kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

考えさせる

2019-02-09 | 陸上競技

金曜日。前日の流れから朝練の段階で指示はせず。練習について何か指示を出す前に考えることがあるのではないか。スルー。私はひたすら散歩していました。グランドをグルグル歩く。少しは自分の時間を作ろうかなと。

朝練の終了時に何も言いにこないので一応キャプテンを呼びました。「昨日は報告が遅れてすみませんでした」とのこと。大切な一言だと思います。残念なのは学校に到着してすぐにその事を伝えに私の所へ来るべきだったと思います。呼ばれてから初めて言葉にするというのではなく素早く対応できるといいなと。それでもこういう言葉がきちんと出てくるのは少し考えられるようになったかなと。

日誌を提出したので中身を確認。もう少し詳しく書けないといけない。私が練習を見ていないのであればその様子が伝わるように書く。「普段との練習との違い」について触れていたのは2人だけだったでしょうか。そこを意識させたくてワザワザ別の場所での練習にしたのですが。なかなか難しいですね。

更にその中に「普段よりも声が出ていなかった」と書かれていました。このことに関しては以前から繰り返し何度も話をしています。「声を出したから強くなるわけではない」というのがあるかもしれません。「声を出す」というのは誰にでもできる事です。苦手云々ではなくやろうと思えば必ずできる。今やろうとしていることは「速く走るため」のことです。誰にでもできるわけではない。やればできることをやらない者が「簡単にできないこと」にチャレンジする意味があるのか。順序が逆ではないか。

下級生が付いていくだけという状態ではなかなか上手くいきません。うちのような人数が少ないチームであればそれぞれがきちんと主役にならないといけない。「誰かがやってくれるだろう」という部分があればそこは上手くいかなくなります。

物足りなさがあったのでこちらも文書を作成。それを配布してきちんと話をするように伝えました。それが終わるまでは練習する必要性はないと。日誌にそれぞれの項目について書いて話し合いをするようにしました。練習以前の部分についてきちんと考える時間が必要です。

こういう内容を書くと私の指導を避けようと感じる人も出てくるのは思います。どれだけの人がこのblogを読んでいるのか、誰が読んでいるのかは分かりません。ひょっとしたら進学先を考えている中学生や保護者も見ているかもしれません。

私は預かった選手に対してはきちんと責任を持って向き合いたいと考えています。単純に競技だけをやれば良いとは思わない。技術指導もかなりやります。更にはこういう人間性を育てるという部分にも力を入れています。子供達にとって「避けたい」と思う部分かもしれません。何も言われずに適度に競技をやって適度に青春を送る方が良いかもしれないですから。

しかし、それが本当に楽しいのか。陸上競技はどこでもできます。その内容は千差万別。やるだけなのか、本気でやるのか。そこまで求めていないと言われたらうちは選択肢には入らないと思います。それはそれで仕方ないのかもしれません。勿体ないなと感じる選手を数えきれないくらい見てきましたが、それはそういう選択だったのだと思います。競技も心の育成も、進路も含めて他校には負けない対応をしていけると思ってはいます。そういう想いがあるからこそ中途半端な関わりはしたくないし、するべきではないと思います。

ここも私の考え方を受け入れられないという人もいると思います。否定される考え方ではないと思いますが。信念があってそこを中心に指導をしています。感情論で激怒するというのは基本的にはありません。ここ最近は怒るという事はほぼない。諭すという部分が多いですね。怒って分からせた所でその場しのぎにしかならない気がしています。分からないというのが続くのであればまた別の道を進んでもらう方がお互いのためです。

話が若干逸れていますが本人達が話し終えるまで私は関わらず。話し終えたという報告に来たのですこしだけこちらの考えを伝えました。話が伝わるかどうかというのはかなり大切にしています。理解してもらえるかどうかは別問題ですが。それでも伝え続けないといけないと思います。

18時前くらいから練習をすることに。メニューはどうしたらいいか?と聞きにきたので「今日は一切メニューについては考えていない」と伝える。冷たいかもしれませんが。こうやって話をすればすぐにメニューを提示されるという感覚は持ってもらいたくないので。これは今後に生きてくると思っています。当たり前ではないという部分を大切にしてもらいたい。自分達で考えてやっていました。

こういう感じで書くと問題多発という受け取られ方もすると思います。以前「選手が顔色を伺いながら嫌々やっている」と非難されたことがあります。本当にそうでしょうか?土曜日に少し話をしたのですがキャプテンは「練習が本当に楽しい」と言っていました。この言葉に尽きると思います。この辺りのことはまた別に書きたいと思いますが。

何も言わないでそれなりの練習をやる。適度なメニューを提示してそれをやる。そんなチームでも良いとは思います。が、私はそんな指導はしたくない。考え方の問題だと思います。私が陸上競技に関して勉強するのは好きだというのもありますが、選手に還元していきたいと思うからです。私が子供達の力を伸ばしていくための最大のツールが「陸上競技」というだけ。他に優れた「ツール」を持っているならそれでも良いと思います。

