河口俊彦 1993年 NHK出版
これは1994年の2版の古本で、今年の初夏のころに買った。
たしか『ブロードウェイの出来事』を手に入れたその足でホクホク気分でふらついてたら、古書市みたいなイベント的売場で見つけたんだけど。
でも出店者みたら、さっき行ってきたばかりの古本屋で、なーんだ奇遇だねえと思った記憶がある。
河口老師の書いたものは、対局日誌系のものはたいがい読んだように思うんだけど、これは見たことないような気がして、安い古本だし買った。
ウチに置くスペースないのが気がかりなはずなんだけど、なんせちょっとハイになってたんで。
なかみは、昭和61年から平成5年にわたって、NHK将棋講座テキストに掲載されてたエッセイということで、そりゃ読んだことないだろうな。
いまは、一般のひとにも、棋士って変わったキャラが多いってようやく知れわたったような感じするけど、あのころからいろんなエピソードは事欠かなかったなという気がする。
羽生世代が出てくる前までのほうが、そんなマジメに研究にいそしんでる感じぢゃなくて、むちゃくちゃで面白い話があったような気がするけど。
いちばんの時代のちがいは、なんつっても、あのころはネット中継も生放送の動画配信もなんもなかったってとこだろう。
よって、対局のなかみ知るには、しばらく日数が経ってから出てくる記事を読むしかなかった。
そういうわけなんで、本書では、たとえば、
>ほとんどのプロの対局は、見ることができず、観戦記しか情景を知る手がかりがない。とすれば、観戦記は読者が推測を楽しむ手助けをしなければならない。(p.195「棋士の心理と心情」)
みたいに、おもしろい観戦記を書け、みたいに言ってる部分がちらほらあったりする。
>ご存じのように、プロ将棋は、密室内の勝負である。ファンの方々は、勝負の決する場面は見ることができない。(略)つまり対局室内のさまざまな出来事は、観戦記者の眼を通してでなければ、見ることができない。(略)すぐれた眼を通じて見た場合は、実際に見た以上に対局者の気持ちの有様がわかる、ということもある。(略)(p.38-39「投了10分前」)
なんて書いてあるけど、現在ぢゃあ、どんな手つきで指したかとか、おやつの食べ方まで、ぜんぶ直接見物できちゃったりする。
(でも手の意味は、あとでちゃんと解説してくれないとわかんないけどね。)
この同じ章の書き出しが、
>「勝負に負けた者の感情が表に出るのは、投了の10分前。それから徐々に気持の整理がついて、投げるときには平静に近い状態になっている」
>と言うのは米長十段だが、私もそう思う。
>悲哀、屈辱、後悔、無念、落胆。敗者の心中はさまざまに揺れ動く。それが赤裸な形で表れるのが、ちょうど投げる10分前ぐらいである。(略)
っていうんだが、これ読んだ瞬間に、ことしの人間対ソフトの電王戦の第二局で、敗勢濃厚になった佐藤名人が、二度だったと思うけど、席外したとこを思い出した。
解説陣の棋士たちも「あー」って声出したのは、負けを認めなくちゃいけないけど投げきれないみたいな、感情の揺れに、強く感じ入るものあったからだろう。たしかに、あれは観ててつらかった。
ちなみに、本書の最後のほう、平成4年から5年にかけてのころの話だと思うけど、コンピュータが詰将棋を解く能力はすごい、ってレベルにようやく達してきたようなんだが、そのへんについても老師は、
>プロ将棋の値打ちは、創造力にあり、情報収集力にあるのは方向違いだと思う。
とバッサリ言ってる。
これは1994年の2版の古本で、今年の初夏のころに買った。
たしか『ブロードウェイの出来事』を手に入れたその足でホクホク気分でふらついてたら、古書市みたいなイベント的売場で見つけたんだけど。
でも出店者みたら、さっき行ってきたばかりの古本屋で、なーんだ奇遇だねえと思った記憶がある。
河口老師の書いたものは、対局日誌系のものはたいがい読んだように思うんだけど、これは見たことないような気がして、安い古本だし買った。
ウチに置くスペースないのが気がかりなはずなんだけど、なんせちょっとハイになってたんで。
なかみは、昭和61年から平成5年にわたって、NHK将棋講座テキストに掲載されてたエッセイということで、そりゃ読んだことないだろうな。
いまは、一般のひとにも、棋士って変わったキャラが多いってようやく知れわたったような感じするけど、あのころからいろんなエピソードは事欠かなかったなという気がする。
羽生世代が出てくる前までのほうが、そんなマジメに研究にいそしんでる感じぢゃなくて、むちゃくちゃで面白い話があったような気がするけど。
いちばんの時代のちがいは、なんつっても、あのころはネット中継も生放送の動画配信もなんもなかったってとこだろう。
よって、対局のなかみ知るには、しばらく日数が経ってから出てくる記事を読むしかなかった。
そういうわけなんで、本書では、たとえば、
>ほとんどのプロの対局は、見ることができず、観戦記しか情景を知る手がかりがない。とすれば、観戦記は読者が推測を楽しむ手助けをしなければならない。(p.195「棋士の心理と心情」)
みたいに、おもしろい観戦記を書け、みたいに言ってる部分がちらほらあったりする。
>ご存じのように、プロ将棋は、密室内の勝負である。ファンの方々は、勝負の決する場面は見ることができない。(略)つまり対局室内のさまざまな出来事は、観戦記者の眼を通してでなければ、見ることができない。(略)すぐれた眼を通じて見た場合は、実際に見た以上に対局者の気持ちの有様がわかる、ということもある。(略)(p.38-39「投了10分前」)
なんて書いてあるけど、現在ぢゃあ、どんな手つきで指したかとか、おやつの食べ方まで、ぜんぶ直接見物できちゃったりする。
(でも手の意味は、あとでちゃんと解説してくれないとわかんないけどね。)
この同じ章の書き出しが、
>「勝負に負けた者の感情が表に出るのは、投了の10分前。それから徐々に気持の整理がついて、投げるときには平静に近い状態になっている」
>と言うのは米長十段だが、私もそう思う。
>悲哀、屈辱、後悔、無念、落胆。敗者の心中はさまざまに揺れ動く。それが赤裸な形で表れるのが、ちょうど投げる10分前ぐらいである。(略)
っていうんだが、これ読んだ瞬間に、ことしの人間対ソフトの電王戦の第二局で、敗勢濃厚になった佐藤名人が、二度だったと思うけど、席外したとこを思い出した。
解説陣の棋士たちも「あー」って声出したのは、負けを認めなくちゃいけないけど投げきれないみたいな、感情の揺れに、強く感じ入るものあったからだろう。たしかに、あれは観ててつらかった。
ちなみに、本書の最後のほう、平成4年から5年にかけてのころの話だと思うけど、コンピュータが詰将棋を解く能力はすごい、ってレベルにようやく達してきたようなんだが、そのへんについても老師は、
>プロ将棋の値打ちは、創造力にあり、情報収集力にあるのは方向違いだと思う。
とバッサリ言ってる。
