ここ最近の世の中の流れ。まー別に私がどうこういう話ではないんでけどね。とにかく「他者批判」が多すぎる。ここに関しては多くの人が感じているのではないかと思いますが。
何か他の人と違うことをする。または目立つ事をする。そうすると驚くくらいの「非難」を受ける。震災に対して誰かが何かすると「匿名」で「売名行為だ」「偽善だ」と叩く。これにより「行動を起こす」事がすごくやりにくくなる。実際に震災に遭った方々が「有名人に何かをしたもらうことは迷惑だ」と口にしているのであれば考えないといけないと思う。しかし、ここで問題になるのは「無責任な第三者」の場合が多いということ。
目立つ所を批判する。これが大多数の意見なのか、少数派の意見なのか。「ノイジーマイノリティ」という言葉がある。「マイノリティ」とは「社会的少数派」という意味。「ノイジーマイノリティ」とは「声が大きい少数派」となるのかな。世の中では「声が大きい者の意見が正しい」と誤解されやすい。本当に正しいかどうかではなく「おかしいんじゃないか」と大々的に批判する人間の意見がまるで「正しい」と錯覚を起こす。
日本人の美徳というか「何も言わずに行動する」というのが好まれる。そして集団に属する者の大半は「どうでもいい」と思っていたりする。海外ではボランティアや寄付をした場合は「やっていますよ!」と公にするらしい。他者のために何かをやるというのは「ステイタス」だったりする。そこに関して「批判する」事は起きない。日本だから起きる出来事なのかもしれない。
今回は「ノイジーマイノリティ」が批判する部分は実は「何一つ生産性がない」というのが最大の疑問。他者を批判して「行動しにくい」状態を生み出す。それにより誰が救われるのか?この際、偽善だろうがなんだろが関係ない。人が行動することによって困っている人にプラスになるならそれで良いんじゃないか。何もしないで文句ばかり言っているよりは嘘でも行動するほうが良い。
前も書いたが「うどんカルタ」を発売する時にある読み札が「女性軽視だ」と批判があった。この時、どれだけ多くの人が「女性軽視」と感じただらうか。公務員は「税金で給料もらっているくせに」という見方をされやすいので少数派の意見でさえも反映させることが当たり前だと思われる。立場が弱いという気はない。が、実際はそういう見方をして公務員パッシングをする傾向は強い。
かと思えば都知事のように「ありえない」と思われる行為があっても「これから頑張るから良いでしょう?」という態度で物事を押し切る人もいる。感覚的には「アウト」だと思うが「辞任する気はない」といえば何とかなりそうな感じになっている。恐ろしいほどのお金を使って海外視察に行き、公用車で別荘に通う。「向こうに行ってきちんと働くために」とファーストクラスの席で海外に行く。
おいおい、我々は新潟国体はマイクロバスで15時間くらいかけて移動したよって話です。それでもキチンと選手のサポートはしました。当然の話です。無駄なお金を省くことで他の事に使える。
「都民が辞職を望んだらどのように対応するのか?」という質問に対して都知事が「あとは有権者、都民の皆さんの判断にお任せしたい。ただ、都民の声をどういうふうに測るのか」と応えていた。こういう場合「辞職を望む」と発する都民の声は「ノイジーマイノリティ」だと言われてしまうのだろうか?
