見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

ソグド人とは何者か/シルクロードと唐帝国(森安孝夫)

2019-09-10 20:38:34 | 読んだもの(書籍)

〇森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史)(講談社学術文庫) 講談社 2016.3

 ドラマ『長安十二時辰』に触発された読書の2冊目。本書は2007年に「興亡の世界史」として刊行されたもの。10年後の文庫化にあたり、大幅な加筆修正は行っていない旨があとがきに記されているが、さらに3年経った今日でも、色褪せない魅力に満ちている。同じシリーズの『スキタイと匈奴 遊牧の文明』も面白かったが、本書も負けずに面白い。まあそれは、私が近年「中央ユーラシア」に熱い関心を向けているせいだろう。

 「中央ユーラシア」とは、大興安嶺の周辺以西の内外モンゴリアからカスピ海周辺までの内陸アジアに南ロシア(ウクライナ)から東ヨーロッパ中心部を加えた地域を言う。概して草原と砂漠の乾燥地域で、今から約3000年前、ここに遊牧騎馬民が誕生した(馬の原産種がいたから)。四大文明圏から発展する農耕民と、中央ユーラシアから発展する遊牧騎馬民の対立と協調が、アフロ=ユーラシアのダイナミックな歴史を生み出し、高度な文明を育んだというのが、著者の基本の歴史観で、ここから唐(漢民族)とシルクロードで興亡した遊牧騎馬民の歴史を追っていく。なお、著者はシルクロードを「面」で捉えており「(前近代)中央ユーラシア」と同義に用いている。

 シルクロード商業の主役といえば、まずソグド人。ソグディアナ(現ウズベキスタン)を故郷とし、中央ユーラシア全域にコロニーをつくり、商人、武人、外交使節、伝道者や通訳、芸能者としても活躍した。ソグド人コロニーは、草原の道・オアシスの道沿いだけでなく、北中国のほとんどの大都市にまで存在した。漢文資料には、商胡・賈胡・胡客などと記される。ああこの、漢人中心の中国史をくつがえす甘美なイメージ。ソグド人の姓、各地に残る足跡、従事した職業、社会構成(自由人と非自由人)、集落のリーダー「薩宝」など、たいへん詳しい。

 618年に建国された唐は多民族国家で、その中核的な担い手は北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団と匈奴の一部だった。唐の最大のライバルは中央ユーラシア東部を支配していた突厥第一帝国だったが、太宗・李世民は10年以上かけて東突厥の打倒に成功し、さらに西域経営に乗り出す。一方、突厥遺民は復興のための反乱を起こして突厥第二帝国(682-745?)を建てる。『長安十二時辰』の張小敬ら安西鉄軍第八団が戦ったのはこの突厥第二帝国と考えてよいのかな。

 しかし突厥第二帝国の最盛期は短く、8世紀後半からはウイグル帝国が隆盛となり、粛宗を助けて安史の乱の鎮圧にもめざましい働きを見せる。また、マニ教を通じてウイグル人と結びついたソグド人も、引き続きシルクロード貿易で活躍した。このあたりの、民族と宗教の関係には謎が多くて面白い。あと、唐代のウイグルと現代のウイグルは、言語も宗教も全く別物という説明も興味深かった。

 安史の乱によって、唐は帝国としての実質を失い、支配領土を極端に狭めるが、淮南・江南の農業経済の発展に支えられ、なお1世紀半近くの命脈を保つ。初唐・盛唐が武力帝国であったのに対し、中唐・晩唐はお金で平和を買う財政国家に変質してしまったため、安史の乱に「乱」というマイナス評価を与えるのが、中国史の視点である。これに対し、著者は安史の乱の背景に中央ユーラシア勢力の伸長(軍事力と経済力の蓄積)を見る。しかし、それだけでは遊牧民が農耕地帯を支配し続けることはできない。中央ユーラシア型「征服王朝」の出現には、文字文化と文書行政による、確固とした統治システムの構築が必要である。これを初めて成し遂げたのは10世紀の遼帝国だが、安史の乱(安史帝国)は「早すぎた征服王朝」と呼ぶべきものではないかという。

