見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

常設展エリアで遊ぶ/徳川将軍家へようこそ(江戸東京博物館)

2017-09-14 21:54:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 常設展+企画展『徳川将軍家へようこそ』(2017年8月11日〜9月24日)

 特別展だと思い込んで江戸博に行ったら、常設展エリアの企画展だった。それじゃあ、ごく小規模な展示なんだなとガッカリしたが、久しぶりに常設展を見るのもいいかなと思って中に入った。江戸博は、東博などと違って、特別展チケットで常設展に入れないので、常設展エリアには滅多に来ないのだ。

 復元の日本橋を渡ると、縮尺模型で江戸城御殿や大名屋敷を紹介し、江戸の町割りや将軍家・大名家に関する歴史資料を展示する。何度か見ているはずなのに、俄然、興味が湧いたのは、私が最近、東京下町に引っ越したせいかもしれない。家康が関東に入った頃の隅田川は、今よりずいぶん幅が広かったのだな。秀忠の時代に小名木川(運河)が整備され、家光の時代に深川が本格的に開かれ、家綱の時代に江東運河がほぼ完成した。永代橋の架橋は1698年、綱吉の時代である。1657年の明暦の大火が墨田川ではっきり焼け止まっているのも印象的だった。また、展示品の中に『信濃松代真田家深川下屋敷図』があったのも目を引いた。永代橋のたもと、今の我が家の近所にあったことを、最近知ったばかりなのだ。庭園は大きな池で占められている。隅田川から水を引いたのだろうか?

 と、思いのほか、最初のコーナーに居座っていたら、下の階にある芝居小屋・中村座の前で「江戸芸かっぽれ」の実演が始まったので、日本橋の上から見物する。月1回、開催されているイベントだが、「10月から来年3月まで博物館の改修工事のため、しばらくお会いできません」という口上を聞いて、半年間の休館を初めて知る。

 さて、企画展示室『徳川将軍家へようこそ』へ。徳川将軍家について、時代順(歴代将軍の就任順)に紹介する。展示品はほぼ全て徳川記念財団か個人蔵(徳川宗家文書)であることに、見始めてから気づいた。家康については、狩野探幽筆『東照大権現霊夢像』(白髪である)など。『会津攻伐軍令状』(会津の上杉景勝征伐に際しての軍令)が生々しかった。2代秀忠にも伝・探幽筆の肖像がある。簡素な墨画のスケッチで、かえって面貌がよく分かる。また、秀忠が征夷大将軍に任ぜられたときの『天曹地府祭都状』は陰陽道の祭祀に使われたもので、黄染紙に朱で祭文が書かれている。徳川将軍家は陰陽道を重視していたのかあ、と意外な発見をしたように思ったが、ちょっと調べたら、江戸時代を通して天皇の即位儀礼としてもこの天曹地府祭が行われており、徳川将軍家は天皇家にならったようだ。

 3代家光には、狩野安信筆の肖像あり。伝・徳川家光筆『架鷹図屏風』は左隻のみ展示だったが、本来は六曲一双。さまざまなポーズの鷹(筆致はやや硬い)が面白い。「長兵衛鷹」として知られる敦賀の鷹絵師・橋本長兵衛の一派によって描かれたものに家光の筆が加えられたのだろう、という解説がついていた。「長兵衛鷹」をググってみて、またいろいろ面白いことを知ってしまった(『福井県史』通史編全6巻より「敦賀の画人」※このサイトは便利。福井県すごい!)。5代綱吉は学問好きらしく、綱吉御手持本(手沢本)の『四書』(小型の版本)と、使い込まれてくたびれた『書袋(しょだい)』も。

 11代家斉の『豆人形』と銀細工『献兎賜盃』も面白かった。後者は、上総請西(じょうざい)藩の林家の故事に由来する、徳川将軍家の正月行事にちなむものだ。12代家慶、13代家定には、ほのぼのした自筆の淡彩画が残っていた。やがて時代は激動の幕末に突入する。銅印『日本政府之印』は、開港・貿易開始に備えてつくられたもので、老中堀田正睦が林復斎や海防掛に諮問(安政4年)して決めたという。ここから実質的な「日本国」が始まった気がして、感慨深かった。