前も書いたかもしれないが子どもがゲームを欲しがる時に「みんな持ってるから」という言い方をする。いや、その「みんなって何人?」って話になるよねって書いた気がする。主張する人間の感覚によってその「みんな」は変わってくる。全体の1割であってもその1割が自分の周りに集まっていたらその人にとっては確かに「みんな」かもしれない。統計を取っている「みんな」ではないから判断が難しい。
ノイジーマイノリティ。捉え方によっては誰がノイジーマイノリティで、誰がサイレントマジョリティ(物言わぬ大多数)なのかは分からない。
私のやり方はマイノリティなのかもしれない。こうやってblogであれこれ言うのも「ノイジーマイノリティ」だとして捉えられるのかも。もっともっと物事をしっかりと捉えられる人間になっていきたいと思う。
あー何を書いているのか分からなくなりました(笑)。どうしても物事を小難しく考えてしまうのでダメですね。まー読み飛ばしてください。思うことの一部を書きました。別に政治的な主張をしているわけではありません。あしからず。
何か他の人と違うことをする。または目立つ事をする。そうすると驚くくらいの「非難」を受ける。震災に対して誰かが何かすると「匿名」で「売名行為だ」「偽善だ」と叩く。これにより「行動を起こす」事がすごくやりにくくなる。実際に震災に遭った方々が「有名人に何かをしたもらうことは迷惑だ」と口にしているのであれば考えないといけないと思う。しかし、ここで問題になるのは「無責任な第三者」の場合が多いということ。
目立つ所を批判する。これが大多数の意見なのか、少数派の意見なのか。「ノイジーマイノリティ」という言葉がある。「マイノリティ」とは「社会的少数派」という意味。「ノイジーマイノリティ」とは「声が大きい少数派」となるのかな。世の中では「声が大きい者の意見が正しい」と誤解されやすい。本当に正しいかどうかではなく「おかしいんじゃないか」と大々的に批判する人間の意見がまるで「正しい」と錯覚を起こす。
日本人の美徳というか「何も言わずに行動する」というのが好まれる。そして集団に属する者の大半は「どうでもいい」と思っていたりする。海外ではボランティアや寄付をした場合は「やっていますよ!」と公にするらしい。他者のために何かをやるというのは「ステイタス」だったりする。そこに関して「批判する」事は起きない。日本だから起きる出来事なのかもしれない。
今回は「ノイジーマイノリティ」が批判する部分は実は「何一つ生産性がない」というのが最大の疑問。他者を批判して「行動しにくい」状態を生み出す。それにより誰が救われるのか?この際、偽善だろうがなんだろが関係ない。人が行動することによって困っている人にプラスになるならそれで良いんじゃないか。何もしないで文句ばかり言っているよりは嘘でも行動するほうが良い。
前も書いたが「うどんカルタ」を発売する時にある読み札が「女性軽視だ」と批判があった。この時、どれだけ多くの人が「女性軽視」と感じただらうか。公務員は「税金で給料もらっているくせに」という見方をされやすいので少数派の意見でさえも反映させることが当たり前だと思われる。立場が弱いという気はない。が、実際はそういう見方をして公務員パッシングをする傾向は強い。
かと思えば都知事のように「ありえない」と思われる行為があっても「これから頑張るから良いでしょう?」という態度で物事を押し切る人もいる。感覚的には「アウト」だと思うが「辞任する気はない」といえば何とかなりそうな感じになっている。恐ろしいほどのお金を使って海外視察に行き、公用車で別荘に通う。「向こうに行ってきちんと働くために」とファーストクラスの席で海外に行く。
おいおい、我々は新潟国体はマイクロバスで15時間くらいかけて移動したよって話です。それでもキチンと選手のサポートはしました。当然の話です。無駄なお金を省くことで他の事に使える。
「都民が辞職を望んだらどのように対応するのか?」という質問に対して都知事が「あとは有権者、都民の皆さんの判断にお任せしたい。ただ、都民の声をどういうふうに測るのか」と応えていた。こういう場合「辞職を望む」と発する都民の声は「ノイジーマイノリティ」だと言われてしまうのだろうか?
前も書いたかもしれないが子どもがゲームを欲しがる時に「みんな持ってるから」という言い方をする。いや、その「みんなって何人?」って話になるよねって書いた気がする。主張する人間の感覚によってその「みんな」は変わってくる。全体の1割であってもその1割が自分の周りに集まっていたらその人にとっては確かに「みんな」かもしれない。統計を取っている「みんな」ではないから判断が難しい。
ノイジーマイノリティ。捉え方によっては誰がノイジーマイノリティで、誰がサイレントマジョリティ(物言わぬ大多数)なのかは分からない。
私のやり方はマイノリティなのかもしれない。こうやってblogであれこれ言うのも「ノイジーマイノリティ」だとして捉えられるのかも。もっともっと物事をしっかりと捉えられる人間になっていきたいと思う。
あー何を書いているのか分からなくなりました(笑)。どうしても物事を小難しく考えてしまうのでダメですね。まー読み飛ばしてください。思うことの一部を書きました。別に政治的な主張をしているわけではありません。あしからず。