大河津分水を見に行ってきた。そのものが土木遺産であるということから、いつか行きたいと思っていたが、近場なので「いつでも行けるか」と思っていたものの、趣味の世界ではなく仕事の資料収集のために訪れることになった。
(写真上(1):奥から流れ込んでいるのが信濃川、手前が旧洗堰、左端に現洗堰が見える。写真上(2):河口方向(国道116号・大河津橋)から可動堰を見る。)
今年も各地で豪雨と洪水被害が連日報道されているが、日本一長い信濃川を中心とした越後平野は、その昔は湿地帯の上、信濃川の反乱が毎年のように繰り返されていた。
それを解消するための放水路(川のバイパス)が大河津分水。信濃川の水を、河口から50キロ付近の大河津(現・燕市分水)から寺泊・野積付近の日本海へ、山を切り開いて直接流し落とすという一大土木事業。分水路の長さは10キロ弱。
しかし、江戸後期の計画発案(住民の請願)から工事に着手したかと思うと反対運動が起き、その間また水害が発生し、ようやく完成したかと思うと堰が陥没するなど、幾多の困難を乗り越え、補修・改築工事を経て現在の姿になっている。
(写真下(3):大河津資料館の分水路の仕組み役目を説明するパネル。写真下(4):当時の技術の粋を結集した大河津分水路の掘削工事の様子(県立歴史博物館展示)。)
ここでの土木遺産の紹介だが、大河津分水そのものが土木学会選奨でAランクだが、やはり可動堰・洗堰にどうしても目が行く。
旧洗堰は、27門の現存する中では戦前最大のもの。かのパナマ運河の工事にも携わった青山士が現場責任者であり、これだけでもワクワクする土木ファンも多いかもしれない。土木学会Bランクではあるが、国の登録有形文化財でもある。(写真下(5・6):旧洗堰の全景と水門部分のアップ。)
現在は一部だけ改修(もしかすると、別に新設)して西川の取水堰として使われているが、旧洗堰の水門は使われておらず、遊歩道などが整備されていることから、ダイナミックな水門も間近に見ることができる。
また、旧可動堰は、昭和2年に自在堰が陥没し、昭和初期の補修工事でやはり青山士や宮本武之輔という土木界の最強コンビが指揮を執って建設にあたったもの。新可動堰が完成する平成26年(2014)までだから、ついこの前まで使われていたということですね。
ナガワ180メートルで、10門あったゲートだが、現可動堰が完成するとお役御免。おまは、3門だけが分水路の右岸側に残る。まだまだ改修事業が続く放水路の中にあって、シンボル的な存在であることから意図的に残したんでしょう。これがAランク。(写真下(7):資料館屋上から河口方向、手前に旧可動堰、奥に現可動堰が見える。写真下(8)は3門残る旧可動堰。)
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