さて常願寺川、最初に紹介するのは堰堤。暴れ川と紹介した常願寺川にはいくつものの堰堤が築かれいて、この川のとてつもない勢いと土砂の流入が半端でないこと物語っている。(数えきれないほどの堰堤だが、後日調査したい。)
これは立山カルデラのもろく崩れやすい地形・地質がもたらした災いに耐え切れず(この件についても後日改めて紹介する)、各種の砂防計画は明治・大正期に立案されているものの、実際上流部の急流に土木工事の手が入ったのは昭和初期からのこと。
その中でも日本最大級といえる堰堤が今回紹介する「本宮(ほんぐう)堰堤」だ。県道の芳見(よしみ)橋から上流の千寿が原方向を見ると全景がよく見えるし、後方に立山大橋の大アーチなども見えて眺めがいい!
立山砂防事務所の資料によると、高さは22メートル、長さ107メートルの重力式コンクリート堰堤で、貯砂量は約500万立方メートル。これが日本最大級。昭和10年に着工し、僅か2年で完成して以来、富山平野を洪水から守り続けている。
この砂防施設の設置は、長い期間富山県が国に要望をしてきたそうだが、なかなか着工してもらえず、富山県が独自に予算化して施工を当時の新潟土木出張所(今の北陸地方整備局)に委託して建設されたという施設である。
というのも、これより上流部にも大正期に堰堤が築かれたが、出水のたびにことごとく破壊され、この川の砂防事業は国直轄とされていた。しかし、しびれを切らした県の勇み足が功を奏し、本宮堰堤建設以降、次々と上流部にも堰堤が築かれていったという。
早くから本宮堰堤が造られたところが適地であると見抜き、また重要性を認識してきた先人たちはホントに凄い!また工事の最盛期には、昼夜3交代で計画の2.5倍コンクリートの打設を行い、僅かの期間で完成させた作業員の方々に拍手を送りたい。
こんな歴史や物語を背負った本宮堰堤は、平成11年(1999年)に登録有形文化財。平成21年(2009年)には重要文化財に指定されている。
さて、上流部を紹介することができるのはいつになるかはまだ未定であるが、必ず立山カルデラの中に潜入し(もちろん合法的に許可を得て)、その数々の堰堤を見てきたいと思っているし、紹介していきたいと思う。が、まず初めに近代砂防事業の先駆けとなった常願寺川の最初の国内最大級施設の紹介とする。
これは立山カルデラのもろく崩れやすい地形・地質がもたらした災いに耐え切れず(この件についても後日改めて紹介する)、各種の砂防計画は明治・大正期に立案されているものの、実際上流部の急流に土木工事の手が入ったのは昭和初期からのこと。
その中でも日本最大級といえる堰堤が今回紹介する「本宮(ほんぐう)堰堤」だ。県道の芳見(よしみ)橋から上流の千寿が原方向を見ると全景がよく見えるし、後方に立山大橋の大アーチなども見えて眺めがいい!
立山砂防事務所の資料によると、高さは22メートル、長さ107メートルの重力式コンクリート堰堤で、貯砂量は約500万立方メートル。これが日本最大級。昭和10年に着工し、僅か2年で完成して以来、富山平野を洪水から守り続けている。
この砂防施設の設置は、長い期間富山県が国に要望をしてきたそうだが、なかなか着工してもらえず、富山県が独自に予算化して施工を当時の新潟土木出張所(今の北陸地方整備局)に委託して建設されたという施設である。
というのも、これより上流部にも大正期に堰堤が築かれたが、出水のたびにことごとく破壊され、この川の砂防事業は国直轄とされていた。しかし、しびれを切らした県の勇み足が功を奏し、本宮堰堤建設以降、次々と上流部にも堰堤が築かれていったという。
早くから本宮堰堤が造られたところが適地であると見抜き、また重要性を認識してきた先人たちはホントに凄い!また工事の最盛期には、昼夜3交代で計画の2.5倍コンクリートの打設を行い、僅かの期間で完成させた作業員の方々に拍手を送りたい。
こんな歴史や物語を背負った本宮堰堤は、平成11年(1999年)に登録有形文化財。平成21年(2009年)には重要文化財に指定されている。
さて、上流部を紹介することができるのはいつになるかはまだ未定であるが、必ず立山カルデラの中に潜入し(もちろん合法的に許可を得て)、その数々の堰堤を見てきたいと思っているし、紹介していきたいと思う。が、まず初めに近代砂防事業の先駆けとなった常願寺川の最初の国内最大級施設の紹介とする。