 終章では、8世紀末に起きたウイグルとチベットの北庭争奪戦、9世紀初めの唐・チベット(吐蕃)・ウイグルの三国会盟について語る。中央ユーラシアがほぼ三国鼎立状態になった興味深い地図を初めて見た。ラサに残るという「唐蕃会盟碑」を見てみたい。そして、8世紀以降、ソグディアナのイスラム化が進行するにつれて、ソグド人は宗教的・文化的独自性を失い、他の民族の中に融解していく。ソグド文字はほぼそのままウイグル文字となり、モンゴル文字→満州文字に変遷していくという結びに、そこはかとない郷愁と哀感を掻き立てられている。

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明代禅宗寺院を想う/声明公演・萬福寺の梵唄(国立劇場)

2019-09-07 23:27:09 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 第56回声明公演『黄檗宗大本山 萬福寺の梵唄』(2019年9月7日14:00~)

 萬福寺(万福寺)の梵唄(ぼんばい)は何度か聴いたことがあるが、大好きなのでまた行ってしまった。ちなみに、これまでの私の「萬福寺の梵唄」体験は以下のとおり。

・2012年1月 日本橋高島屋『隠元禅師と黄檗文化の魅力』(会場内に梵唄の録音が流れていた)
・2011年3月 九州国立博物館『黄檗―OBAKU』(開館直後に僧侶が展示室内で「巡照朝課」を実演)
・2005年4月 国立劇場 声明公演『萬福寺の梵唄』
・1997年3月 国立劇場 声明公演『禅の声明 黄檗山萬福寺』

 2005年4月の公演の記事を書いたときは、それより前の記録が見つけられなかったのだが、最近、国立劇場が「データベース(公演記録を調べる)」を整備してくれたおかげで、1997年のプログラムの詳細まで確認できるようになった。大変ありがたい。では、今回の公演もプログラムに従って記録しておこう。

・解説

 幕が上がる前に、レモンイエローの法衣を着た痩身のお坊さんが舞台に立ち、黄檗宗と萬福寺の開創・隠元禅師について簡単に解説してくれた。「今日は萬福寺の若い者ばかりが大勢来ています、私を除いて」と笑いをとることも忘れない。

・朝課

 毎日行われている朝のおつとめ。2005年、1997年の声明公演でも演じられている。幕が上がると、無人の舞台中央には金色の釈迦三尊図の画幅(たぶん四天王もいた)。背景には緑絹を張り、左右に大きな対聯を掛ける。天井からは多数の赤い幡が垂れていた。ネットで画像を探してみると、萬福寺の本堂(大雄宝殿)の雰囲気をかなり忠実に再現しているようだ。そうすると釈迦の脇侍は阿難・迦葉だったかもしれない。なお舞台のしつらえを把握したのは第二幕以降で、第一幕「朝課」は舞台も客席も暗く、釈迦三尊図だけに照明が当たっていた。

 はじめにコーンと乾いた板の音が響く。魚のかたちをした開梛(かいぱん、魚梆)を叩いたのだろう。1階のロビーの高い位置に大きな開梛が吊られていたことを思い出し、あれを叩いたのかな?と訝る。公演終了後、ロビーの隅に、もうひとつ小さな開梛があるのを帰り際に見た。だいぶお腹が削られていて、こちらが「実用品」らしかった。

 またコツコツと板を叩く音がして、客席の後ろから黒っぽい法衣の僧侶が小走りに進み出て、舞台に上がる。上手、下手で巡照板を叩き、「謹白大衆(きんぺーだーちょん)」と諸衆を呼び集めると、さまざまな色の法衣の僧侶たちが上手、下手に10人くらいずつ登場し、おつとめが始まる。主に使われる楽器は太鼓。今回は、毎月一日と十五日に行われる「韋駄天」の法要を特別に挿入しており、韋駄天を称えるお経は特に素早く読むのだというが、全体を通してリズミカルで、みんな声がいいのでうっとりした。

