう一つはお寺さんの所有だからめったに出ませんが、今年の秋の国宝展(京都国立博物館)にもしかしたら出るかもしれませんね、とのこと。

 藤田美術館の曜変天目は覆輪が嵌っている。実は口縁に欠けたところがあって修復しているのだ。材質は八、九割が銀だが、酸化していないのは不純物が多いためではないかという。見えにくいが、茶碗の外側にも青い斑点があることをLEDライトで照らしてみせてくれた。家康から水戸徳川家に伝わったというが、茶会で使われた記録はない。しかし内側には疵があり、竹の茶筅で疵がつくとは思えないので、中国式の茶会で用いる金属製の茶さじではないかという。いろいろ興味深い話を聞かせていただき、思わぬ収穫だった。

 後期展示の名品は『阿字義』『紫式部日記絵詞』『春日明神影向図』など。東博の『茶の湯』展のポスターに載っている『交趾大亀香合』はこっちに戻っていた。興福寺に伝わった『千体聖観音菩薩立像』の1体(50体所蔵)は、以前、サントリー美術館で見たものだ。平家琵琶(銘・千寿)は、雅楽の琵琶に比べて担ぎやすく、小ぶりにできているというのが面白かった。

 しばらくお別れになる展示棟と収蔵庫(?)の姿をここに掲げておく。





 建物の説明を読んでいたら、藤田邸は昭和20年(1945)の大空襲でほとんど焼失したが、蔵や庭の多宝塔は幸いに類焼をまぬがれた。そんな建物であるなら、より一層、後世に守り伝えてほしいと思う。

大阪歴史博物館 特別展『渡来人いずこより-』(2017年4月26日~6月12日)

 近畿地方周辺で出土した、朝鮮半島に関係する資料を展示し、渡来人の「出身地」を考える。朝鮮半島には、それぞれの地域に個性的な文化があり、特に三国時代(4~7世紀)には高句麗、新羅、百済、加耶といった国々が存在し、ひと括りにはできないからである。なんでもない土器、たとえば甑(こしき)にも、百済系と新羅系の違いがあるのが面白かった。

神戸市立博物館 特別展『遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア』(2017年4月22日~7月17日)

 1582年(天正10年)、伊東マンショら日本人キリスト教信徒の少年4人がヨーロッパに旅立った。16世紀後半のイタリアを訪れた天正遣欧少年使節の足跡をたどりつつ、「日本人が初めて見たヨーロッパ文化」「日本人が初めて見たイタリア・ルネサンスの芸術」に焦点を当てて、ルネサンスの豊穣なる美の世界を探求する。出品点数は約70件で、9割以上がイタリアのウフィツィ美術館やバルジェッロ美術館からの招来品。絵画、彫刻、織物、食器、メダルなど、当時の人々(もちろん裕福な)の日常生活がしのばれる美術工芸が多い。少年たちの足跡に従い、フィレンツェ、ローマ、ベネツィア、ヴェローナ、ミラノ等々、都市をめぐっていくのも楽しかった。

 ポスターなどに使われているのは、メディチ家のお抱え画家ブロンズィーノ(ブロンジーノ)が描いたビア・デ・メディチ(早世)の肖像。初代トスカーナ大公コジモ1世(1519-1574)の娘である。少年使節の一行は、コジモ1世の息子フランチェスコ1世(1541-1587)の時代にトスカーナ大公国を訪れた。フランチェスコ1世の妻ビアンカ・カペッロは、舞踏会で伊東マンショの手を取って踊ったという。へえ~そんなエピソードが伝わっているんだ!と思ったが、驚くのは早かった。

 ミラノを出発する前、伊東マンショがマントヴァ公子に出した書状(漢文、墨書?)がマントヴァ国立公文書館には残っているのである。「貴殿」で始まり、「伊藤鈍(ドン)満所」の署名が見える。伊東マンショの直筆! 文書館には同時代のイタリア語訳も保管されているのだそうだ。図録を見るとこのほかにも、各都市で歓待を受けたことに対する感謝状が複数残っていて、イモラ市にあてた感謝状(イモラ市立図書館)とヴェネツィア共和国政府への感謝状(ヴァチカン教皇庁図書館)が掲載されている。この展覧会は、青森と東京にも巡回するので、別の機会に見られるのではないかと思う。