 15代慶喜のあとに16代家達(いえさと)の幼い写真があって、あれ?と思ったが、将軍職は15代で終わっても、徳川宗家は続いたのである。慶喜を初代とする別家徳川慶喜家は慶喜の実子・慶久が継ぎ、徳川宗家の家督は田安家に生まれた家達が相続した。このへんは「家」に関する感覚を失った現代人には、どうも理解しにくい。なお、篤姫や和宮の小袖や単衣など、美々しい衣装も多数、展示されていた。個人的には、天璋院篤姫所用の小袖『萌黄繻子地雪持笹御所車文様 葵文付』が好き。明るい緑色の小袖の腰から下のあたりに「雪の重みに耐えてはね返す」しなやかさを寓意した雪持笹が散らされている。洋装にしたらクリスマスに似合いそうな色とデザインで、品よく愛らしい。

 このあとも常設展エリアの江戸ゾーン、東京ゾーンで、たっぷり遊んで帰った。やはり海外からのお客さんが目立っていて、さまざまな言語の説明が聞こえるなあと思ったら、ホームページに「日本語、英語、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語」の展示ガイド(ボランティア)を提供しているとある。これはすごい。自慢していいサービスだと思う。
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美しい暮らしのお手伝い/民藝の日本(日本橋高島屋)

2017-09-12 23:02:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
タカシマヤ 日本橋店8階ホール 日本民藝館創設80周年記念『民藝の日本-柳宗悦と「手仕事の日本」を旅する』(2017年8月30日~9月11日)

 日本民藝館には何度も行っているので、新鮮味はないかな?と思いながら、寄り道してみた。展示品は見覚えのあるものが多かったが、飾り方が違うと、ずいぶん違った印象を持った。ひときわ目を引いていたのは、芹沢銈介による『日本民藝地図(現在之日本民藝)』(1941年)である。東北・関東(東日本)、中部・近畿(中日本)、中国・四国以南沖縄まで(西日本)が、四曲・六曲・四曲の屏風に仕立てられた巨大な色絵図だ。私は日本民藝館の展示で、一度だけ見たことがある。地産の民芸品マークが多い県と少ない県の差が激しいので「山形多いなあ」「千葉は少ないねえ」などの会話が聞こえた。私も初めて見たときは、同じことを思ったものだ。

 同じ展示室内には、地図に記載の民芸の現物、わっぱや刺し子や塗り物、陶磁器などが並んでいる。地図と同じ1930~40年代に採集された品が多い。比較的新しいものなので、展示ケースには収めず、露出展示である。デパートという環境、清潔な白い展示台と相まって、新品然として見える。着物や足袋、蓑や藁沓もあったが、実にきれいに保存されていることに、あらためて感心した。

 そのほか(さすがにケースに入っていたが)朝鮮陶磁の『染付秋草文面取壺』や伝・申師任堂(シンサイムダン)筆『草虫図』などの名品も見ることができて嬉しかった。五色の塗分盆とか螺鈿丸散らし菓子箱も私の好きな品。大津絵、泥絵、三春人形に鴻巣人形も来ていた。

 逆に、これは記憶にないと思ったものもいくつかある。木喰仏は、よく見る地蔵菩薩かなと思ったら、十一面千手観音だった。頭部は頭上面で膨れ上がってアフロヘアのようになっている。樹上面脇手があまり目立たないので、よく見ないと千手観音だと気づかない。大型本『木喰上人木彫仏』は、西洋の古書かと思ったら、背表紙は革装だが表紙には絣の布が使われていた。柳の著書。沖縄の型染による『山に草花文小襖』は、旧柳邸の小襖とのこと。

 最後に日本各地の民藝館地図があったのも興味深かった。私はなまけもので東京の日本民藝館しか行ったことがないのだが、倉敷、鳥取、松本、熊本、富山、大阪、出雲、豊田市、富山市にあるようだ。今度、少しずつ訪ねてみることを心がけよう。

 会場を出て、もうひとつ気になるパネルがあった。民藝運動と高島屋の長い関わりを紹介するもので「高島屋は、民芸運動の当初から彼らに共感し、民芸の普及を応援してきました」「各地の民芸展や、民芸に美を見いだす作家の展覧会など高島屋と民芸の関わりは100年近くにものぼります」という。へえ、知らなかった。最後は「これからも高島屋は、『美しい暮らしのお手伝い』の観点から誠実に作られた民芸の器や道具をご紹介していきたいと考えています」と控えめに誇らしげで、とてもいい。こういう企業、次の100年もなくならないでほしい。