・施餓鬼(施食)

 七月の中元行事、十月の普度勝会等で行われる法要。舞台中央に赤い布で覆った階段が登場する。2005年にも見ているのだが、全く記憶がなかった。ここでも20人ほどの僧侶が舞台に登場し、うち10人が階段の左右に集まる。赤い袈裟をまとって長い払子を持った導師(金剛上師)は最上段の席に着き、金襴の宝冠(布製)をかぶる。そして両手または片手(右手)でさまざまな印を結ぶ。変化の多い音楽と梵唄が途切れることなく続く。途中で階段の側にいた僧侶のひとりが、木魚の撥を変えてほしかったのか、後ろの列の僧侶に合図を送り、ひとりが舞台袖に取りに行ったように見えた。何があっても流れを中断させない熟練の技(スッと楽器の役割を変わったりする)が垣間見えて面白かった。

 クライマックスでは導師をはじめ、僧侶たちが餓鬼に施す食べもの(饅頭?)を紙に包んで客席に放り投げた。「五姓の孤魂、薜茘多(へいれいた=餓鬼)、さもあらばあれ平地に風波を起こさしむることなかれ」と(ここは日本語で)優しくしずめられる。いいなあ、私も亡魂になったら萬福寺の周辺にいたい、と思ってしまった。それから「金剛杵偈」というお経がとても気に入った。どこかで耳にしたことがある(中国のお寺?)ような気がした。

 「朝課」では使われなかった銅鑼、鐃鈸(にょうはち)など、多様な楽器が使われていたのも楽しめた。大引磬(おおいんきん)、小引磬(こいんきん)という柄のついた金属製の鳴り物も面白い。それぞれを担当する僧侶が、高音と低音を時間差で鳴らすことで、キンコーンという短いメロディが生まれる。これを叩いて、左右にお辞儀をするところが好き。

・大般若転読

 第3幕は、中央の導師席を挟んで2列ずつ、緑色の布で覆った長机がハの字型に並べられた。左右10人ずつ設けられた僧侶の席の前には大般若経(各3秩?)。いくつかのお経のあと、おもむろに「転読」が始まるのだが、まさかこれを国立劇場の舞台で見ようとは思っていなかったので、ちょっと笑ってしまった。私が初めてこの読経方式を実際に見たのは奈良の薬師寺だったが、いつ頃、どこで生まれたものなのかなあ。萬福寺では毎年大晦日から元旦にかけて行われるそうだ。最後に「和読み」で般若心経を唱え、呪、真言などで終わる。

 20年以上前、初めて萬福寺の梵唄を聞いたときは、日本のお寺の声明とのギャップが新鮮で、物珍しくて面白いと思った。最近は中国のドラマで、明代の禅宗寺院の雰囲気が少し分かるようになったので、これはもう、ほぼ中国だなあと思う。日本のお坊さんだから当然なのだが、足袋に草履をはいていることに違和感を感じてしまうくらい。萬福寺、2022年は宗祖・隠元禅師の350年大遠諱を迎えるそうだ。ぜひ何かイベントをやってほしいなあ。

 プログラムは桃のかたちの散華つき。散華の入った紙袋もかわいい。

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戦争画、そのほか/小早川秋聲(加島美術)

2019-09-04 22:52:39 | 行ったもの(美術館・見仏)

加島美術 『小早川秋聲-無限のひろがりと寂けさと』(2019年8月31日~9月16日)

 日曜日、テレビをつけたら日曜美術館で『鳥取県・日野町/日南町へ 小早川秋聲のふるさとを行く旅』が流れていて、少し前にこのひとの絵がSNSに流れてきたことを思い出した。そうだ、東京で展覧会が始まるんだった、と思い出して、さっそく行ってきた。会場の加島美術には、一度だけ行ったことがある。私は「見るだけ」の人なので、コレクターのお客様が集うギャラリーに行くと場違いも甚だしいのだが、そうも行っていられない。