成長するキッカケになると信じています。

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考える機会

2019-02-09 | 陸上競技

木曜日、練習に関しては前の記事にも書いたように別の場所で実施。任せました。

メニュー自体は全てNに考えさせました。本当は3年生が決めるという流れにしていました。少し前に伝えていたのですが提示してこないので前々日にもう一度念押ししても前日に確認。文書化しておきたいと思っていたので。こちらもある程度は実施メニューを把握しておく必要があると思います。今の段階で全てを任せるというのは違うかなと。

任せても良いですが練習の流れをこちらが把握しておく必要があると思っています。これまでの流れに今後の流れを検討する中でもどのように練習を組み立てていくか。また別の機会に練習を自分たちでやってもらわなければいけなくなります。そうであれば1日の練習の流れを把握して次からのメニュー組み立てに生かさなければいけません。

本当は全員で集まってメニューを決めるほうがいいのかもしれません。狙いを明確にしてそれぞれが考えながらやっていく。自分達がやりたい練習というのもあるかもしれません。そうであればそこに向けて準備していくことができます。時間を作ってそこまでやると「練習主体が自分だ」という気づきが生まれるかもしれません。まだまだこちらも余裕がないのかもしれないなと。

練習終了後全く連絡がありませんでした。これに関してはちょっと良くないなと思っています。やはり報告は必要だと思います。何人かに促しました。忘れた頃に「終わりました」という連絡が。内容はほぼそこだけ。うーん。今回何のために「自分達でやる」事を課したのかという部分が全く伝わっていない。こちらが意図する部分が分かってもらえないのであればこういう機会はほぼ無駄になってしまいます。

前の記事にも書いていましたが「意図が伝わるかどうか」というのは大切な事だと思っています。不安があったので「何故別の場所で練習をするのか」に関しては話をしておきました。考える機会を与えたいと思っていたからです。他校がどうなのか分かりませんが、うちは恵まれている部分があると思います。グランドは手狭ですがそれ以外はかなり良いと思っています。駅からは歩いて5分もかかりません。暗くなったら照明が付きます。練習道具は部室の横にあるので使おうと思えばすぐに出せます。

練習計画についてもかなり工夫して配置しています。多くの練習道具を使いながらやりたい動きを様々な形で身につけていくことができる。一応私がグランドにいて気になる所があれば個別に指導します。その環境が「当たり前」ではないという部分をどれだけ感じられるか。そこに関して分かっていかなければいけないと思います。

そうであればやはり「練習」に関してはきちんと報告をする必要性があると思います。更に練習をやってどうだったのか。「良かった」「悪かった」ではない。なにが収穫で次にどう繋げていくのかはやはり必須だと思います。そこが自分達で分かっているのかどうかも今後の練習に繋がっていくと思います。

報告の中に「足が痛いという者もいた」と。ここも大問題だと思います。急性の痛みなのか慢性的なものなのか。痛くてできないという者がいたのならその者は今後のことも含めて個別に報告をしなければいけないのでは?そういう部分の「甘さ」があります。これも求めすぎと言われるのかもしれませんが、やはり「義務」と「権利」の部分から考えると必須なのではないかと思います。

特定の選手に任せすぎだというのは明らかだと思います。うちはいま2年生がほぼいません。そんな状況で特定の者だけが全てを背負うという形になっている。下級生は付いて行くだけのような感じがあります。仕方ないといえばそこまでかもしれません。しかし、それではダメ。その場にいた3年生も手助けをしてあげる必要がある。一人に全てを背負わせるのは良くない。

こういう気配りや支え合うという部分も足りません。「与えられる」ことに慣れすぎているなと感じました。練習に来ればメニューを提示され、動きが悪かったらこちらが修正する。目の前で見ていることに対してはこちらもアプローチしてしまいます。こうやって普段とは異なる環境で何かをする事でいつもは気づかない部分に選手も私も気づくことができます。それは本当に大切なことだと感じています。

細かい事を私が求めすぎると言われるかもしれません。それでも求めます。報告することはやはり必須だと思います。練習内容についてどうだったのかをきちんと報告するのも必須。痛めて走れなかったのであれば今後の練習にも影響してくるのでやはり個別に報告をする必要性はある。特定の者だけが多くの負担をしてはいけないし、周りがそこに気づいて行動できなければいけない。

恵まれた環境の中で何かをしていると気づかないことが多い。こちらも目の届くところであれば手を差し伸べてしまいますから。そうであれば時としてこういう機会は大切なのではないかと思います。考える機会を与えるというのはこの子達のこれからの競技人生だけではなく生活にプラスになる。

