kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

各自でやり続ける2

2020-03-08 | 陸上競技
少し?書きます。

前の記事とは真逆の話になるのかもしれません。この休業期間に「差」が出る。ここは間違いないと思います。そこに対するアプローチや考え方は人それぞれなのかなと。

今回の休業期間は「自分で練習を組み立てる」という形にしています。「部活動禁止」ですからその場に行って私が指示を出すのは違うのかなと。それぞれが場所の確保などをしながらやっていくのは大変だと思います。家の近くに走る場所や身体を動かすスペースがないというのもあるでしょう。その中で何をするのか。それぞれの対応力が求められるのかなと。

練習に関しては「自分で組み立てる」ことがベース。それに対して私が少し修正をして送り返す。OneDriveを利用してWordで作り直したメニューを「共有」する形にしています。あくまでベースは「自分で組み立てる」という部分。一から私がサポートはしません。単純に一昨日やったから同じメニューをというのではない。やってみて課題を見つけてそれを修正する。その繰り返しなのかなと。

ある選手。練習について真剣に考えています。なかなかです。元来の性格もあると思いますが。練習中に必ず動画を撮っています。練習が終わったという報告をくれるのですが、そこに動画があります。「今日は〜をやったのだが、◯◯が上手くできた」「中間での切り替えが遅れたので明日はそこを中心にやりたい」ときちんと組み立てている。動画を撮りながらやることで自分の感覚と客観的な動きの違いを理解する。

こうやって組み立てていくというのは重要だと思っています。いつもは「与えられる」メニューです。練習に関しては「最大公約数」の内容になる。一人一人に全てをマッチングした練習にはなり難いのです。ここを「各自練習」として位置付けてやっているチームもあります。ある程度の「意識レベル」と「課題意識」を持っていなければできないかなと感じています。一律の練習だけではなく自分に合ったモノを個別に取り入れる。こういう部分を育てる事が「選手として自立する」という意味合いでは大きいのかなと。

休業期間。こうやって動画を撮りながら課題意識を持って取り組む。自分自身で振り返りながらやる。それにより「自己理解」が深まっていくのかなと。単純にやっているだけではなく、自分で感じ取りながらやっていくというのは今後の成長を促す事になるのかなという感じを受けています。

また、ある時「坂道でスイッチングをやる」という提案をしてきた選手が。普段の練習ではなかなか坂道走ができません。山まで移動しなければいけないので。今回の時期はある程度自分達で自由が効きます。やりたいなと思っている事ができる。坂道でスイッチングをすると普段よりも前に引き出す意識が必要になる。そうやって普段と同じことを環境を変えることで「感覚を変えていく」というのができる。それは非常に意味がある時間なのではないか。そう感じました。

さらに別の選手が「10m+30m」「10m+50m」「30m+50m」などの「加速走」をやりたいと計画を立てていました。これもそのままやる事に。自分で「やってみたい」「取り入れたい」と考えたモノを大きく否定する必要はないと思っています。今の自分にとってその練習が必要だと感じたからやってみる。逆にその感覚が良いのであれば普段の練習にも取り入れていけばいい。選手から提案されたモノもうちにとってプラスになるかなという気はしています。それを見つけ出す機会になる。私にとっても勉強になります。

「チャンス」だと書いてきたのはこういう部分を期待していたからです。与えられる事に慣れすぎていて「考える」ことから逃げていた部分があったのかなと。私が目の前にいればそれに頼る部分がある。そこから抜け出す「チャンス」なのではないかなと考えていました。前な記事のように「やらない」という「リスク」もあります。しかし、本気で何かをやろうと思えば「やらない」者に合わせる必要性はないかと。

こういう部分も含めて「練習計画」を立てさせています。「練習場所に行って考える」のではなく「あらかじめ考えて取り組む」ことでその日のやる事が明確になります。何人かで集まって「今日は何する?」と考えるというのも一つのパターンなのかもしれませんが、最初から「やるべき事」を考えておく事で練習の質が間違いなくあがります。そういう部分も含めて「チャンス」なのかなと。

まだまだ道半ばです。これまでのことを私自身も振り返りたいなと考えています。私が云々ではなく最後は選手何どうするか、です。少しずつ変わっていっている。人数は少ないですがこうやって取り組んでいるというのを示していきたい。応援されるチームになるというのはまだ遠いかもしれませんが、必死になって取り組んでいる選手がいます。こんな状況だから「成長」へとつながっていく。そう信じています。

また書きます。
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各自でやり続ける

2020-03-08 | 陸上競技
全体で集まって練習ができなくなって1週間が経過しました。ここに関しては私だけではなく多くの人が様々な感情を持ちながら過ごしていると思います。選手も同様でしょう。競技だけが全てではない。当然の話です。しかし、それだけではなく「人生で一回しかない高校生活」です。本気でやりたいと思う者にとってはこの時期は試練ですね。

前から書いていますがこの期間は本当に自分達の想いが試される時期だと思っています。人によっては全くやらない者もいると思います。色々と話を聞くと「やっていない」のに「やった」という者も出てくるようです。私の価値観からすればこのことに何の意味があるのか理解できません。やりたくないならやらなければいい。やりたいならやればいい。それだけの話だと思っています。

