ほとんど雑記になると思うのでお許しを。
すべての面で「枠にハマる」生き方をする。これは楽しいかどうか。考えさせられます。「真面目だね」と言われることは本当に素晴らしいことなのか。世の中にはルールがある。それは当たり前のこと。ルールがなければみんなが好き勝手なことをしてしまって大変なことになる。日本では車は左側を通るというのは「決まり事」であってそれを破ると事故を起こすなどの大変な迷惑をかけることになる。
いつだったか忘れたが「校則を守る」という話になった。かなり前、何年も前のことだったと思う。私の性格的に「四角四面」でキチッとルールを守らせることに大きな意味があるとは思えない。「個性」というものが何処まで許されて何処からが許されないのか、という話だったと思う。
世の中の大半は「曖昧」だと思う。全てが枠の中に入りきるものではない。校則やルールも「1ミリも外れたら許されない」という世の中であればこんな窮屈なことはない。当時話したのは世の中は「白」と「黒」に明確に分けることができないことの方が多い、という部分。私は指導はする。逸脱するのは許してはいけないと思っている。が、微妙なラインはかなり大雑把にする。これも「あいつはなんなんだ」と言われるのかもれない。
その時に話したのは車でのスピード。50キロ制限の所を「50キロ」で走り続けている人間がこの世にどれだけいるのか?これもblogに明確に文章にしたら批判しますか?50キロ制限であってと60キロ近くスピードが出るともある。流れの中でそれを無視して「ガチガチに生きる」ことって本当に意味があるのだろうか。教育することって「人の言うことを全て聞き入れる真面目な子を育てる」ことなのか?ここに大きな疑問を持ってやってきた。
私は「グレー」の部分の方が大きいと思う。そんな話をしたが「学校現場は白と黒を教える場所だ」と言われた。価値観の相違といえばそこまで。その時の話は「50キロ制限の道を常に50キロで走らせるのが教育だ」という感じになりました。そういう方針の中で私は「存在意義」があるのかどうか真剣に考えましたね(笑)。
私自身が「枠にハマっていない」気がしています。逆に世の中には「杓子定規」にキチッとした生き方をしていない者を許せないという風潮もある。きちんと言われたことをやり続けること、ルールのみを遵守することが「いい事」でそれを外れたら「許されない行為」として捉えられる。指導に全て従う子ばかりだったら本当にそれは面白いのか?勝負の場面で「はい!」とだけ言っている選手が勝てる気はしません。もちろん、素直に取り組めるという部分は大切だと思いますが。
世の中の全員が「50キロ制限道を50キロで走り続ける」というのは面白いだろうか。みんなが常に言われた事を「はい!」と聞いて「お利口さん」と言われる生活をしていたら世の中は「平和」だろうか。ここに関しては私は面白くないと思っています。勉強だけを真面目にやるのが人生ではないと思っている。もちろん、そういう子がいることを否定するわけでない。そこに対する価値観が「なにを持って正しい」とするのか。
極論で話をする。ディベートのような話。そうであれば「曖昧さ」は存在できない。本当に「白」か「黒」で討論をするのだから。微妙なところは許されないのだと思う。
Mr.Childrenの「GIFT」という曲の歌詞の一部。
「白か黒で答えろ」という 難題を突き付けられ
ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷っている 迷ってるけど
白と黒のその間に 無限の色が広がってる
君に似合う色探して やさしい名前を付けたなら
ほら一番きれいな色 今君に贈るよ
私は「赤」が好き。「赤」といっても明るい赤もあれば暗い赤もある。そしてその色を「赤」と名付けた人がいる。人の好き嫌いはそれぞれであり、同じものをみても「良い」と思う人もいれば「嫌だ」と思う人もいる。共通する感覚を万人が持つのは無理だと思っている。
私はある意味「適当」な部分がある。片付けはできない。何かに没頭したら前やっていたことを忘れたりしてしまう。これなんて「枠にハマる」という部分からすれば完全に「アウト」だと思う。それでも他の部分である程度出来ているから「社会生活」が送れている。私が「聖人君子」であり「非の打ち所がない人間」であったら魅力はあるだろうか?自分では想像できないが「面白味がない」と思う。誰でも同じ事が出来るなら「kaneko」という存在は必要とされない気がする。
まー世の中は「行き難い」と思います。きちんと出来ない事があればもちろん腹は立ちます。同じことを何度も繰り返し修正の余地がないという状況であれば指導する意味もないかなとも。それでもしつこく関わる部分はあります。「秀でているモノ」があればそれを認めつつそれ以外の部分の「短所」を少しずつ埋めていけば良い。その「短所」は実はその子の特徴であったりする場合もある。一概になにが「短所」などとは言えないのかもしれない。
競技を通じて少しずつ成長できれば良いと思うし、させていかなければいけない。それは譲れない部分ですね。その視点を失ってしまったら意味がなくなります。「育てる」という気持ちは持ち続けたいなと思っています。
度量が小さくならないように自分で自分を見ておかなければいけない気はしています。中途半端な生き方はできませんから。