 少年たちは、ローマで教皇に謁見しただけでなく、ヴェネツィアでガラス製法を見たり、パドヴァ大学を訪ね、植物園を案内してもらったり、円形劇場でコンサートを鑑賞したりしている。同時代の日本人が誰も知らないことを、一気に体験してしまったのだ。そして例の『伊東マンショの肖像』を見ると、どんな気持ちで異国の日々を過ごしていたのか、帰国して何を考えたのか、あらためて気になる。
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2017年5月@関西:三尾の山寺+仁和寺

2017-05-07 23:54:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇高雄山神護寺~槇尾山西明寺~栂尾山高山寺~仁和寺

 5月3日~5日は関西に出かけた。2週間前の週末にも、京都・奈良・大阪のどうしても見たい展覧会めぐりをしているので、今回は、落穂ひろい的に名所観光をしようと思ってきた。久しぶりに神護寺の宝物風入れ(当寺では「虫払い」と呼んでいる)が見たくなったので、京都駅に到着するとすぐ、JRバスで三尾方面に向かった。ちなみに、いま調べてみたら、前回来たのは2009年のことだった。

 記憶をたどりながら、長い石段を下り、橋を渡って再び登る。山門の前に作務衣姿の女性が立っていて「境内拝観はこちらの窓口です、寺宝の特別拝観はあちらの門を入った建物で受付してください」と人を捌いていた。まず書院にあがって、虫払いの寺宝を拝観する。B5用紙を二つ折にした「神護寺宝物虫払行事陳列目録」をいただく。全3室、67件の文物のほぼ名前だけ(一部年代や作者名あり)が並ぶ簡素な目録である。しかし、よく見ると室内の展示品には、ちょっとした解説パネルが添えられている。あれ?前回来たときは、こんな気の利いたものはなかった気がする。

 第1室は『稚子大師御影』など仏画多め。興味深かったのは『虫払定文書』(寛永14年/1637)で、この年は6月3日から9日の7日間にわたって虫払いが行われたことが分かり、寺宝の安全を確保するための注意事項がいろいろ記されている。そういえば、会場の書院を囲む広縁のガラス戸は全て閉め切っていた。鎌倉の円覚寺・建仁寺や大徳寺みたいに風は入れないのだな。

 第2室に『後白河法皇尊影』を発見。あれ?伝頼朝像、伝重盛像と一緒じゃないのかと思って、ちょっとうろたえる。前回、「若冲居士」の落款を自分で見つけた覚えのある仁王像には、ちゃんと「若冲筆」の説明がついていた。第3室に入ると、床の間に左から『源頼朝像』→『釈迦如来像』→『平重盛像』の順で掛けてあった。画幅の前(下)には白い布を敷いて、古鏡や舞楽面などを展示していた。頼朝像は何度見てもいい。髪や髭を一筋ずつ描くことは、江戸の浮世絵の技法と同じだ。烏帽子の立体感を黒の微妙な塗り分けで表しているのも細かい。その点、重盛像(尊氏像)にはちょっとベタ塗り感がある。ただし寺宝拝観のあと、本堂の中で聞いた説明では、アンドレ・マルローは頼朝像より重盛像が気に入った由。モナリザ来日と引き換えにフランスに渡ったというのも初めて(?)知った。なお、中央の大きな釈迦如来坐像は、緑を配した截金文様の赤い衣をゆったりまとい、照り輝くような優美な光背と蓮華座に荘厳されている。

 最後に奥の茶室で呈茶(有料)をいただいた。これも前回はなかったと思う。お茶菓子は季節にふさわしく柏餅だった。

 

 神護寺のあとは、前回同様、西明寺、高山寺を歩いてまわる。西明寺は、特に何もないのだけれど、青紅葉の庭園が美しい。高山寺の石水院は、なんだかとても人が多くてびっくりした。近年、東京でも京都でも鳥獣戯画の展覧会があったから、あれで一気に知れ渡ったのかしら。鳥獣戯画の模本らしきものが展示されたケースには、たくさん人が張りついていた。私の好きなわんこ(伝運慶作・木造犬)に張りついている人はいなかったけど、寂しがりな顔をした子だから、まわりが賑やかなのはいいことだ。



 最後に御室・仁和寺に立ち寄って、非公開文化財特別公開の金堂と経蔵、それに霊宝館を見て、関西旅行の1日目を終わりにした。
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茶碗と茶の湯三昧(東京近美→東博→出光)

2017-05-07 08:39:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立近代美術館 企画展『茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術』(2017年3月14日~5月21日)