※全国の高島屋に巡回予定:公式サイト
各地の民芸品の展示即売もあり。
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法勝寺落慶供養の復元/声明と舞楽・荘厳の調べ

2017-09-11 21:52:13 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 第54回声明公演『声明と舞楽 荘厳の調べ:法勝寺供養次第による舞楽法会』(2017年9月9日、14:00~)

 プログラム(冊子)の解説によれば、声明に舞楽を取り入れた伝統的な法要は平安期に隆盛を極めた後、次第に衰退してしまった。国立劇場では、この法要(舞楽法会)方式を何度も上演しているが、声明と舞楽が独立したジャンルとして確立している今日、両者がともに演奏された過去の記録はむしろ新鮮に感じられるという。確かにそのとおりだ。長い伝統に見えるものが意外と新しいと気づかせてくれる点でも、こういう復元の試みはとてもよいと思う。法勝寺は、白河天皇が1075年(承保2年)に造営を開始し、1077年(承保4年/承暦元年)に金堂の落慶供養が執り行われた。なお、高さ約80メートルとされる八角九重塔の完成は、もう数年あとらしいので、本公演のポスターやプログラムの表紙に八角九重塔が描かれているのは、ちょっと不正確なイメージ図かもしれない。

 本公演は「法勝寺供養次第」という文書(『続群書類従』所収)をもとに構成された。プログラムには、その「法勝寺供養次第」が、分かりやすい表形式に整理して掲載されている。ただし表を見ると、今回、上演されたのは、次第のほんの一部であることが分かる。何しろ本来は一日がかりの法会を、2時間程度に圧縮しているのだから。そして、法勝寺供養次第の作者が源経信(1016-1097)であるという解説を読んで、へえ!と思った。かつて国文学を専攻して、この時代の和歌を学んだ私には懐かしい名前だ。『後拾遺和歌集』を批判して『難後拾遺』を書いた、やや性格の悪い歌人として記憶していたが、こんな才能もあったのだなあ。

 ステージ中央には、四隅に赤い欄干を配した舞楽の舞台。その左右に白木のような広い無地の台があって、ここに僧侶が着席する。奥は楽人の座。そして背景には地面から湧き上がる雲文、中天には螺鈿の鏡のような半円が掛かり、仏菩薩の瓔珞のような飾りが垂れている。私の座席は2階の最前列だったので舞台全体がよく見えた。

・集会之鐘(しゅえのかね)

 法会の始めに鐘が打たれる。梵鐘のような籠った音ではなく、西洋の教会の鐘のような軽い響きだった。

・乱声(らんじょう)
・舞楽 振鉾(えんぶ) 三節

 左方からオレンジ色の衣装の舞人、右方から緑色の舞人が現れ、二人で舞う。左方の槍先は金色で、右方の槍先が銀色だった。

・入堂
・奏楽 安楽塩(あんらくえん)
・獅子
・総礼(そうらい)

 舞人の退場後、奏楽が始まったので、僧侶が入場してくるのかと思ったら、左方から獅子が現れた。全身が赤い布で覆われていて、するすると滑るような足取りなので、赤いオットセイみたいだった。派手な動きはなく、舞台に上がると腰を落として座り込んだり、また立ち上げって、ゆっくり徘徊したりする。獅子は悪魔払いの意味があり、平安時代の大法会では二頭登場していたが、今回は一頭で、江戸里神楽若山社中の振付による獅子だという。

 獅子に気を取られていたら、1階客席後方の扉から、2列に分かれて僧侶たちが入場してきた。緑・黄色・紫など色鮮やかな衣の袖をちらりと見せて、遠目にも豪華な袈裟にくるまれている。左列の先頭のひとりだけが、赤い衣に動きやすそうな袈裟を掛け、鉦(?)を叩いて、リズムを計っている。プログラムによると「天台声明七聲会」と(真言宗)豊山声明の「迦陵頻伽聲明研究会」から20人ずつ出演しており、左に着座したのが(真言宗)豊山声明、右が天台声明だったのではないかと思う。法衣の着付けも少し違っていた。