なかなか難しいですね。考えさせられます。
すべての面で「枠にハマる」生き方をする。これは楽しいかどうか。考えさせられます。「真面目だね」と言われることは本当に素晴らしいことなのか。世の中にはルールがある。それは当たり前のこと。ルールがなければみんなが好き勝手なことをしてしまって大変なことになる。日本では車は左側を通るというのは「決まり事」であってそれを破ると事故を起こすなどの大変な迷惑をかけることになる。
いつだったか忘れたが「校則を守る」という話になった。かなり前、何年も前のことだったと思う。私の性格的に「四角四面」でキチッとルールを守らせることに大きな意味があるとは思えない。「個性」というものが何処まで許されて何処からが許されないのか、という話だったと思う。
世の中の大半は「曖昧」だと思う。全てが枠の中に入りきるものではない。校則やルールも「1ミリも外れたら許されない」という世の中であればこんな窮屈なことはない。当時話したのは世の中は「白」と「黒」に明確に分けることができないことの方が多い、という部分。私は指導はする。逸脱するのは許してはいけないと思っている。が、微妙なラインはかなり大雑把にする。これも「あいつはなんなんだ」と言われるのかもれない。
その時に話したのは車でのスピード。50キロ制限の所を「50キロ」で走り続けている人間がこの世にどれだけいるのか?これもblogに明確に文章にしたら批判しますか?50キロ制限であってと60キロ近くスピードが出るともある。流れの中でそれを無視して「ガチガチに生きる」ことって本当に意味があるのだろうか。教育することって「人の言うことを全て聞き入れる真面目な子を育てる」ことなのか?ここに大きな疑問を持ってやってきた。
私は「グレー」の部分の方が大きいと思う。そんな話をしたが「学校現場は白と黒を教える場所だ」と言われた。価値観の相違といえばそこまで。その時の話は「50キロ制限の道を常に50キロで走らせるのが教育だ」という感じになりました。そういう方針の中で私は「存在意義」があるのかどうか真剣に考えましたね(笑)。
私自身が「枠にハマっていない」気がしています。逆に世の中には「杓子定規」にキチッとした生き方をしていない者を許せないという風潮もある。きちんと言われたことをやり続けること、ルールのみを遵守することが「いい事」でそれを外れたら「許されない行為」として捉えられる。指導に全て従う子ばかりだったら本当にそれは面白いのか?勝負の場面で「はい!」とだけ言っている選手が勝てる気はしません。もちろん、素直に取り組めるという部分は大切だと思いますが。
世の中の全員が「50キロ制限道を50キロで走り続ける」というのは面白いだろうか。みんなが常に言われた事を「はい!」と聞いて「お利口さん」と言われる生活をしていたら世の中は「平和」だろうか。ここに関しては私は面白くないと思っています。勉強だけを真面目にやるのが人生ではないと思っている。もちろん、そういう子がいることを否定するわけでない。そこに対する価値観が「なにを持って正しい」とするのか。
極論で話をする。ディベートのような話。そうであれば「曖昧さ」は存在できない。本当に「白」か「黒」で討論をするのだから。微妙なところは許されないのだと思う。
Mr.Childrenの「GIFT」という曲の歌詞の一部。
「白か黒で答えろ」という 難題を突き付けられ
ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷っている 迷ってるけど
白と黒のその間に 無限の色が広がってる
君に似合う色探して やさしい名前を付けたなら
ほら一番きれいな色 今君に贈るよ
私は「赤」が好き。「赤」といっても明るい赤もあれば暗い赤もある。そしてその色を「赤」と名付けた人がいる。人の好き嫌いはそれぞれであり、同じものをみても「良い」と思う人もいれば「嫌だ」と思う人もいる。共通する感覚を万人が持つのは無理だと思っている。
私はある意味「適当」な部分がある。片付けはできない。何かに没頭したら前やっていたことを忘れたりしてしまう。これなんて「枠にハマる」という部分からすれば完全に「アウト」だと思う。それでも他の部分である程度出来ているから「社会生活」が送れている。私が「聖人君子」であり「非の打ち所がない人間」であったら魅力はあるだろうか?自分では想像できないが「面白味がない」と思う。誰でも同じ事が出来るなら「kaneko」という存在は必要とされない気がする。
まー世の中は「行き難い」と思います。きちんと出来ない事があればもちろん腹は立ちます。同じことを何度も繰り返し修正の余地がないという状況であれば指導する意味もないかなとも。それでもしつこく関わる部分はあります。「秀でているモノ」があればそれを認めつつそれ以外の部分の「短所」を少しずつ埋めていけば良い。その「短所」は実はその子の特徴であったりする場合もある。一概になにが「短所」などとは言えないのかもしれない。
競技を通じて少しずつ成長できれば良いと思うし、させていかなければいけない。それは譲れない部分ですね。その視点を失ってしまったら意味がなくなります。「育てる」という気持ちは持ち続けたいなと思っています。
度量が小さくならないように自分で自分を見ておかなければいけない気はしています。中途半端な生き方はできませんから。
なかなか難しいですね。考えさせられます。