思うことを。
日々いろいろなことを感じながら。それが世界にどのような影響を与えるわけでもなく。「今」の自分にとって何が大切なのか。何をしようとしているのか。そこだけを見つめながら生活をしている感じがある。
ネット上で「100日後に死ぬワニ」に関しての話が出ている。イラストレーターの方が100日前から毎日1話ずつ更新していく。読んでいくと「何気ない毎日」が書いてある。アルバイトをしている。そこで気になっている異性がいてその人に対してアプローチをかけようとするが微妙な感じでできなくなる。それでアルバイトをやめる。また、友人と「行こうか」という声掛けで「ラーメン」を食べに行く。毎日1話ずつ4コマ漫画で「何気ない毎日」が描かれていく。4コマ目の下には「死まであと〇〇日」と書かれていてカウントダウンされていく。
本当に何気ない毎日。友人は「目標」を持ち始めてアルバイトをやめて正社員を目指す。映画を見て「来春公開」という宣伝があれば「楽しみだな」と感じる。最初のころに命を救った「ひよこ」が時間が経過して「ニワトリ」になっている。何気ない日々を過ごしている中で「何か」が少しずつ変わっていく。が、人はその「平凡な毎日」が「明日も続く」と感じている。いや、そこまで考えていないのかもしれない。なんとなく過ごしていたら一日が終わっているということのほうが多い。
たった4コマ。その中に「日常」が書かれている。そして100日目、ワニは命を落とす。直接的な表現はないが「デジャブ」のように「ひよこ」が歩いている。正義感が強く「もどかしさ」を感じながら生きている。そして突然迎える「死」。多くの示唆が含まれていると思う。
我々の周りには「そこにあるのが当たり前」と感じるものが多い。学校に行けば生徒がいて授業がある。放課後は特別なことではなく「練習」が始まる。それは「日常」であって普段考えれなければ「特別」なことではない。毎日は「平凡」の積み重ねでしかない。ドラマのように「盛り上がる場面」が毎日のように起きることなんて絶対にない。
3学期最後の日、ある生徒が「先生に来年も担任をして欲しい」と言った。全員が座っているときに。これは我々としては幸せなことなのかもしれない。全員がそう思っているとは思わないが一人でも「また来年も一緒に」と言葉にしてくれるのは嬉しい。
その時に私は「どうやろうね」と答えた。「来年度転勤してるかもしれんよ」「ひょっとしたら明日死んでるかもしれんよ」という投げかけをした。天邪鬼といわれるかもしれない。それでもその時は本当にそう思った。「来年度も私がその場にいる」というのは誰も保証してくれない。今まで「当たり前」と思っていたことは実は「特別」なのかもしれない。私が明日も生きている保証はどこにもないのだから。素直にそう思ってそれを伝えた。教員としてどうなのか・・・という話になるのかもしれないが。
私は「部活動」ができなくなっても生活のリズムを崩したくないと思ってこれまでと同じ時間帯に職場に行くようにしている。普段朝練をする時間は「清掃活動」をする。これまで感じなかったことを日々感じるようになる。今までやっていたことが「日常」であれば今やっていることが「特別」なのか。それも違う。生きている時間をどのように使うのかは人それぞれ。何も考えずに生きている人のほうが圧倒的に多い。それが「普通」だから。
ある日突然、「明日から部活動禁止」となった。これまで「当たり前」だったことができなくなる。「卒業式」を迎える。これは「3月1日に高校を卒業する」という明確な期日が示されている。だから前もってそこに向けての「準備」をする。悲しみもあるがある程度の「覚悟」がある。だから受け入れることができる。
私的な話。私が高校時代。「日韓交流」で韓国に試合にいった。大きな話ではなく「市」レベルの話。「行ってくるね」と挨拶をして数日後に戻ってきたら同じクラスの友人が亡くなっていた。突然すぎて受け入れることができなかった。彼が亡くなった時に私は何も知らずに試合に出場していた。その後も何も感じずに日本に戻ってきた。今の時代であれば電話等で連絡があるのかもしれない。当時はそんなものはなかった。帰ってきたらそこに「当たり前」はなかった。
阪神淡路大震災、東日本大震災。豪雨災害や土砂崩れ。それにより多くの人が命を失い、日常と思われていた生活が送れなくなった。そう考えると「あるのが当たり前」というものは存在しない。そこに関しては私たちは考えておかなければいけない。「余命〇年」と宣告される。そうなると「覚悟」ができるのかもしれない。本人も周囲も。しかし、「終わり」は突然やってくる。そのことを分かっておかなければいけない。
世の中に「あって当たり前」のものはない。「毎日」が本当は「特別」なのだと。でも、そのことには絶対に気づかない。「終わり」を迎えたときに初めて気づくものがある。それが「生きる」ということの辛さなんだと思っている。
まとまりはない。思うことをつらつら書いているだけ。私が死んだらこのblogは何となく「記録」として残っていくんだろうなと思う。いつ来るか分からない終わりに向けて・・・考えさせられます。