 今年のゴールデンウィークは海外脱出をあきらめた。その分、国内の展覧会を見て歩いているので、とにかく雑駁でもいいからレポートを書いておこうと思う。この展覧会は、2月に京都で見てきたのだが、東京展も見ておきたくて出かけた。冒頭を飾っていたのは、長次郎の二彩獅子。背後には、暗闇に浮かぶ新月のような、金環食のような細い円環の写真があって、キャプションをよく見たら「万代屋黒(もずやぐろ)」の口縁部(たぶん)のアップだった。導入部は悪くない。
 
 そのあと、長次郎の茶碗が並ぶ。めずらしく赤楽茶碗の「太郎坊」と「二郎坊」2件。黒は「大黒」「シコロビキ」「面影」「禿」「杵ヲレ」「太夫黒」「本覚坊」と、たくさんあって嬉しいが、長次郎らしい深い「黒」を感じる茶碗が少なくて(本覚坊くらいか)ちょっと物足りない。次の田中宗慶の説明は、京都展ではあまり注目していなかったので面白かった。実質的な楽家の祖でありながら、楽家の系図からは抹消された人物であるそうだ。装飾性の少ない黒楽茶碗「天狗」「いさらい」などが好き。

 そして、道入(ノンコウ)のキラキラ茶碗が長い展示室に縦一列に並んだところは圧巻! 強めの照明が釉薬の輝きを引き立てる。光悦の「紙屋」は初めて見たような気がする。椰子の実を二つに割ったような豪快なつくり。「冠雪」という白楽茶碗もあるのだな。後半、当代の吉左衛門の作品を特集する部屋は、茶碗をひとつずつ収めた展示ケースを4列×4列に並べて、東博・法隆寺宝物館の金銅仏の展示室を思わせる構成になっていた。私がいいなと思ったのは、どこか色っぽい「桂舟」と、シュッとした縦長の「天阿」。

 無料シャトルバスに乗車して東博へ。竹橋と上野はそんなに遠くないのだが、乗り換えが面倒なので、これはありがたい企画。都心でバスに残ることがめったにないので、車窓の風景も楽しかった。万世橋を渡ったのは何年ぶりだろう?



東京国立博物館 特別展『茶の湯』(2017年4月11日~6月4日)

 噂は聞いていたけれど、これはまた趣向の変わった面白い展示だった。室町時代から近代まで「茶の湯」の美術の変遷を大規模に展観する企画。元来、喫茶は中国からもたらされたという記憶を新たにし、「足利将軍家の茶湯-唐物荘厳と唐物数寄」から始まる。壁には南宋絵画がずらりと並んで、あわあわしてしまう。伝・馬麟筆『寒山拾得図』(所蔵者不明)は知らない作品だった。伝・梁楷筆『寒山拾得図』(MOA美術館)も好きだ。『青磁下蕪花入』(アルカンシエール美術財団)は端正で艶麗。美術品によって伝えられる「南宋」は、一種の理想郷である。静嘉堂の曜変天目は、このセクションにあったと思うが、何度も見ているのであまり注目せず。

 15世紀末には「侘茶」が誕生し、安土桃山時代に大成される。井戸茶碗の魅力はいまいちよく分からないが、桃山の茶陶は好きだ。長次郎の赤「白鷺」「無一物」「一文字」、黒「ムキ栗」「万代屋黒」「俊寛」。ああ~申し訳ないが、東近美よりラインナップがいい。「白鷺」「万代屋黒」は『茶碗の中の宇宙』京都展で見たもので、東近美は争奪戦に負けたのかなあ、など裏事情を想像した。長次郎の茶碗は、展示ケースに解説パネルをつけず、少し離れた壁につけていたのは、解説にとらわれず作品に集中する工夫としていいと思った。あと、伊賀焼の『破袋』。同じく伊賀花入の『生爪』は知らなかった。織部もいいなあ。志野茶碗「卯花墻」は、ああ来てる来てると思って見た。

 江戸時代は、小堀遠州と松平不昧を取り上げる。古染付、京焼の登場。ここでまた、南宋絵画の『李白吟行図』(東博)に出会ってびっくりしたが、これは松平不昧の旧蔵品なのだそうだ。最終章は「近代数寄者の眼」として、平瀬露香、藤田香雪、益田鈍翁、原三渓、畠山即翁をパネルで紹介し、前五者のコレクションを順次展示する。私が行ったときは、益田鈍翁の期間で、名前の由来となった黒楽茶碗「鈍太郎」(表千家六代覚々斎作)を見ることができたのが嬉しかった。

