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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

B級学【マンガ編】

2017-08-12 17:56:27 | 読んだ本
唐沢俊一 1999年 海拓舎
ちょっと前に、古本屋の均一棚で見つけて買ったもの。
表紙開けるとカバーの裏っかわのとこに、
>「B級学」とは、
>大衆文化のフィールドから、
>記憶に埋もれる時代の種子を掬い、
>歴史的・社会的に正しく発芽させようとする
>極めて、現代的な学問である。
とある。いいですねえ。
本文中にも、B級の定義として、串間努さんというかたの言葉を引用して、
>「後に残るものがA級であり、消費されてなくなってしまうものがB級である」(p.58)
とあげていて、B級は劣っているという意味ではないと説明しています。
人気はあるんだけど、だからって保存するとかってことのない、そういうもの。
あと、
>これはどんな時代のどんな創作分野にも言えることである。B級作品が活況を呈していない分野にはA級作品も生まれはしない。(p.226「少女マンガを活性化させるために」)
みたいな宣言もされてます。そうなんだろう、そうだ、そうだ。
で、なかでも、主にマンガがとりあげられてるんだが、第1章は1998年11月の東大駒場祭で四時間にわたって語り続けたという、マンガ論の講演録。
マンガのB級度合いについては、たとえば、
>(略)あるいは人よりカネが欲しい、憎いやつをぶち殺したいという形の本心というものがあって、それを本当に素直に伝えるとほかの芸術分野ではどうしてもこれはちょっと芸術じゃないよなと、あるいはこれは品格に欠けるよな、という躊躇があるんですよね。
>そのために手をかえ品をかえ、いろいろな形で手法や物の言い回しを発展させてきたんですけれど、マンガというものはそのようなまわりくどい手法をとらないわけです。(p.47)
というように、ダイレクトなやりかたするんで、そのパワーは多くのひとに支持されるけど、芸術とは認められてこなかった、みたいに言ってたりする。
リアリズムなんてどうでもよくて、欲望をダイレクトに表現するのがマンガであるっていうこととも関連するんだろうけど、べつのとこでは、
>リアリズムというのは、実に魅力的な手法であるわけですよ。これを使えばぐっと作品のレベルというものがあがる。麻薬のようなもので、あっという間にさまざまな芸術のジャンルにひろがった。このリアリズム耽溺が、いかに個々の作品のレベルを上げて、そしてジャンルのパワーを失わせるかということを、我々はSFやミステリーで見てきたわけです。(p.84)
といったように、ウソ話をつくりあげることの価値を肯定してる。
ただし、一般的に世の中ではウソはいけないって通念があるから、どうしても文化・芸術として認められにくい、B級だからいいんだけど。
リアリティなんか無くても支持されるものについては、マンガだけぢゃなくて、他の映画とか特撮ものとかの例もあげている。
たとえば、ウルトラマンだとか仮面ライダーだとか、変身する前とかしてる間に敵は攻撃してこないのかみたいなとこを、
>(略)自分たちがそれにのめり込んで、それを本物だと思わないと絶対にウソになるというような(略)(p.67)
>(略)見ているほうのファン参加があって初めて成り立つというものがあるわけです。(p.68)
なんて言って、お約束を受容する、それができて楽しめるのが、B級の魅力だと説いています。
そうそう、前回の『漫画の時間』でもギャグマンガの大変さは語られていたけど、本書でも、
>現実から離れたギャグを一つひとつつむぎ出し、またつみ重ねていく作業は、それ自体すごい努力と才能を必要とするものであって、その結果、何人ものギャグ作家が精神を崩壊させ、また才能を絞りつくし、第一線から消えていった。
>大抵の作家は、単純作業であるギャグの積み重ねに耐え切れなくなって、キャラクターに逃げ、ほのぼのとしたものやしみじみしたものを描き、あるいは完全にギャグをやめてしまう。これには、ギャグマンガというものが極めて経済的に恵まれない存在だということもあるだろう。(p.205-206)
と、ギャグマンガの厳しさについて書かれています。
そういうものに負けずに研鑽を怠らない、弟の唐沢なをきは偉い、ってことなんだけどね。
序章 「B級学」宣言
第1章 東大講演 日本マンガ文化の加古・現在・未来形
第2章 B級学的現代マンガ家論
・内田春菊 「人生即作品」の凄み
・望月峯太郎 異物の時代の作家
・横山光輝 アルチザンの光と影
・唐沢なをき 「誰かが先にやるかもしれない」の恐怖
第3章 マンガ、アニメはどこへ行こうとしているのか
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漫画の時間

