行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

「みなとぴあ」で、小さな「新潟人」を見つけた

2021年12月05日 | 旅行記・まち歩き


新潟市の歴史博物館「みなとぴあ」へは、昨年の夏以来の訪問(2020年8月17日記事参照)。これも永遠のライフワークといっていい。
新潟の川、砂丘、潟は、どうやってできたのか?「ブラタモリ」の新潟編そのものだが、そこには先人たちが築き上げてきた多くの知恵と労力により、いまの新潟があることに興味を抱いてのことだ。
「これを学ばないで新潟は語れない」し、これまでも紹介してきたとおり、大河津分水をはじめとした他に類を見ない大型の土木事業が施工され、新潟平野を日本随一の穀倉地帯にし、豊かで安全な土地にしたことは間違いない。

私が訪れたこの日は、小学生の社会科の授業で何班かに分かれて子どもたちが行きかい、普段は静かな館内だが、この日は賑やかだった。
展示ブースの前で、ガイドの人が声を上げる。「何か気づいたことはありませんか?」。「田んぼに舟がいる」、「稲刈りなのに、田んぼが水に浸って、人が沈みそう」。そう、私も注目のブースの前でのやり取りだ。
ガイドは「おー、よく気づいたね。あなたたちも立派な新潟人だ!」。なぜかほくそ笑んでしまった。確かに頼もしい子どもの言葉、優しいガイドの言葉が印象に残る。

ご承知のとおり、砂丘が何層にも折り重なりできた新潟平野は、土地改良事業による開発や乾田化する前の田んぼは低湿地帯。特に亀田郷といわれる新潟市周辺は、海水面より低い土地も多かった。
地名で、牡丹山、中山、米山が一直線に並び、寺山、紫竹山、女池上山が二列目、岡山、中野山、栗山、山二ツなどが三列目。江南区の亀田まで行くとまたその列がいくつか見える。砂丘(山)の上に集落が形成された歴史がある。
そこに来てこの亀田郷は、信濃川と阿賀野川の大河に挟まれ、常に泥田化しており、毎年のように水害にも悩まされた場所。さらに低い場所は、鳥屋野潟をはじめ「潟・池・沼」となって残った。
この水と地形との戦いや苦難を乗り越えたことに、新潟人の強さが生まれたといってもいい。「新潟人」になろうぜ!まだまだ、研究の余地がありそうな場所でもある。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 豊後土工のアイディアで、工... | トップ | ICTセミナーで「成瀬ダム... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行記・まち歩き」カテゴリの最新記事