 この日は『平成29年新指定 国宝・重要文化財』にも寄っていく。前田玄以宛の「明国箚付」(文書)が興味深かった。彫刻では深大寺の銅造釈迦如来倚像。そうか、キミも国宝になったのか、と思って眺める。

出光美術館 『茶の湯のうつわ-和漢の世界』(2017年4月15日~6月4日)

 和物茶碗は、茶の湯世界でいわれる「一楽、二萩、三唐津」に注目。長次郎の「僧正」とか道入の「此花」とか、出光コレクションだから自館優先は当然だが、近美は展示品確保に苦労したんじゃないかなあとここでも思う。面白かったのは、松平不昧の道具の目録帳である『雲州蔵帳』の展示。これ出光美術館が持っているのか。さすがだ。(できるだけ原本に近い)文献を持っているのは強みだと思う。現代のポストイットみたいに竹の栞(?)が挟んであるのが面白かった。ほかに京焼、唐物、高麗、安南のうつわも。さらに「煎茶の世界」が取り上げられているのは、近美や東博にない独自色である。
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イメージはこんなもの/運慶・快慶(マンガ日本史)

2017-05-06 07:36:10 | 読んだもの(書籍)
〇マンガ:樋口彰彦、シナリオ:藤森啓『運慶・快慶:2人の天才仏師』(朝日ジュニアシリーズ)(マンガ日本史27 改訂版) 朝日新聞出版 2015.7
 よくある「週刊〇〇」というスタイルで刊行された薄いムック本である。およそ学習マンガなど描きそうにない、つまり自前の作品がよく売れていて、多くのファンが絵柄を知っているマンガ家、藤原カムイや池上遼一などを執筆陣に迎え入れた意外性に注目した記憶がある。買ったことはなかったのだが、奈良博の『快慶』展を見た後、図録だけでは物足りなくて、一緒に本書を買ってみた。

 だが、残念ながらあまりお勧めできる内容ではなかった。二人の主人公、運慶と快慶の描き分けが、あまりにも予想どおりである。まずビジュアルからして、運慶は目つきの鋭い精悍な男子で、快慶はいくぶん女性的な優男に描かれている。性格も見た目のまま。要するに、東国武士好みの力強い運慶仏と貴族好みの優美な快慶仏という俗流の理解をストレートに投影しているのである。快慶にもワイルド系の憤怒像があるし、運慶にも静謐で優美な像がある(岡崎・滝山寺の聖観音像とか)ことを思うと、とても納得できない。

 これは作画担当の漫画家の責任なのかどうかは不明である。奥付によればシナリオライターがいるようだが、このひともよく分からない。監修として中学・高校教諭の方二名の名前があがっているが、どのくらい関与したか分からない。それにしても残念だなと思う。だが、本書を読むことで、かえって運慶・快慶の人物像に興味が湧いてきた。私が小説を書くとしたら、この二人をどのような人物に構想するか、考えてみると面白い。快慶のほうが小説の主人公向きで、かなり癖のある人物ではないかと思う。そうでなければ自ら「巧匠」なんて名乗らないだろう。

 ちなみに奈良博の『快慶』展の会場で流れていた短編アニメーションは、さすがによかった。一部は快慶展の公式サイトのPR動画に取り入れられているが、肝腎なところが抜けている。奈良仏師を率いる康慶の子として生まれた運慶は、順調に出世(僧としての位の上昇)し、極位である法印を名乗るに至る。一方の快慶はなかなか位を与えられず「巧匠」を名乗りとする。どちらが幸せとも一概には言えず、それぞれが与えられた運命に苦しんだことが想像される。マンガにもこういう視点を期待したんだけど、無理であったか。
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はみ出す肉体/せいきの大問題 新股間若衆(木下直之)

2017-05-05 22:38:56 | 読んだもの(書籍)
〇木下直之『せいきの大問題 新股間若衆』 新潮社 2017.4

 2012年刊行の『股間若衆』の続編である。その後も時々、雑誌『芸術新潮』に「帰ってきた股間若衆」「股間著聞集」のタイトルで寄稿されているのは知っていたが、そのほか、『春画展』図録の寄稿や、書下ろし原稿をまじえて構成されている。テーマのひとつは前著に引き続き、全国津々浦々の股間若衆(男性裸体彫刻)巡礼。札幌の大通公園、前橋駅前、佐賀県立美術館など。国東半島の山中(?)にも男性裸体像が設置されていると知って驚いた。著者の解説が絶妙で何度も吹き出しそうになる。