2017-08-11 18:05:30 | 読んだ本
いしかわじゅん 1995年 晶文社
ふた月ばかり前になるか、古本で買って、最近読んだもの。
およそ100作品にわたるマンガが紹介されてる。
読んだことあるものもあれば、まったく知らないものもある。
でも、いちばん興味ひかれたのは、冒頭の「漫画の読み方」という章で、絵のうまいへたについて解説してるとこだったりする。
あと、漫画というジャンルについて、
>漫画というのは、極端なジャンルではある。極端というのは、進化の形のことだ。普通どんなジャンルでも、進化というのは、ごくゆっくりやってくる。(略)ところが、漫画界では、違う。それはある日突然やってくる。新しい可能性を示すものが、ある日、突然やってくる。(p.76「本流か傍流か、この明解な奇矯 山口貴由『覚悟のススメ』」)
といったように評しているのも、さすがいっぱい読んでるひとだ。
そういうブレイクのあとにくるのが、縮小再生産のくりかえしの大量生産ということも見抜いてる。
あと、ギャグ漫画を描き続けることのむずかしさについても、あちこちで書かれてるけど、
>ここ何年も、いわゆるストーリーギャグの漫画家というものをほとんど見かけない。(略)
>かつて4コマ漫画ブームというものがあって、それが定着して以来、ストーリーギャグは存在しにくくなってきた。読者にこらえ性がなくなってきたのだ。十六ページ我慢して読み続けて、自分で考えてその中から面白さを見つけるという作業を、読者が放棄してしまったのだ。(p.92「苦しみつつ進め 唐沢なをき『鉄剛無敵科学大魔号』」)
というふうにも言っている。
うーむ、私も4コマブーム前からマンガ読んでるから、たしかにギャグマンガの衰退は感じるなあ。
(新しいもの読もうとしてないから、知らないだけかもしれないので、偉そうなことは言えないのだが。)
どうでもいいけど、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を紹介している章があるのだが、巻末をみると【初出不詳】となっている。
この、「岡崎京子に、ぼくはたぶんついていくと思う。」で終わってる文章、私もたしかに読んだ記憶があるんだが、さてどこで読んだんだっけ。
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将棋界奇々快々