・舞楽 迦陵頻(かりょうびん)
・舞楽 胡蝶(こちょう)

 まず左方が迦陵頻を舞い、続いて右方が胡蝶を舞う。どちらも童舞だが、ほぼ大人並みの身長の子から、その腰くらいまでしかない小さな子までが並んでいて、ほほえましかった。

・唄(ばい)
・散華
・行道楽 渋河鳥(しんがちょう)

 僧侶たちが短い偈文を唱える。同じ章句を、真言と天台それぞれの節回しで唱える。それから華やかな声明とともに、僧侶が台を下り、散華を散らしながら一列になって舞台上を回る。楽人もこの列に加わる。ここで前半が終わり、幕が下りた。後半は、明るかった舞台が暗くなり、螺鈿の鏡のような背景に灯りがともっている。日没まで続いたよう平安の大法会をしのんで、時間の経過を感じさせる演出だろう。

・讃

 やはり天台と真言がそれぞれの節回しで唱える。最後に鐃(にょう)と鈸(はち)が打ち鳴らされる。以前、「声明を楽しむ」の講座で、鳴り物にも宗派の特色があると聞いたことを思い出した。
 
・奏楽 詔応楽(しょうおうらく)
・梵音
・奏楽 一弄楽(いちろうらく)
・錫杖

 「唄」「散華」「梵音」「錫杖」の四曲の声明から成るものを四箇法要というのだそうだ(初めて知った)。三人の僧侶が舞台に上がり、声明の合間に錫杖を振って、「チャリン」という澄んだ金属音を響かせていたが、これは本公演の特別の演出であるとのこと。

・奏楽 鳥向楽(ちょうこうらく)
・誦経
・退堂
・奏楽 宗明楽(そうめいらく)

 誦経は、経文を読むのかと思ったら梵語の光明真言だった。そして奏楽とともに僧侶は退場し、幕が下りる。なお、「法勝寺供養次第」によれば、僧侶が退出したあと、余興として観客を楽しませるため、多くの舞楽が演じられている。萬歳楽、太平楽、狛鉾、納蘇利など左右それぞれ八曲ずつ(!)。なんと贅沢な一日であったことか。楽しかっただろうなあ。

 またプログラムの裏表紙に「法勝寺八角九重塔跡」の全景をかなり上空からとらえた写真が載っているのも目を引いた。観覧車とおもちゃの鉄道がある、小さな遊園地を囲むように巨大な遺構が広がっている。京都市動物園の中だということは聞いていたけど、こんなふうになっているのか。やっぱり、一度は行ってみなくては。
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雑な歴史談義/習近平と永楽帝(山本秀也)

2017-09-08 22:39:09 | 読んだもの(書籍)
〇山本秀也『習近平と永楽帝:中華帝国皇帝の野望』(新潮選書) 新潮社 2017.8

 タイトルに惹かれて、期待して読み始めたのだが、あまり得るところはなかった。明の永楽帝と習近平には意外なほど共通点がある、というのが本書の見立てである。具体的には、(1)権門の出身という血統、(2)権力掌握前における苦節の経験、(3)政治実績の誇示に対する突出した執念、(4)「法」を掲げた苛烈な政敵排除や国内統制、(5)アジア秩序の構築をはじめとすう旺盛な対外拡張の意欲、が挙げられている。もちろん差異があること、たとえば権力掌握前の苦節(都を離れて地方行き)の経験にしても、燕王として任地の北京に赴いた永楽帝と、父の失脚によって陝西省に下放され、百姓仕事に明け暮れた習近平の境遇が、天と地ほども異なることは、著者も注意深く指摘している。

 両者に最も共通するのは「突出した功績を欲し続けるある種の『焦慮』」だと著者はいうのだが、これは中国史に登場する偉大な皇帝の多くに共通する性質である。いや、よく知らないけど中国だけではないかもしれない。習近平と永楽帝に限定する意味を、あまり見いだせない。

 永楽帝のことをよく知らない読者には、それなりに面白い読み物かもしれないが、普通に知られている話ばかりで、特に新しい話題や新鮮味のある切り口はなかった。習近平についての記述も平板で面白くない。まあこれは、習近平自身が面白い人物でないせいかもしれないので、著者を責められないが。