 著者の関心は、股間にあるはずの「性器」に向かう。幕末に来日した英国人が、横浜近傍の神社から持ち帰って英国博物館に寄贈した木製の男根のコレクション。著者はその「アジマ(吾妻)社」を探して訪ねてみるが、男根崇拝の跡はすっかりなくなっていた。英国人の日記には、鎌倉の鶴岡八幡宮に女性器に似た大石があり、女性の信仰を集めていたことも記されている。この石が健在であるのだが(旗上弁財天社の背後)、『芸術新潮』誌上に紹介しようとしたところ、撮影を拒否されたという。まあ鶴岡八幡宮側の苦しい言い分に同情が湧かないわけでもないが…。

 あって当然の性器をないものにしたのは誰か。ということで登場するのが、黒田清輝である。黒田はパリに留学し、女性の裸体を描くこと、しばしば腰部を布で隠すこと、隠さないときは、性器も陰毛もない「不自然な股間」を描くという西洋絵画の慣習に馴染んだ。それは、どれほど人間に見えようとも現実の女ではなく、何かの観念を表現したものであった。けれども黒田が最初に描いた裸体画『朝妝』はいくぶん通俗的である。『智・感・情』はいかにも観念的、そして静嘉堂文庫が所蔵する『裸体婦人像』は、実は三人のモデルの善い所を合成して出現させた理想の肉体だった。その股間には性器のせの字も存在しないのだが、同作は有名な「腰巻事件」を引き起こす。

 同時代の裸体画論争として記憶されているのは、山田美妙「胡蝶」の挿絵。これ、渡辺省亭の絵なのか。幕末明治に日本に輸入されたアダムとイブの姿が面白い。山海経の怪人みたいな挿絵を載せている本もある。『解体新書』の扉絵の裸の男女がアダムとイブだというのは気づいていなかった。

 黒田が作り出した(勝ち取った、と言ってもいい)「猥褻」でない裸体、「芸術」としての裸体とは違うものを描こうとした人々を著者は掘り起こしていく。藤田嗣治『アッツ島玉砕』に対する、水木しげる『総員玉砕せよ!』に描かれた「ゆるふん」の兵士たち。丸木位里・俊『原爆の図』に描かれた被爆者の下半身。美しいヌードではなく、人間を描こうという強い意思を持ったときに、あたりまえに現れる性器という存在。

 2013-2014年、著者は大英博物館で春画展を見る。この月岡雪鼎の『四季画巻』は、たぶん私も東京の春画展で見で、局部のリアルな「醜さ」に衝撃を受けた作品である。醜くて、美しいのだ。人生のように、あるいは人間存在のように。春画展には「沈黙を強いられた」という著者だが、河鍋暁斎の春画については、楽しそうに語っている。暁斎の春画には、豊かな笑いが横溢している(それが権力者に向けられたときは強い毒にもなる)。

 最後に「2014年夏の、そして冬の性器をめぐる二、三の出来事」が問題提起される。2014年7月、自分の性器をモチーフにした表現活動をしてきた、ろくでなし子さんが自宅で逮捕された。著者はこの裁判において、本書に述べてきたような日本美術の性器と性表現の歴史を踏まえ、東京地方裁判所に意見書を提出することになる。重要なのは「猥褻か芸術か」という枠組みは歴史的な産物であり、普遍的で自明な物差しと考えてはいけない、という指摘だろう。

 なお、関連で紹介されているルクセンブルクの女流芸術家がすごい。パリのオルセー美術館で、クールベの『世界の起源』(女性器を描いたもの。この絵が普通に展示されているのもすごい)の前で、自分の性器を見せるパフォーマンスを行った。美術館は静観し、彼女は警察で事情聴取は受けたが逮捕はされなかったという。大人の国だなあ、フランス。

 同年8月、愛知県美術館の「これからの写真」展に対し愛知県警から、写真家・鷹野隆大さんの男性二人のヌード写真(性器が写っている)の撤去を命じる電話があった。館側は撤去命令に応じず、作者同意の上、問題写真の腰から下を布で覆い隠す措置を取った。平成の腰巻事件! これを笑うべきか嘆くべきか、または怒るべきか。市民の通報で警察が動いたというのが、嫌な感じだなあと思う。