 今回、加島美術では40点の作品を展示。前後期で展示替えがあるので、一回で見られるのは30点程度か。小早川秋聲(1885-1974)は大正から昭和中期に活躍した日本画家で、従軍画家として戦争画を多く描いた。私がSNSで見たのも、彼の代表作の戦争画『國之楯』だった。日曜美術館(途中から見た)でも、兵士の日常を描いた多くの絵葉書が紹介されていたので、戦争画ばかり残した画家のイメージを持って、展覧会の会場に行った。

 そうしたら、1階ギャラリーの入口に飾ってあった作品は、全く違った。あれ?これは小早川じゃないのか?と疑って確かめたら、やっぱり彼の作品だった。そのあと、ギャラリーの中へ観客を導く数枚の作品も、明るく牧歌的な、あるいは平明で爽やかな色調の風景画などだった。そして、油断して振り返った瞬間に、ギャラリーの一番奥の、舞台のような空間に飾られた代表作『國之楯』が目に入る。

 大きな作品だ。暗闇に横たわる、ほぼ等身大の軍服の兵士(正確には将校)。手袋をはめた両手を胸の前で組み、腰には日本刀を横たえる。頭部は寄せ書された日の丸で覆われている。兵士は肌を一切見せず、没個性の木偶のようでもある。頭部にはまるで仏菩薩のような円光がかすかに見える。高貴で荘厳でもあり、グロテスクでもあって、相反する感情がいろいろ湧き上がってくる。

 ただ会場では、この作品に行く前に左隣の壁に掛けられていた『日本刀』から私はしばらく目が離せなかった。軍服の男が、少し崩した胡坐をかいて、鞘を払った日本刀を眺めている。近代兵士の機能と効率重視の軍装(したがってあまり美しくない)姿でと、無駄な力の抜けた体勢と日本刀の角度の美しさの対比に惚れ惚れしてしまった。

 展示は2階に続き、仏画、歴史画、水墨山水、巴里のサーカス団、青空に鯉のぼりなど、多様な題材、多様な技法で描いた作品が現れる。屏風画『薫風』は、梅の木の根元に座る白い髭の老人を描く。ウェブサイトに掲載された画像を見ると六曲一双の右隻で、左隻には鶴が描かれている。鶴と梅を愛した文人・林和靖だろうか。梅の木は、幹をまだらにしている白い苔のようなものが花よりも目立つ。華やかで個性的で、高い絵具をずいぶん贅沢に使っているように思う。そして、いろいろな作品を見たが、どんな題材を描いても品があるのがいいなと思った。

 展覧会で売っていた画集『秋聲之譜』(米子プリント社、2000年)を買ってきたが、今回の展示図録ではないので『薫風』のように図版が掲載されていないものもあるのは残念。鳥取県日野郡の日南町美術館は、地元ゆかりの画家として小早川秋聲の作品を集めているという。頭の下がる活動だなあ。ぜひいつか、一度行ってみたい。加島美術の後期にも都合をつけて行く予定。

※9/8補記 後期展示も見てきた。『薫風』は左隻に変わっていた。梅の木の下に首を低くして立つ鶴。これはこれで綺麗だが、なんだか寂しくて物足りない。頭の中で先週見た右隻を想像して組み合わせると、落ち着く感じがした。ギャラリーの方が「(左右並べるには)展示室の広さが足りなくて」とおっしゃっていた。「個人蔵なんですか?」と聞いたら「そうですね」とのこと。なかなか見られない作品を見ることができて幸運だった。

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おじさんたちの友情/映画・工作 黒金星と呼ばれた男

2019-09-01 23:42:06 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇ユン・ジョンビン監督『工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男』(2018年)

 たまたまSNSで「北に潜入した工作員」を題材にした映画の情報を見た。『工作』(原題どおり)というタイトルもダサいし、ポスターには地味なおっさんが四人(よく見ると一人は若い軍人だった)。なのに、なんとなく面白そうな気がして見に行った。