 それでも私は、永楽帝ほどには習近平のことを知らなかったので、いろいろ新しい知識を得ることができた。気になったのは、文革時代に青年期を過ごしたため、正規の教育をほとんど受けていないという指摘。1953年生まれって、そういう世代なのか。1975年に清華大学化学工程部に入学するが、「正規の教育レベルとはかけ離れた授業しか行われていなかった」という。まあそうだろう。しかし、そのこと(指導者として必要な教養を身につけたのかどうか)を気にしすぎる論調には、やや違和感を持った。

 加えて、習近平の「国際教養の徹底した欠如」も著者は問題視している。2017年4月、訪米してトランプ大統領との夕食会で、シリアへのミサイル攻撃を告げられ、暫し沈黙したあと「もう一回言ってくれ」と頼んだことについて、「機転の利いた反論は一切できなかった」と批判的に語っているが、このシリアスな局面で、どんな当意即妙な応答があり得るというのか。なお比較に取り上げられているのが江沢民で、外国好きで外国語も堪能だっという一面を初めて知って、ちょっと驚いた。それで江沢民に、政治家としての国際的センスがあったと言えるんだろうか。

 また、『明史』の愛読者だった毛沢東は、初代の洪武帝(朱元璋)とならび息子の永楽帝も「字を知らなかった」と述べています、と著者は言うのだが、これはかなり疑問である。本当に毛沢東が言っているとしたら、中国語の誇張表現をそのまま紹介していると思われ、あまり誠実なやりかたではないと思う。

 永楽帝が洪武帝を慕ったように、習近平が毛沢東を重視しているという見立ては、一見、納得できる。しかし、それなら私は高島俊男さんの見立てのほうが好きだ。毛沢東は太祖朱元璋である。しかし、市場経済への転換という英断を下したのは、(華国鋒に続く)第三代皇帝の鄧小平で、これは永楽帝が、創業皇帝の遺志に背くことによって成功し、国家を(ただし、全く別の国家として)生きながらえさせたことに似ている、というもの(『中国の大盗賊・完全版』)。何年も前に読んだのに、いまだに思い出してくすりとする。歴史への深い理解と愛情があるからだと思う。
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再訪:源信(奈良国立博物館)+西大寺展(あべのハルカス)

2017-09-06 23:45:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 1000年忌特別展『源信:地獄・極楽への扉』(2017年7月15日~9月3日)

 前期に続いて後期も、駆け込みで見てきた。彫刻はだいたい前期のままだったが、絵画資料はがらりと入れ替わった。古い仏書や文書類も、チェックしてみると、けっこう入れ替わっていた。

 前半で注目したのは、奈良・達磨寺の『仏涅槃図』(平安時代)。古くて貴重なものだが、摩滅してほぼ見えない。知恩院の『阿弥陀浄土図』(南宋時代)は、整然として虚無的に静かで不思議な図像。談山神社の『増賀上人行業記』は江戸時代にできた絵巻物。今昔物語で読んだとおりの増賀上人の姿が描かれていて面白かった。

 前期に「地獄絵」特集だった一角には、奈良博所蔵の『地獄草紙』が完全展開。『餓鬼草紙』『病草紙』なども。「餓鬼」というと「ものを食べられない」苦しみを想像するのだが、描かれているのは「水を飲めない」渇きの苦しみが多いように思った。とりあえず安全な水が飲める環境が、どれだけ幸せかを、しみじみ感じた。また、前期に聖衆来迎寺の『六道絵』が出ていた空間には、別の六道絵や十王図など。當麻寺奥院の『十界図屏風』一双には、修羅や地獄も描かれているが、「人道」にあたる人々の生活の描写が詳細で面白かった。蹴鞠や双六をする人々、宴会や獅子舞も描かれていた。あと、隅のほうで、巨大な當麻曼荼羅(天界をあらわす)の前にたたずむお坊さんが意味ありげだった。

 後半(というか後期全体)の白眉は、和歌山有志八講の『阿弥陀聖衆来迎図』である。中央が大きい3幅構成。むかし高野山の霊宝館で模本を見た記憶はあるのだが、もしかしたら本物を見るのは初めてかもしれない…。自分のブログを検索したら出てこなかった。本展の図録の表紙にもなっている作品である。大きな阿弥陀如来を囲む諸菩薩や天人たちは実に表情豊かだ。向かって右手前には、琴、琵琶、箜篌(くご)などの弦楽器が見える。鼓などの打楽器は左右に。また、阿弥陀の左後方は管楽器隊で、急カーブを切ってたなびく雲にスピード感がある。奥の聖衆は手前の聖衆より小さく描かれていて、ちゃんと画面に奥行きが出ている。何人かの聖衆は、赤い唇から白い歯がこぼれている。特に琵琶を弾く聖衆は目を細め、口元をゆるめて満面の笑み。中国・大同の露歯菩薩像を思い出していた。

 金戒光明寺の『山越阿弥陀図』1隻『地獄極楽図屏風』1双(セット)も好きな作品。『地獄極楽図屏風』の暗い海に、よく見るとヘンな生き物が生息しているのが好きなのである。

※地下回廊のカフェで、前期も食べた『極楽と地獄 冷やしそうめん』。極楽をイメージした金胡麻入りゴマだれと、地獄をイメージしたラー油・唐辛子入りめんつゆでいただく。私は、そうめんをゴマだれで食べたことがなかったのだが、すっかり気に入って、この夏は冷蔵庫にゴマだれを常備するようになった。



奈良博カフェは、展覧会にあわせていろいろな限定メニューを開発しているけど、これは個人的に大ヒット。夏の定番メニューにしてほしい。奈良の名物、三輪そうめんだし。

あべのハルカス美術館 創建1250年記念『奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝』(2017年7月29日~9月24日)

 西大寺展は、この春、三井記念美術館で開かれた東京展を見ている。しかし、せっかく大阪に来たので、あべのハルカスへ見に行った。冒頭には江戸時代に描かれた『称徳天皇像』が掛けられていた。西大寺は称徳天皇の発願で建てられたのである。髪飾りをつけ、十二単姿で、御簾に半分姿を隠している。豊かな頬が健康的で愛らしい。これ、東京展で見たかなあ?と疑問に思って、会場内に置かれていた図録をチェックしたら、やっぱり見てなかった。小さいのに堂々とした如意輪観音半跏像も珍しかった。

 『十二天像』(絵画)は、毘沙門天と月天。東京展と違う作品を見ることができてよかった。実は、東博3幅・京博3幅・奈良博6幅と分けて保管されており、この2幅はふだん奈良博にあるものらしい。月天は3頭の白馬に乗り、毘沙門天は分かりにくいが、地天女に支えられているようだった。

 東京展と違って広い会場の利を十分に生かしており、塔本四仏(奈良時代)は塔内のイメージに似せて、赤い角柱の四方に背中合わせに配置されていた(もっとも塔は現存しない)。なんとなく目元が異国風である。清凉寺式の釈迦如来立像(鎌倉時代)は細身でりりしい美男。繊細な光背も見どころである。般若寺の文殊菩薩騎獅像は、八つの髷を結った八字文殊。子供っぽいのに武闘派の顔をしている。獅子も逞しい。ほかにも、あまり知らない大阪周辺の仏像が出ていて興味深かった。江戸ものが多かったが、奈良・宝山寺の不動明王脇侍像(矜羯羅童子、制吒迦童子)には惹かれた。古典的には崩れたプロポーションに作者の個性があらわれていて、絶妙にいい。

 また、東京展で見なかったものに歌舞伎「矢の根五郎」の絵馬(二代目鳥居清信筆)があった。二代目市川海老蔵を描いたものだという。あ、それで音声ガイドを海老蔵が担当しているのか。東京展にはこの作品が出ていないので、よく分からない人選だと思っていた。
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江戸と大坂の干鰯市場を例に/近世商人と市場(原直史)

2017-09-04 23:41:38 | 読んだもの(書籍)
〇原直史『近世商人と市場』(日本史リブレット) 山川出版社 2017.7

 近世は商品経済が次第に社会を覆っておく時代であり、市場(いちば)が発展し、現代の専門化・高度化した市場(いちば/しじょう)の基礎が形づくられた時代だった。本書では魚肥(ぎょひ)の市場を取り上げる。魚肥とは魚を加工してつくられた肥料のことで、中心的な原料はイワシとニシンである。

