many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

おまんが紅・接木の台・雪女

2020-07-05 19:17:36 | 読んだ本

和田芳恵 一九九四年 講談社文芸文庫
丸谷才一の『雁のたより』のみならず、百目鬼恭三郎も『現代の作家一〇一人』で激賞しているんで、読んでみたくなった「接木の台」。
意外と見つからないので、短気を起こしてちょっと前にネットで買ったんだけど、つい最近地元の古本屋をひさしぶりにのぞいたら、同じ文庫がふつうにあるどころか、単行本まで均一棚にあったりして、ちょっとめまいがした、古本あるあるなのでしかたない。
どうでもいいけど、著者名、最初みたとき女性だとばっかり思ったんだが、男性でした、本人もよく勘違いされるようなこと書いてたようですけど。
で、本書の「自伝抄」のなかで、
>『接木の台』のなかの三編ほどが、老人と若い女性の情痴を扱っているということで、一部の注目をあびた。東洋の紳士のような枯れた小説を書き、社会的名士と認められる小説家、評論家のうちに、私の情痴小説をきらう人もいる一方、私を強烈に支持する少数の人がいた。(p.252-253)
なんて書いて、自ら情痴小説と認めちゃってるようなんだが、まあそう言えばそう言えるものなんでしょう。
「接木の台」は、売れない小説のほかに読物記事なんかを雑誌に売り込んだりしてる男性が、座談会の原稿の仕事を手伝う速記者の女性と浮気をする。
女性はまだはたちを過ぎたばかりだが、男のほうはアパートで他人に見られたら父親ということにしましょうってくらい歳が離れてる。
奥さんにばれてすったもんだして別れてから、十年ぶりにばったり昼の電車のなかで再会するところから始まるんだけど。
やりだすといくらでもぐちゃぐちゃしそうな話を、短いなかでスッとまとめてて、たしかに「きわめて趣味のよい型(丸谷)」だと思う。
読むまで知らなかったんだけど、作者は丙午の明治39(1906)年の生まれで、「接木の台」発表の昭和49年には68歳、やっぱそのくらいのトシになって書くから、ただの情痴「=色情におぼれて理性を失うこと(類語国語辞典)」とはちがう味が出てんではないかと。
「自伝抄」に
>私は万年筆に死というインキを入れて、老いた男と若い女の情痴を多く書いた。花やかな場面があっても、浮いた感じを読む人にあたえないとすると、私にせまっている死が、なんとなく、感じられるかもしれない。(p.258)
って書いてるし、やっぱ老いた男がただ色を好むだけぢゃない何かがあるのはわかる。
ちなみにタイトル「接木の台」は、男が自身を朽ちかけた樹のようにどうにか倒れずにいるものと自覚してて、
>(略)すぱっと根元から斬りたおされ、その樹皮へ悠子の小さな枝を接木して、幻の花を咲かせるつもりだった。(p.91)
ってとこからきている、正しくは「接木の台木」という言葉があって、そこからつくった造語だという。
ほかの短編では、切嵌師という伝統工芸の職人をかいた「冬の声」と、これまた木版画の彫師の老人をかいた「掌の恋」っていう、冒頭ふたつのやつはおもしろかった。
ストーリーとか人物とかってのとはまた別に、なんというか、文が短くてリズムよくて、読みやすいのは、古い日本文学にしては意外な感じ。
>浅草三筋町の台東区立図書館から程近い露地奥に、秋山鑑堂の店がある。店とはいっても、問屋筋か、たまに鑑堂の腕を知った客がのぞくくらいだから、仕事場兼住居と思った方がよさそうである。(p.7「冬の声」)
とか、
>「東洋美術図鑑」の編集主任桑山伸夫が、けたたましくベルが鳴る編集机の受話器に、ちょっと耳をあててから、
>「木下君、電話」
>と、木下澄子に手渡しながら、露骨にいやな顔になった。(p.25「掌の恋」)
とかって調子が、なんかスッと入っていける不思議な心地よさをもっている。
そのほかでは、いわゆる私小説のようなものが多くて、そういうのはあまりおもしろいと思えないんだが、でもむかーし読んだ(読まされた?)日本のその手のとは何かが違う感じがする。
丸谷才一によれば、
>(略)和田の作風にはそれにもかかはらず、昭和十年代に支配的だつた日本「純文学」の調子とは微妙に異るものがある。それはおそらく、ロマネスクなものと呼ぶしかない何かだらうし(略)(「雁のたより」p.184)
ということになるんだろうが、具体的にどこがどうとまで私には言えない。
本文庫のコンテンツは以下のとおり。
冬の声
掌の恋
おまんが紅
接木の台
抱寝
囃し詞
幼なじみ
母の寝言
落葉のように
月は東に
雪女
雀いろの空
砂の音
自伝抄

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする