夏目漱石 昭和51年発行・平成14年改版 新潮文庫版
なんだか「夢十夜」が読みたくなって、この秋に文庫本を買った。
むかし初めて読んだのは、家にあった「日本の文学」シリーズの漱石の巻か、それとも児童向け版の「草枕」かなにかに収められていたか、今となっては忘れてしまったが、いずれにせよ小学生のころだったろう。
漱石の小説はけっこう高尚で、日本語も難しくて辞書なくしてはホントは読めないんだが、こういう短くて怪談みたいなのは子どもにも比較的とっつきやすくて面白く感じたんだろう。
当時から印象がめちゃめちゃ強烈だったのは、
>こんな夢を見た。六つになる子供を負ってる。慥に自分の子である。只不思議な事には何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
で始まる「第三夜」である。
>「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だったな」
だなんていう展開が恐ろしい。
で、もちろん、それも読みたかったんだけど、今回やっぱ久しぶりに読みたかったのは「第六夜」。
これは高校生んときに国語の教科書に出てきて、これはコレコレこういう意味なんだと解説されて、ホーそうかぁ!と感心した記憶が強い。
>運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
で始まる話。
運慶は見物人がいようがおかまいなしで仕事を続ける。設計図なんか見ないし、手を止めて考えることもない、ものすごいスピードで鑿と槌でもって物の見事に仁王の顔を彫って作っていく。
それを見て、感心する「自分」のもらした言葉に見物人のひとりが、
>「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と云った。
それ聞いて、なら自分でやってみようと、ウチ帰って積んである薪を次々と彫ってみたが、木のなかに埋まっているものはなく、
>遂に明治の木には到底仁王は埋っていないものだと悟った。
という話。夢の話という体裁をとった、実に見事な現代文明批判論みたいなもの、だと説明されて、そういわれるとそうとしか解釈のしようがない気がしたもんだ。
ほかにもいくつか小品が収められているけど、「文鳥」なんて改めて読むと感心した。
弟子の鈴木三重吉に文鳥をもらって飼うという話なんだけど、観察の細かさとそれを表現した文章が華麗で、ひさしぶりに日本語読んで感激した。
>文鳥は膨らんだ首を二三度竪横に向け直した。やがて一団の白い体がぽいと留り木の上を抜け出した。と思うと奇麗な足の爪が半分程餌壺の縁から後で出た。小指を掛けてもすぐ引っ繰り返りそうな餌壺は釣鐘の様に静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。何だか淡雪の精の様な気がした。
とか、それに続く箇所の、
>(略)又嘴を粟の真中に落す。又微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速かである。菫程な小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いている様な気がする。
だなんて、なかなか書けないよぉー。文豪に言うことぢゃないけど、うまい。
あと、漱石の生涯に関して、大量の吐血をした修善寺の大患という出来事については、私は「『坊っちゃん』の時代」第五部の「不機嫌亭漱石」でしか知らなかったんだけど、今回「思い出す事など」を初めて読んで、ああこのことかとようやくおさまりがついた。
収録作は以下のとおり。
「文鳥」
「夢十夜」
「永日小品」
「思い出す事など」
「ケーベル先生」
「変な音」
「手紙」
なんだか「夢十夜」が読みたくなって、この秋に文庫本を買った。
むかし初めて読んだのは、家にあった「日本の文学」シリーズの漱石の巻か、それとも児童向け版の「草枕」かなにかに収められていたか、今となっては忘れてしまったが、いずれにせよ小学生のころだったろう。
漱石の小説はけっこう高尚で、日本語も難しくて辞書なくしてはホントは読めないんだが、こういう短くて怪談みたいなのは子どもにも比較的とっつきやすくて面白く感じたんだろう。
当時から印象がめちゃめちゃ強烈だったのは、
>こんな夢を見た。六つになる子供を負ってる。慥に自分の子である。只不思議な事には何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
で始まる「第三夜」である。
>「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だったな」
だなんていう展開が恐ろしい。
で、もちろん、それも読みたかったんだけど、今回やっぱ久しぶりに読みたかったのは「第六夜」。
これは高校生んときに国語の教科書に出てきて、これはコレコレこういう意味なんだと解説されて、ホーそうかぁ!と感心した記憶が強い。
>運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
で始まる話。
運慶は見物人がいようがおかまいなしで仕事を続ける。設計図なんか見ないし、手を止めて考えることもない、ものすごいスピードで鑿と槌でもって物の見事に仁王の顔を彫って作っていく。
それを見て、感心する「自分」のもらした言葉に見物人のひとりが、
>「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と云った。
それ聞いて、なら自分でやってみようと、ウチ帰って積んである薪を次々と彫ってみたが、木のなかに埋まっているものはなく、
>遂に明治の木には到底仁王は埋っていないものだと悟った。
という話。夢の話という体裁をとった、実に見事な現代文明批判論みたいなもの、だと説明されて、そういわれるとそうとしか解釈のしようがない気がしたもんだ。
ほかにもいくつか小品が収められているけど、「文鳥」なんて改めて読むと感心した。
弟子の鈴木三重吉に文鳥をもらって飼うという話なんだけど、観察の細かさとそれを表現した文章が華麗で、ひさしぶりに日本語読んで感激した。
>文鳥は膨らんだ首を二三度竪横に向け直した。やがて一団の白い体がぽいと留り木の上を抜け出した。と思うと奇麗な足の爪が半分程餌壺の縁から後で出た。小指を掛けてもすぐ引っ繰り返りそうな餌壺は釣鐘の様に静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。何だか淡雪の精の様な気がした。
とか、それに続く箇所の、
>(略)又嘴を粟の真中に落す。又微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速かである。菫程な小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いている様な気がする。
だなんて、なかなか書けないよぉー。文豪に言うことぢゃないけど、うまい。
あと、漱石の生涯に関して、大量の吐血をした修善寺の大患という出来事については、私は「『坊っちゃん』の時代」第五部の「不機嫌亭漱石」でしか知らなかったんだけど、今回「思い出す事など」を初めて読んで、ああこのことかとようやくおさまりがついた。
収録作は以下のとおり。
「文鳥」
「夢十夜」
「永日小品」
「思い出す事など」
「ケーベル先生」
「変な音」
「手紙」