 ちょっと面白そうだと思って読み始めたのだが、知らないことが多くて難渋した。ドラマや小説になり易い、誰と誰が戦って誰が天下を治めたか、という歴史は知っていても、人々の暮らしの具体的な実態はまるでつかめていないのだ。私は都会育ちでもあり、農業や漁業には全く疎い。魚肥? 海で獲れる魚を畑の肥料にしていたの? 肥料にするために魚を獲って、商品として流通させていたの?? という、最初の前提でつまずいてしまった。まあしかし、知らないことを学ぶのは楽しいことだ。

 あらためてWikipedia等を調べて、「干鰯(ほしか)」(鰯を干して乾燥させた後に固めて作った肥料)の出現は、一説には戦国時代にまで遡ると言われていることを知った。日本近海で獲れる鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりで、江戸時代も17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになり、同時に農村における肥料の需要が高まり、干鰯が商品として流通するようになったという。

 本書ははじめに江戸における干鰯市場の成立を扱う。房総半島での魚肥生産は、漁業先進地である上方からやってきた出漁民によって戦国末期~江戸初期に開始された(この話も気になる)。当初は出漁民自身が魚肥を上方に持ち帰っていたが、やがて江戸や東浦賀で中継取引が行われるようになる。江戸に成立した干鰯問屋は、北新堀町・南茅場町などに店を構えたが、船の積荷を陸揚げする空き地がだんだん少なくなってきた。そこで新たに深川地域に干鰯場がつくられ、銚子場・永代場・元場・江川場の四つが設けられた。これらは荷揚げの場であると同時に、売り手と買い手が立ち会って価格を決定する市場でもあった。富岡八幡宮の境内には、江川場の買手中が奉納した石灯籠が残っているという。おお、今度、見に行ってこよう。

 市場を構成する人々、問屋とか仲買の役割や、市場を維持する仕組み(手数料の徴収)などの説明は、正直、よく理解できなかった。私は経済活動は苦手なのだ。この複雑な市場の仕組みをまわしている江戸の人々に感心する。

 次に、大坂における魚肥取引について述べる。大坂では、靭町・天満町がまず魚市場となり、寛永元年(1624)永代掘が開削されると、永代浜が諸魚干鰯揚場・市場として認められた。調べてみたら、中之島の南の辺りかあ、行ったことないかなあ。江戸では食用の鮮魚や塩干魚の市場と干鰯の市場が別々に成立したが、大坂では食用の塩干魚と干鰯の融合した市場であったというのも面白い。

 18世紀後期以降、蝦夷地産ニシン魚肥が本格的に流入するようになる(背景に、松前や江差の近江商人の衰退→各地の船持の自立→北前船ルートの開拓。これも詳しく知りたい)。大坂の干鰯屋には、取引地域に基づき「関東最寄」「近州最寄」などのグループが存在していたが、新たに「松前最寄」が成立する。このように多様な取引が成立した理由として、魚肥という商品が、魚の種類や加工方法によって、どの地域のどの作物に向くか、細かな好みが分かれるものであった、というのがとても面白い。よい魚肥と悪い魚肥は、一元的に格付けできるものではないのだ。こういう多様な「関係性の束をすりあわせていく」というのが、市場の大切な機能だったことが納得できた。

 最後にもう一度、関東に戻って、房総産魚肥の流通を見ながら、九十九里の浜商人(はまあきんど)の活躍や、浜商人のネットワークを束ねて江戸の干鰯問屋に対抗しようとした東浦賀の干鰯問屋や、領主権力が関与して問屋を介さずに魚肥を送り出そうとした動きを紹介する。流通ルートが多様化・流動化する中で、時代は近代を迎え、新たな商人による新たな市場が作り上げられていく。本書の内容が十分理解できたかどうか、自信はないが、具体的なイメージを伴う生産や流通の歴史をもっと知りたいと思った。
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2017京の夏の旅・花山天文台を訪ねる

