kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

考えさせられる

2020-03-27 | 陸上競技
これは価値観が大きく異なるのでどれだけなのかはわかりません。「命」の問題であったり「責任」の話であったり。考えさせられるなという話です。
 
先日、近隣の山で練習をしていた生徒から写真が送られてきました。坂道を走ろうと思ったら近くに「見学者」がいると。何かと思えば野良犬でした。職場の近くに山があるのですがそこには複数の野良犬が住み着いています。親子で住んでいるのである意味危険だなとずっと思っていました。先日は清掃活動をしているときに3頭が群れている姿を見た。一人だったので「恐怖」を感じた。
 
野良犬自体も人間を恐れているかもしれない。近づいてくることはないのかもしれないが状況としては怖い。
 
 


そして一昨日、朝清掃作業を指定と山の公園に「山盛り」になっているものが。小さな子供たちが前の日に「どんぐり」を集めていたのかなと思って遠めに見る。公園内を一周して戻ってよく見てみるとベンチのところに大量の「ドッグフード」が置いてある。1か所だけではなく2か所に。
 
 




これってどうなんだろうと考えさせられた。野良犬のための「餌」だと思う。山には野良犬が食べる「餌」はない。常にやせ細っている。ゴミをあさるというのもこのご時世なのでできないのだろう。ほとんどは「ゴミ置き場」の中に入れられているのであさることもできない。野良犬も生きている。何かを食べなければ餓死してしまう。
 
周南市では「野良犬問題」が全国版のニュースで取り上げられた。半端ない数の野良犬がいる。それに対して複数のボランティアの人たちが「餌」をあげている。SNSで募っていたという内容だった。目の前に「命」がある。それを守るためにどうするのか。
 
もとはといえば「飼っていた犬を捨てた」ことに端を発する部分。自分で飼えなくなって犬を捨ててしまうことから「野良犬」が生まれる。それが1頭だけではなく複数になるから結局繁殖してします。人間の「無責任な行動」がこのような問題を生み出している。
 
清掃活動をしていたらその部分を強く感じる。なぜゴミをそのあたりに捨てるのか。自分で食べたものは自分でごみ箱に捨てればいい。少しのこと。飲み屋街ではたばこの吸い殻がたくさん落ちている。食事をしてお酒を飲んで外に出て煙草を吸う。そしてその辺りに捨てる。歩きたばこをしている人はかなりの確率でたばこを捨ていているのではないかという偏見を持つようになっている。毎日100本近くのたばこの吸い殻を拾う。「自分のこと」だけを考えているからこんなことになるのではないか。
 
野良犬は捕獲され保健所に連れていかれる。そこで「里親」を探してもらって引き取られる。全ての野良犬がそうなるわけではない。殺処分される犬も出てくる。それは本当に辛い。人間の身勝手で「命」が失われる。捕獲しなければ一般の人たちが野良犬に噛まれるなどの被害が発生する。「何を守るのか」という選択を迫られる。
 
結局「犬を捨てる」ことも「ゴミをポイ捨てする」ことも根っこは同じだと思う。自分のことだけ。「犬を捨てる」という選択をする前に「自ら里親を探す」ことをすれば「犠牲者」は生まれない。空き缶なども持って帰って捨てればいいし、ゴミ箱に入れればそれで済む。でもそれをやらない。「責任を果たさない」からそんなことが生じ続ける。
 
ドックフードは私がゴミ袋に入れて持って帰った。これが正しい行動なのかどうかはわからない。しかし、子供たちが集まる公園のベンチにドックフードがあればそこに野良犬が集まってくる。小さな子供たちが野良犬に噛まれることを考えたらやはり放ってはおけない。これも「私の視点からの考え」なので正解かどうかはわからない。
 
自分さえよければいいのか。私の中でそれは許せない。前の記事にも書いたが「弱い立場の人を守りたい」と思う。そのために自分自身が「我慢」をして「犠牲」になることが「正義」だとは思わない。「やりたくない」といえばそれがまかり通るのか。「ほかにいないから」と言えばそれが通るのか。納得はいかないが「誰かがやらなければ」という状況に立つことは多い。
 
「命」の問題になる。が、そうなる前に「何かできなかったか」と強く思う。ごみが散乱する前に各自が気を付けて生活をすればごみが散乱した街にはならない。そのほうが住みやすい街になるのではないか。特定の誰かが「我慢」を強いられるのではなく全体的に「少し」のことをやっていけば世の中は変わるのではないか。
 
まとまらない。釈然としない。それでも生きていくしかない。誰かの力になれるのだろうか。私が生きていく意味があるのだろうか。考えさせられる。
 
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理不尽

2020-03-27 | 陸上競技

色々と思うことがあります。

 
納得いかないことが多い。結局、我慢する者が割りを食う。それってどうなんだろう。以前、「先輩を優先するから我慢しろ」と言われたことがある。きちんと筋が通っている話ではない。それなりに仕事ができる自負はある。「練習時間の確保」のために限られた時間の中でやってきた。人がいるときにはやらない。もちろん遅くまで残ってやらない。「時間をかけたらできるのは当たり前」だから。
 
仕事も練習も「費用対効果」だと思う。時間を莫大かけて「練習ができた」といってもそこに効率の悪さがある。何時間も時間をかけて仕事をすれば「形にはなる」と思うがそれは本当に意味があるのか。そう考えてやっている。大会の時の仕事も他の人よりは間違いなくやっている。別に認めてもらいたいわけではない。やらないと回らないから。
 
いろいろと思う。「明らかに筋が通っていない」と感じることがある。「釈然としない」という言葉しか出てこない。それでも「誰かが」という話になった時に「弱い人」や「強気で発言ができない人」が割を食うというのは私の性格的に許せない。選択肢のない選択。それにより自分自身の「想い」は常に押し殺してやらなけばいけない。
 
こういう性格なので声を大にして話をする。まー半端ないストレスだったので。結局私が「我慢」する以外に何もない。どうなのか。「嫌だ」と言い続ければそれで本当に回るのか。回らないから仕方ない、我慢する。それって本当にいいのか。
 
そして「条件」を掲げるがそれも若干反故にされる。どうなのか。数年前に「想い」をもって発言したことが「他を優先する」という状況になった。それなのにここにきて「いないから」という話になるのは間違いなく「筋は通らない」と思う。全員が「それぞれの主張」を押し通すことはできない。そんなことはわかりきっている。でも「釈然としない」部分がある。
 
ご都合主義。臨戦態勢でいます。これはいつものことですが。「気の良いおっさん」と思われているかもしれませんが。違う部分がある。何でもかんでも「いいですよ」というわけではない。「筋が通らない」ことに対して「負のエネルギー」が自分の中にある。だから面白くないがこうやって「アウトプット」する。吐き出さなければ爆発してしまうから。
 
釈然としません。しかし、誰かを「守る」ことになるのであればそれをやるしかないのかなという気はしている。結局損な役回りを受けることになる。面白くはない。
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