〇森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史)(講談社学術文庫) 講談社 2016.3
ドラマ『長安十二時辰』に触発された読書の2冊目。本書は2007年に「興亡の世界史」として刊行されたもの。10年後の文庫化にあたり、大幅な加筆修正は行っていない旨があとがきに記されているが、さらに3年経った今日でも、色褪せない魅力に満ちている。同じシリーズの『スキタイと匈奴 遊牧の文明』も面白かったが、本書も負けずに面白い。まあそれは、私が近年「中央ユーラシア」に熱い関心を向けているせいだろう。
「中央ユーラシア」とは、大興安嶺の周辺以西の内外モンゴリアからカスピ海周辺までの内陸アジアに南ロシア(ウクライナ)から東ヨーロッパ中心部を加えた地域を言う。概して草原と砂漠の乾燥地域で、今から約3000年前、ここに遊牧騎馬民が誕生した(馬の原産種がいたから)。四大文明圏から発展する農耕民と、中央ユーラシアから発展する遊牧騎馬民の対立と協調が、アフロ=ユーラシアのダイナミックな歴史を生み出し、高度な文明を育んだというのが、著者の基本の歴史観で、ここから唐(漢民族)とシルクロードで興亡した遊牧騎馬民の歴史を追っていく。なお、著者はシルクロードを「面」で捉えており「(前近代)中央ユーラシア」と同義に用いている。
シルクロード商業の主役といえば、まずソグド人。ソグディアナ(現ウズベキスタン)を故郷とし、中央ユーラシア全域にコロニーをつくり、商人、武人、外交使節、伝道者や通訳、芸能者としても活躍した。ソグド人コロニーは、草原の道・オアシスの道沿いだけでなく、北中国のほとんどの大都市にまで存在した。漢文資料には、商胡・賈胡・胡客などと記される。ああこの、漢人中心の中国史をくつがえす甘美なイメージ。ソグド人の姓、各地に残る足跡、従事した職業、社会構成(自由人と非自由人)、集落のリーダー「薩宝」など、たいへん詳しい。
618年に建国された唐は多民族国家で、その中核的な担い手は北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団と匈奴の一部だった。唐の最大のライバルは中央ユーラシア東部を支配していた突厥第一帝国だったが、太宗・李世民は10年以上かけて東突厥の打倒に成功し、さらに西域経営に乗り出す。一方、突厥遺民は復興のための反乱を起こして突厥第二帝国(682-745?)を建てる。『長安十二時辰』の張小敬ら安西鉄軍第八団が戦ったのはこの突厥第二帝国と考えてよいのかな。
しかし突厥第二帝国の最盛期は短く、8世紀後半からはウイグル帝国が隆盛となり、粛宗を助けて安史の乱の鎮圧にもめざましい働きを見せる。また、マニ教を通じてウイグル人と結びついたソグド人も、引き続きシルクロード貿易で活躍した。このあたりの、民族と宗教の関係には謎が多くて面白い。あと、唐代のウイグルと現代のウイグルは、言語も宗教も全く別物という説明も興味深かった。
安史の乱によって、唐は帝国としての実質を失い、支配領土を極端に狭めるが、淮南・江南の農業経済の発展に支えられ、なお1世紀半近くの命脈を保つ。初唐・盛唐が武力帝国であったのに対し、中唐・晩唐はお金で平和を買う財政国家に変質してしまったため、安史の乱に「乱」というマイナス評価を与えるのが、中国史の視点である。これに対し、著者は安史の乱の背景に中央ユーラシア勢力の伸長(軍事力と経済力の蓄積)を見る。しかし、それだけでは遊牧民が農耕地帯を支配し続けることはできない。中央ユーラシア型「征服王朝」の出現には、文字文化と文書行政による、確固とした統治システムの構築が必要である。これを初めて成し遂げたのは10世紀の遼帝国だが、安史の乱(安史帝国)は「早すぎた征服王朝」と呼ぶべきものではないかという。
終章では、8世紀末に起きたウイグルとチベットの北庭争奪戦、9世紀初めの唐・チベット(吐蕃)・ウイグルの三国会盟について語る。中央ユーラシアがほぼ三国鼎立状態になった興味深い地図を初めて見た。ラサに残るという「唐蕃会盟碑」を見てみたい。そして、8世紀以降、ソグディアナのイスラム化が進行するにつれて、ソグド人は宗教的・文化的独自性を失い、他の民族の中に融解していく。ソグド文字はほぼそのままウイグル文字となり、モンゴル文字→満州文字に変遷していくという結びに、そこはかとない郷愁と哀感を掻き立てられている。