2017-09-03 22:42:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
恒例「京の夏の旅」(2017年7月8日~9月30日)による文化財特別公開。最近、新鮮味に欠けるなあと思っていたら、今年は予想もしていなかった新鮮な文化財の公開が加わった。昭和4年(1929)設立の京都大学仮花山天文台(かざんてんもんだい)である。日本の大学天文台としては、麻布狸穴にあった帝国大学東京天文台に次いで古い。

花山天文台は東山連峰の山の中にあるが、期間中は地下鉄東西線東山駅から45分間隔で無料シャトルバスが出ている。乗り場表示はなく「東山駅1番出口前より出発」という案内だったので、行ってみると、バスを待つ雰囲気の人の姿がチラホラあった。定員27名のマイクロバスで満員の場合は乗車できません、という断り書きがあったので心配していたのだが、これなら余裕、と安心する。バスが到着すると、少し奥まった日陰の空き地で待っている人がいたことが分かって慌てたが、なんとか乗車できた。

バスは蹴上を経由して東山ドライブウェイへ。途中、大きな寺院のような建物が見えたのは、阿含宗の施設らしかった。10分ほどで森の中のロータリーのようなところでバスを下りる(ここまでグーグルMAPのストリートビューあり)。シャトルバスの運転手さんは運転だけが任務らしく、特にガイドはしてくれない。まわりを見回すと「花山天文台特別公開」の看板が出ていたので、この道だろうと思って森の中へ入っていく。



石の大きな砂利道で、あまり歩きやすくはないが、平坦である。しばらく行くと右に旧漢字で「京都大學(角書き)花山天文臺」の文字を刻んだ石の門柱。左の門柱には「京都大学大学院理学研究科」(文字が新しい)とある。門柱だけで扉はなかった。



しばらく歩くと天文台の関係施設らしい建物があったが、ここは素通りして道なりに進む。と、突然、木立の中から本館(望遠鏡)の入口が現れる。白亜というより、少しクリーム色がかった、温かみのある外観。建物の中から「ようこそ。靴を脱いでお入りください」と受付の方が声をかけてくれる。



そして階段を上がって3階の観測室へ。羽目板を並べた木製のドーム天井は、白っぽい明るい色に塗られていた。私は、三鷹の国立天文台でも木製のドーム天井を持つ観測施設に入ったことがあるのだが、あそこは渋い焦茶色の板だった記憶があり、ずいぶん雰囲気が違うものだなと思った。



創建当時は口径30センチの望遠鏡だったが、現在は45センチの屈折望遠鏡が設置されている。円盤を重ねたようなものが下がっているのは重り。この上に紐付きの分銅のようなものが乗っているが、これを垂らすと、バランスに変化が生じて、重たい望遠鏡の方向を徐々に変えることができる。ドーム天井の開口部の方向を変える制御も、同様にかつては重りだけで行っていたそうだ。



3階の観測室を取り囲む展望台から。四角い建物は歴史館。小さなドームは太陽観測を行っている別館(望遠鏡)。その後ろが京都方面に当たるが、街の灯りは、ちょうど隣の峰がさえぎってくれるので邪魔にならない。左前方に開けているのは山科で、むかしは田んぼばかりだったが、近年、すっかり都市化してしまったとのこと。



歴史館には、古い観測器具などが展示されていた。これは子午儀と精密時計。



これは太陽分光写真儀(だったと思う)。



本館と歴史館には、それぞれ天文通のおじさんがいて、ガイドをしてくれた。花山天文台は早くから一般公開されており、関西のアマチュア天文ファンにとっては聖地みたいなもの、という話が印象的だった。第3代台長・宮本正太郎氏(1912-1992)の人となりについての話も面白く、アポロ11号計画に月面観測のデータなどを提供した功績により、記念の皿を贈られたが、それを灰皿として愛用していたとか。「NASAから、ほんまおおきに、ちゅうて絵皿を贈られましてな」と、ここではNASAの人も関西弁になるのが楽しかった。

なお、今回の特別公開の背景には「施設の老朽化や大学の財政難などを理由に廃止が検討されている」という厳しい現実があるようだ。うーむ、なんとかならないかなあ。

京大花山天文台ピンチ! 存続へ「宇宙科学館」構想を提案 元総長ら有志、スポンサー集めや寄付金呼びかけ(産経WEST 2016/11/5)

京都 花山天文台の将来を考える会
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