2017-08-06 17:32:41 | 読んだ本
河口俊彦 1993年 NHK出版
これは1994年の2版の古本で、今年の初夏のころに買った。
たしか『ブロードウェイの出来事』を手に入れたその足でホクホク気分でふらついてたら、古書市みたいなイベント的売場で見つけたんだけど。
でも出店者みたら、さっき行ってきたばかりの古本屋で、なーんだ奇遇だねえと思った記憶がある。
河口老師の書いたものは、対局日誌系のものはたいがい読んだように思うんだけど、これは見たことないような気がして、安い古本だし買った。
ウチに置くスペースないのが気がかりなはずなんだけど、なんせちょっとハイになってたんで。
なかみは、昭和61年から平成5年にわたって、NHK将棋講座テキストに掲載されてたエッセイということで、そりゃ読んだことないだろうな。
いまは、一般のひとにも、棋士って変わったキャラが多いってようやく知れわたったような感じするけど、あのころからいろんなエピソードは事欠かなかったなという気がする。
羽生世代が出てくる前までのほうが、そんなマジメに研究にいそしんでる感じぢゃなくて、むちゃくちゃで面白い話があったような気がするけど。
いちばんの時代のちがいは、なんつっても、あのころはネット中継も生放送の動画配信もなんもなかったってとこだろう。
よって、対局のなかみ知るには、しばらく日数が経ってから出てくる記事を読むしかなかった。
そういうわけなんで、本書では、たとえば、
>ほとんどのプロの対局は、見ることができず、観戦記しか情景を知る手がかりがない。とすれば、観戦記は読者が推測を楽しむ手助けをしなければならない。(p.195「棋士の心理と心情」)
みたいに、おもしろい観戦記を書け、みたいに言ってる部分がちらほらあったりする。
>ご存じのように、プロ将棋は、密室内の勝負である。ファンの方々は、勝負の決する場面は見ることができない。(略)つまり対局室内のさまざまな出来事は、観戦記者の眼を通してでなければ、見ることができない。(略)すぐれた眼を通じて見た場合は、実際に見た以上に対局者の気持ちの有様がわかる、ということもある。(略)(p.38-39「投了10分前」)
なんて書いてあるけど、現在ぢゃあ、どんな手つきで指したかとか、おやつの食べ方まで、ぜんぶ直接見物できちゃったりする。
(でも手の意味は、あとでちゃんと解説してくれないとわかんないけどね。)
この同じ章の書き出しが、
>「勝負に負けた者の感情が表に出るのは、投了の10分前。それから徐々に気持の整理がついて、投げるときには平静に近い状態になっている」
>と言うのは米長十段だが、私もそう思う。
>悲哀、屈辱、後悔、無念、落胆。敗者の心中はさまざまに揺れ動く。それが赤裸な形で表れるのが、ちょうど投げる10分前ぐらいである。(略)
っていうんだが、これ読んだ瞬間に、ことしの人間対ソフトの電王戦の第二局で、敗勢濃厚になった佐藤名人が、二度だったと思うけど、席外したとこを思い出した。
解説陣の棋士たちも「あー」って声出したのは、負けを認めなくちゃいけないけど投げきれないみたいな、感情の揺れに、強く感じ入るものあったからだろう。たしかに、あれは観ててつらかった。
ちなみに、本書の最後のほう、平成4年から5年にかけてのころの話だと思うけど、コンピュータが詰将棋を解く能力はすごい、ってレベルにようやく達してきたようなんだが、そのへんについても老師は、
>プロ将棋の値打ちは、創造力にあり、情報収集力にあるのは方向違いだと思う。
とバッサリ言ってる。
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××八段の八めん六ぴ

2017-08-05 17:43:28 | 読んだ本
芹沢博文 1982年 力富書房
ついこないだ、とある古本屋の外の均一棚で見つけて買った。
存在は知ってたんだけど、読んだことなくて、ついぞ本屋(って古本屋しかありえないが)で見たこともなかった本なんで。
タイトルの「××」は、「ちょめちょめ」と読む。
もちろん、芹沢九段がレギュラー出演してた「アイ・アイゲーム」のおなじみのフレーズである。
テレビ出演もそうだけど、本書の「エピローグ」には、
>将棋指しが将棋の本を出すのはごくふつうのことであろうが、このような戯文集を出す栄に浴したのはおそらく将棋指しとして初めてだろう。
なんて書いてるように、スポーツ紙や週刊誌に、ここに収めたようなエッセイをたくさん書いてて、ほんとタレント的才能にすぐれてた人だった。
24歳で八段になったくらいだから将棋の才能もすごかったんだろうけど、残念ながら私は全盛期の将棋をほとんど知らない。
いま調べたら、亡くなったのは、もう三十年前、51歳だったそうだ。
本書のなかでもウイスキーをストレートでがんがん飲む話があちこちにあるが、浴びるように酒飲みだしたのは、何歳のときからなんだろう。
才能がありすぎたせいか、若くして絶望しちゃったようなとこがあったみたいで、ちょっと痛々しい、まじめに考えると。
コンテンツは以下のとおり。
「プロローグ」
「並八の八めん六ぴ」
「われ競輪を愛す」
「わがヰタ・セクスアリス」
「並八の世相放談」
「わたしの交遊録-棋友・碁友」
「名局観戦記」
「エピローグ」
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