 なお、堂々たる股間若衆を描いた表紙が、美人画のイメージの強い杉浦非水(愛知県美術館所蔵!)というのに驚いた。裏表紙は暁斎のゆるい春画。
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2017年春@東京展覧会拾遺

2017-05-02 20:22:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京写真美術館 総合開館20周年記念『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史総集編』(2017年3月7日~5月7日)

 平成18(2006)年度から隔年で開催してきた4つの地方編の総まとめとなる展覧会である。私は古写真が好きなので全て参観している。2007年春の「関東編」、2009年の「中部・近畿・中国地方編」、2011年の「四国・九州・沖縄編」、そして2013年の「北海道・東北編」は、ちょうど北海道に引っ越す直前に見た。なので今回は、ああ、これ見た、と記憶のよみがえる写真が多かった。文久の遣欧使節一行がパリのナダールの写真館で撮影した大判の鶏卵紙プリント、一高ベースボール選手のしゃれた記念写真、京都や鎌倉の観光地写真、甚大な被害を赤裸々に伝える三陸大津波などの災害写真。

 小さな名刺判の肖像写真をひとつずつ覗き込んでいくと、思わぬ有名人が写っていたりするのも楽しい。土方歳三、近藤勇、岩崎弥太郎、吉田東洋など。小説や歴史の教科書でなじんだ人々が、ちゃんと肉体をもって存在していたと知るのは不思議な感覚である。江戸時代の武士の体形について、なで肩に見えるのは首の筋肉が発達しているから、という説明がついていたのには、へええと思った。あと相撲をとる男の写真があって、その肉体が筋肉質で黒々としているのが印象的だった。お相撲さんといえば白い肌というのは近代の印象かもしれないなあ。

山種美術館 企画展『花*Flower*華-琳派から現代へ-』(2017年4月22日~6月18日)

 直球の企画だが、楽しかった。展示は、春→夏→秋→冬の順に推移する。春は、奥村土牛の『木蓮』が印象に残った。赤紫のなんともいえない妖艶な深み。土牛の『醍醐』は、自分が年齢を重ねるにつえ、ますます好きになってきた。満開の桜の枝の「軽やかな重み」を確かに感じる。最近話題の渡辺省亭の『桜に雀』は、葉の出始めの桜で、若い葉の桜色っぽい紫が花の純白を引き立てている。初夏は、日本画作家が、菖蒲・杜若・クレマチスなど寒色系の花を好むのに対して、梅原龍三郎、中川一政など油彩画家はバラなんだなあ、という対比が面白かった。和洋を挟んで、中央の展示ケースに田能村直入の『百花』(本展のポスターになっているもの)が広げられているが、巻末に全ての花の名称を記し、春花30種、夏花36種、秋花22種、冬花12種と分類していうことに初めて気づいた。

 秋、酒井抱一『菊小禽図』はちょっと若冲ふうだった。賛を記している亀田綾瀬は誰かと思ったら鵬斎の子供だった。冬の花といえば私の好みは水仙だなと思って探していたら、小茂田青樹の『水仙』に出会う。開いた障子が左右に少し見え、竹藪の地面に雀の群れと水仙の株が点在している。伝統的な舞台装置なのに斬新で面白い作品。第2室は牡丹を描いた作品ばかり8点が集めてあった。安田靫彦の描く牡丹は、歴史画の靫彦だと思うせいか、人の顔に見える。王者のように猛々しい牡丹。渡辺省亭の牡丹の繊細さは、童話や古い少女マンガに出てくるお姫さまのドレスのようだ。イギリスの絵本のイメージ。鈴木其一の大作は、伝統的な中国絵画をよく学んでいると感じられた。

※以下、3月に見て感想を書きそびれた展覧会をメモしておく。

■根津美術館 特別展『高麗仏画-香りたつ装飾美-』(2017年3月4日~3月31日)

 昨年秋、京都の泉屋博古館で開催された展示の巡回展だが、もう一回、行ってきた。京都展が優美な水月観音像(楊柳観音像)推しだったのに比べると、東京展は、王者の風格のある阿弥陀如来や地蔵菩薩の印象が強かった。興福寺の梵天・帝釈天像もまだ展示されていて、確か春のお彼岸に見に行ったのだが、お寺にいるような落ち着きを感じた。