社会人選手を例に挙げると分かりやすいと思います。社会人選手は「誰かからやらされている」訳ではありません。本当に「好き」だからやっているのです。やってもやらなくても他者からあれこれ言われる話ではありません。集団に属しているわけでもありませんし、ある意味「自由意志」だと思います。練習をして試合に出る。そこに意味がある。仕事が忙しくてもその合間を見て身体を動かす。それが「楽しい」のだと思います。

社会人選手がやっていることに比べると部活動は「やらされている」感じが出てきます。まー社会人選手も学生時代は「やらされる」部分からスタートしているとは思いますが。ある程度の段階から「自分が好きでやる」という感覚になっているから「自分のためにやる」という行動ができる。

うちは「陸上競技」をする。そのための集団です。学校によっては「身体を動かす」事を目的にやるところもあると思います。それはそれでありなのかなという気はしています。そこを否定する必要はない。「楽しい」には差があります。何をもって「楽しい」と思うのか。自分が速くなっていくのが「楽しい」と感じる選手もいればみんなで集まって何かをする事が「楽しい」と感じる者もいる。どちらが正解でどちらが間違いだとは一概には言えないと思っています。

が、うちは「陸上競技」をする。これは短距離も長距離も同じです。この期間に全く身体を動かさなかったり、「やったふり」をすることに何も意味がない。先日話をした内容をもう一度書いておきたいなと思います。

「やることをやったかのように見せかけて手を抜いたことはありませんか?見せかけだけの努力が本当の成功につながるのでしょうか?成功におよばないのがわかっていて、なぜそんな見せかけだけの苦労をするのでしょうか?見せかけなど関係ないのです。一生懸命できることをするしかないのです。成功に近道などありません。忍耐力と目的に向かう集中力がなにより必要です。格好をつけるだけでなく、自分らしさの勝利に向かうことが大事なのです。見せかけはただ単に成功の幻覚をつくりだすだけなのですから」。

この文章は「真理」を突いていると思っています。誰のためにもならないのに周りに対して「自分はやっている」ということで立場を守ろうとしているのかもしれません。そこに意味があるのか。色々な話を聞く中で「ほぼないやっていない」という者がいるんだろうなと感じています。集団として崩れる危険性が高いのは間違いない。幸い他の者がそれに影響されないというのは救いではあるのですが。

これも何度も書いています。「やっている」「やっていない」を1か0で表せば大半の者は「1」だと思っています。全くやっていない者はほとんどいないだろうから。しかし、同じモノを「100」か「0」かで示した時に明らかに差が出る。その事が理解できない者が「競技」ができるのか。常に自分は「やっている」と思うのだから。

練習を3時間近くやった時の話。「用事がある」と帰る。家でやるという話でした。後日聞いてみると「30分くらいやった」という返答。ここはなかなかです。その前段階でもほとんど練習をしていないのに。「これからはきちんとやります」という形あるので「無理ではないか?」と何度も何度も確認しました。「何となくやるという者がいてもいいではないか」という意見もあると思います。それも価値観だとは思いますが。

私自身は「競技力」という部分だけではないと思っています。「取り組む姿勢」です。少しでも力を上げようと思えば身体を動かす必要があります。それも適度にではなく計画的にです。だからしつこく話をしてきました。が、「別にそこまでしてやらなくてもいい」というのであればうちの活動方針とは全く違います。「選択する権利」はあると思います。それはお互いにです。きちんとやることができないのであれば、それが許される活動をすればいい。

このことはこれまでも何度も経験してきました。経験上、こういう選手はほぼ変わらないと言えます。何かあれば「やらなくて良い言い訳」を探すからです。「このタイミングで病院に行くの?」ということが多々あります。それも改善される感じがない。いつまで病院に行くの?という部分。他に空いている時間には行かずに狙ったかのようにその時間に行く。まーこの部分は「言っても仕方ない」とは思っているのですが。それなら書くなという話なのですが...。

私自身は「競技をやりたい」と強く望んで競技生活をしていました。指導の最初の頃は「やったふり」をしている選手に対して意味がないので「集団に所属させながらきちんとやらせる」と考えていました。今は「やったふり」をするなら「他のことをやったほうが良い」と強く感じています。お互いに不幸。

保護者が「続けるように」と求めるのかもしれませんがこれは最大の不幸。本人は「やりたくない」と思っていて周りも「きちんとやってくれないと雰囲気が...」と感じる。指導する側も全体のことを考えたらプラスにならないと感じる。それでも「続ける事に意味がある」という話になる。いや、このご時世でそこに「意味」はないと思います。やりたくないことをダラダラやって周りが「何でやっているんだろう」と感じる雰囲気は誰にとってプラスになるのか。

この感覚は分かってもらえないかもしれません。それほど難しい話を書いているつもりはありません。私の考え方が絶対的だとは思いません。それでも時間を有効に使うという意味では本当に考えなければいけないことなのかなと。

まー全く明るい話ではないですね。こういう時だから「差」が生まれるのは確かです。そこをどうするか。ここだけではない。また別の視点からの話を書いておきたいと思います。
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