荒川放水路というとこの人に触れない訳にはいかない。青山士(あおやま・あきら)。川の神様。かの広井勇の勧めでパナマ運河建設に唯一の日本人技師として参加したことは有名だが、日本に帰国後、内務省の技師として東京土木主張所(現関東地方整備局)に勤務、荒川放水路の建設を指揮したのである。
青山は、先に紹介した旧岩淵水門(赤水門)の工事も担当したが、経歴の中で東京土木出張所の「岩淵工場」の主任を務めたとの記録がある。管轄する区域や所掌事務などの違いはあるものの、正に現在の荒川下流河川事務所(写真上)付近で荒川(隅田川)を見ていたに違いない。
そして、前回紹介した下流河川事務所の隣にある「荒川知水資料館・amoa」では、開館した1998年(平成10年)には「開館特別記念『青山士』展」を開催し、それらの資料は現在も青山士コーナー(写真上)として展示が続けられているのである。パネル、写真、工事関連機材、青山の遺品など、とにかく充実した内容だ。
そのコーナーでは、青山の年譜が詳しく紹介されている。パナマ運河の建設に参加したことをはじめ、荒川放水路や旧岩淵水門といった首都・東京を守るために尽力したこと、その後、これまた先に紹介した大河津分水の自在堰の修復など、数々の功績とともに静岡県磐田市に生まれ(1878年)から84歳で亡くなるまでが詳しく記載されていた。
青山に影響を与えた人々の紹介するパネルには、内村鑑三、広井勇のほかに、青山が渡米する際、パナマ運河の工事に参加できるよう世話をしたアメリカ政府の顧問のウィリアム・バー、大河津分水の工事でもコンビを組んだ宮本武之輔の紹介などもある。土木に限らず、多くの著名人とのつながりを持っていたことが分かる。
そして、「こころに残る青山士のことば」というパネルでは、多くの河川関連工事に携わった際に残した言葉が掲げられている。漢詩や俳句にも造詣が深く、敬けんなクリスチャンであった青山の利他の心をもって仕事にあたっていたことに感銘を受ける展示だ。
荒川放水路の完成にあたり、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ」と青山は言葉を残している(1922年・大正11年)。これが完成記念の碑として残されているという。どこにあるのか?
amoaの受付の人にどこにあるのか?と聞いてみたが、あまり気にしていない様子で「確かこの辺に、石碑があったけど」と資料館の玄関前に案内される。おー、確かに写真で見たとおりの記念碑がある。入館時には、堀越閘門の移設展示しか目に入らなかったからなー。(amoa玄関に向かって、右に堀越閘門頭頂部、左に完成記念碑がある。)
この碑は、青山と工事関係者が工事の犠牲者を弔うため資金を出し合って作られたもので、青山の「巨大な工事は関係者全員で造り上げていくものである」という精神が刻まれており、工事の最高責任者である青山の名前は書き込まれてはいない。
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