もちろん、私的にはかなり「ありえないやろ?!」という感じではありましたが。これにより今後の指導がどうなるかを推察する能力を養わなけばいけません。こんな状態で私が「良く頑張りました」と褒める流れにはなりません。学年関係なくこういう部分に対しては許されないことは許されませんから。

考える機会。今のこの時期だから必要なのかもしれません。取り組みの見直しをしていきたいと思います。もう一度原点に戻ってやり直し。練習云々の前段階を見直したいと感じました。

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当たり前ではないこと2

2019-02-09 | 陸上競技

blogのアプリが新しいものに変わりました。それによりインターフェイスが変わってしまう。ユーザーとしてはいきなりの変更でしたからかなり戸惑いがあります。そしてblogそのものの表示形式も変わってしまいました。赤を基調とした画面にしていたのですが無機質なものに変更されていました。無料でのblogをやっていますからその環境を提供して貰っているだけでありがたいといえばありがたいのですが。

全ての記事を他のblogに移すというのは流石にしんどい。そう考えると与えられた環境下で続けていくしかない。慣れないインターフェイスなので操作性が非常に悪い。編集画面をPCを使って開くとHTMLが挿入されていて改行などをしている。更にPCで書いた記事をアップしようとしてみてみると改行の幅が3行くらい開く。一つ一つ修正しながらアップする。手間が増えた気がします。

全てが自分のやりやすいようにはならない。これまでのアプリの方が使いやすい。慣れているというのもあると思います。

不便を感じさせる。これは選手に意図的に行わせた学外の練習と同じかもしれません。まーblogのアプリに関しては「サービスを提供する」という立場からの物なので同一ではないですが。部活動の指導はサービスとは異なると思っていますし、異なるべきだと思っています。こちらが意図的に何か伝えていくために「不便」「不満」を感じさせることは必要だと思います。

少し内容が変わりますが本を借りて読みした。「AI vs 教科書が読めない子供たち」というタイトルの本です。なかなか考えさせられる内容がでした。それと同時にネットニュースで「授業中に寝ている生徒にやる気がないなら帰れ」と伝えたら「先生に帰れと言われたから帰る」と返答して本当に帰る生徒がいるという現実を受け止めなければいけないというような内容が書かれていました。ここまでくると笑い話では済まないのです。ネタではなく本気で「言われたから帰る」という時代が来ている。

言葉の真意を読む、行間を読むというチカラが著しく低下しているのだと思います。文章を読む力が著しく低下している中でこちらが話をした内容が理解できるとは思いません。私は授業の始めなどに授業内容と関連した話を少ししてから本題に入ることがあります。この「ウォームアップ」としての関連話、ひょっとすると「単なる面白話」で終わっているのではないかという部分が出てきました。語彙が減っているという話ではなく根本的に話を聞くチカラが低下している。繋がりを感じ取ったり推量する力が落ちているのではないか。

何か質問をした時になかなか返答がない。これは答える意思がないというのではなく「本当に何を問われているのか分からない」という可能性があるのではないか。会話がかみ合わないなと思うことが増えてきているなと感じていましたがこういう部分があるのではないか。「1を聞いて10を知る」というのが理想だとしてもそれは不可能なのだと思います。「1を聞いて1を知る」というのさえ危ういのだと思います。

文章を読んだりする時にその情景を思い浮かべながら読む。書かれている内容についてこちらでイメージを浮かべながら読み進める。これは当たり前だと思っていました。だから話を聞いた時になんとなくイメージが伝わる。言葉だけを聞いているのではなくそこから伝わるものがある。それが今はかなり低下してきているのではないか。それは生徒だけではなく大人も同様ではないか。一部分を切り取って「許せない」となる原因はそこにあるのかもしれない。もちろん正解はわからないが。

我々が考えている「当たり前のこと」は既に当たり前ではなくなってきている。学力云々の問題ではない。根本的な何かが間違った方向に進んでいるのだと思う。大抵の内容は教科書に書いてある。しかし、その教科書を読んで理解するという力を育てていない。授業を効率よく進めるために( )抜きのプリントを作る。前後の文脈に関係なくその( )に当てはまる語句を教科書の太字から抜き出して記入すれば成立する。そりゃ教科書は読まなくなる。当然の流れだと思います。

小学校からの英語教育、プログラミング教育。本当に必要なのでしょうか?本来やるべきことは何か。そこを見失っていないか?根本的にやるべき事を飛ばして「新しい事を導入した」という事実を優先していないか?現場の声といってもグランドレベルでその事を感じ取っている人がどれだけいるか。

私は私にできる事をしたい。するしかない。そう思います。「考える」とか「会話する」という能力を様々な場面で磨いていかなければいけないと思います。これまでの「当たり前「は既に理想論に近づいている。考えなければいけないという危機感を持っています。

真面目すぎでしょうか。真剣に考えています。

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