■東京都美術館 特別展『ティツィアーノとヴェネツィア派展』(2017年1月21日~4月2日)

 ティツィアーノ作品7点(うち2点はティツィアーノと工房作品)を展示。見どころの『フローラ』は春の女神を描いたものというが、若い娘らしい美しさに見とれる。
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「どや建築」の街/大阪名所図解(酒井一光ほか)

2017-05-01 22:35:59 | 読んだもの(書籍)
〇画:綱本武雄、文:酒井一光、高岡伸一、江弘毅『大阪名所図解』 140B(イチヨンマルビー) 2014.9

 少し前に買った本だが読めていなかったので、先日、大阪に向かう新幹線の中で読んだ。大阪の歴史的建築物を精密な線で描いたスケッチ画とともに紹介するもの。歴史的建築物と言っても、本格的に「歴史的」な大阪城、住吉大社、四天王寺などもあれば、戦前のレトロ建築、老舗から喫茶・バー、さらに現代建築の関西国際空港、太陽の塔(!)も取り上げられている。詰め合わせバラエティ感が楽しい。

 私は関東の生まれだが、年齢とともに大阪に行く機会が増え、本書に取り上げられた建築・ランドマークも、6~7割は見たことがあると思う。しかし、たとえば大阪城でも、北西隅の乾櫓がL字型(矩折)なのは、櫓を大きく見せる工夫であるなどというポイントや、他の城郭に現存例のない焔硝蔵(火薬庫、1685年竣工)とか、知らなかった見どころを教えられた。四天王寺の五重塔は全くつまらないと思っていたが、姿かたちは四天王寺創建当時の時代考証を踏まえつつ、たび重なる焼失を反省して「不燃建築である鉄筋コンクリート造を選択」したという話を聞くと感慨深いものがある。先代は、昭和20年の空襲で焼けているのだな。大阪は火災の多い町だったのだ。また、大阪天満宮の「水平に連なる屋根」というのも気づいていなかった。

 大阪の都市には「カド丸」建築が多い。カド丸とは外側の角が丸い建築のことで、著者(高岡伸一)が勝手に名づけてみたのだという。私がすぐに思い出したのは、大阪証券取引所ビル(カド丸部分に五代友厚像が立っている)と超高層の中之島フェスティバルタワーくらいだが、時代を超えて受け継がれているのが面白い。芝川ビルとかオペラ・ドメーヌ・高麗橋とか、見に行きたいなあ。

 橋の紹介も面白かった。歩行者にとってのランドマークとなる橋頭堡だけでなく、橋桁、橋脚、さらに橋裏のスケッチまであって、橋好きの心がそそられる。大阪には好きな駅も多い。本書に取り上げられている御堂筋線の心斎橋駅、北大阪急行の千里中央駅、南海なんば駅のなんばガレリア、阪急梅田駅も好きだ。南海や阪急の堂々とした「終着駅」らしさは、東京にはあまりないものである。むかし東横線の渋谷駅がそんな感じだったのに、なくなってしまった。大阪でも駅舎や駅ビルの建て替えが相次いでいる。どのように生まれ変わるにしろ、大阪の顔として、人をワクワクさせる空間であってほしい、という本書のエールに同意する。

 本書は「大阪的建築」として、大丸心斎橋店本館、通天閣、太陽の塔、味園ビル(かつてのキャバレー「ユニバース」、これは知らなかった)、そして2本の超高層ビルを空中庭園でつないだかたちの梅田スカイビルをあげている。単に「すごい」建築ではなく、「何もそこまでやらんでも…」という可笑しみという点で「どや顔」ならぬ「どや建築」と説明されている。通天閣や太陽の塔は、さすがに見慣れた大阪の風景の一部になっているが、梅田スカイビル(1993年建設)を初めて見たときはびっくりした。中華圏や中近東ならともかく、日本にこんなインパクトの強い建築があるとは思ってもいなかった。今でも車窓にこのビルが見えると、ああ大阪だと感嘆する。なお、実は本書が選んだ「どや建築」の設計者には、ひとりも大阪人が含まれていないというのも新鮮な発見だった。

 本書には、大阪の喫茶店や飲食店も紹介されている。御堂筋のはり重カレーショップは、たぶん通りかかって気になったお店だが、入ったことはない。今度ぜひ入ってみよう。中之島のリーガロイヤルホテルにあるという、バーナード・リーチが設計したというリーチバーも、一生に一度くらい行ってみたい。
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