 韓国陸軍のパク・ソギョン少佐(ファン・ジョンミン)は国家安全企画部にスカウトされ、工作員「黒金星」となる。その使命は、北朝鮮に侵入し、核兵器開発の実態を探ること。真実を知っているのは、国家安全企画部のチェ室長(チョ・ジヌン)ほか数人のみ。パク少佐は借金をつくって軍を辞め、個人貿易業を始め、成功した事業家として注目されるようになる。あるとき、北京に滞在していたパク少佐のもとに北朝鮮の対外経済委員会のリ・ミョンウン(イ・ソンミン)所長から連絡が入る。国家の威信を保つため、急遽、巨額の現金が必要になり、融資を求めてきたのだ。パク少佐はこれを機に共同ビジネスを推進しようと持ちかけ、北朝鮮国内での広告撮影を提案する。母国のために外貨獲得が必要と考えるリ所長はピョンヤンに掛け合うことを約束する。

 リ所長の仲介によってパク少佐は金正日(キム・ジョンイル)委員長とも面会し、ついに広告撮影の認可を得る。「広告撮影」の真の目的は核施設を確認することで、いろいろ理由をつけて寧辺(ヨンビョン)に入り込もうとする。そこでパク少佐が見たものは、極度に貧しい北朝鮮の農民の姿だった。パク少佐の行動に対する厳しい監視は続き、リ所長は、あまり余計なことをしないようにと忠告する。ここまでパク少佐は、自白剤やら盗聴器やら、北朝鮮側が仕掛ける数々の罠をくぐり抜けており、手に汗に握る展開ではあるものの、南の工作員(スパイ)が北の軍事機密を盗み出して、何かがスカッと解決するような話でないことは分かり始めていたが、あとの展開が全然よめなかった。

 1997年、韓国では大統領選が近づき、与党・李会昌(イ・フェチャン)候補は野党・金大中(キム・デジュン)候補の攻勢に苦しんでいた。政権が交代すれば国家安全企画部の存続が危ういことから、チェ室長はやむなくパク少佐に、韓国与党議員と北朝鮮要人の仲介を命じる。韓国与党議員は、北朝鮮が軍事アクションを起こすことで国内の世論を保守派優位に導こうとし、その見返りに多額の資金提供を約束する。

 この秘密取引を盗聴したパク少佐は、リ所長とともに再びキム・ジョンイル委員長に面会し、韓国与党の依頼に応じることを阻止する。北の軍事行動は起こらず、キム・デジュンが大統領選に勝利した。工作員「黒金星」の「裏切り」を知った与党議員らは、彼の正体を韓国のマスコミに流す。このニュースをいちはやく知ったリ所長は、パク少佐のもとに現われ、直ちに国外に逃れるよう告げる。この、敵と味方が反転する瞬間、こういう映画は好きだなあ。

 最後のシーンは、それから何年後だったか。2000年代だと思う。南北が合同で広告映画をつくることになり、大きな統一旗の下で20代の若い女優さんどうしが初々しい挨拶を交わす。それを取り巻く大勢の取材陣。少し離れて、スタジオの左右の隅に立っていた初老の男たちが気づく。パク少佐とリ所長である。リ所長は、パク少佐にもらったローレックスの時計を見せ、パク少佐は、リ所長にもらったネクタイピン("浩然の気"と書かれた)を示す。未来の主役である若者たちを黙って見つめる、おじさんたちの謙虚で控えめな姿にホロリとした。

 泣けるシーンも笑えるシーンも抑えた演出で好ましかった。俳優さんは全く知らなかったが、90年代のおじさんらしさ全開(髪型、それからメタルフレームの眼鏡)で、加齢臭かポマード臭を感じさせて素晴らしかった。ただし北朝鮮のサディスティックな若き軍人・チョン課長役のチュ・ジフンはビジュアル系で例外。また主に北京を舞台に物語が進行するのだが、90年代の北京の雑踏の雰囲気もよく再現されていたと思う。映画の最後に台湾・新竹市のバナーが出てたので、台湾で撮影したのかもしれない。こういう映画こそ、もっと大勢の人が見られるようにテレビ地上波で放映してくれたらよいのに。

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