あまでうす日記

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新潮日本古典集成新装版奥村恆哉校注「古今和歌集」を読んで

2018-02-11 09:49:59 | Weblog


照る日曇る日 第1036回



続万葉集ともいわれる古今集をつらつら再読しましたが、おおかた雪月花の美についての紋切り型の賛歌とか手垢のついた感情・表現や屁理屈の果てしもない繰り返しで、現代の理性と感性にも叶う新鮮さなどどこにもなく、まことに旗本退屈男。どうも「おお、これは、これは」という感動的な珠玉の名作なぞにはお目にかかれませんでした。

全巻は春夏秋冬歌、賀歌、離別歌、羇旅歌、物名、恋歌、哀傷歌、雑歌、雑体、大歌所御歌・神遊び歌・東歌の20部に編纂されていますが、強いて言えば雑歌がいちばん現代の心にフィットしているやに映ります。

しかし私にとっては、人麿赤人のどのような秀歌を引き合いに出そうと、現代の無名の口語歌人の任意の1作ほどにも心を打たないことは明らかです。もはや万葉、古近、新古今などをあえて参照しなくとも優れた歌は日々量産されているといえるでしょう。

それはさておき、本書の校注者の奥村氏によれば、古今集の代表作は、紀貫之の「むすぶ手の雫ににごる山の井の飽かでも人を別れぬるかな」だそうです。

それは後代の大歌人藤原俊成が「言葉、事のつづき、すがた、心、かぎりなく侍るなるべし。歌の本体は、ただこの歌なるべし」と激賞したからだ、というのですが、そこには「新古今」の作者が大好きな幽玄の美や有情なぞがゾワゾワ蠢き漂っているからでしょうか。オラッチにはさっぱり分からんずら。

確かに紀貫之は古今集の撰者の代表で、有名な「仮名序」を読むと、やまと歌の歴史を大上段に振りかぶって総括し、新時代の和歌の定義を(拙劣なサンプルを出したり引っ込めたりしつつ)試みようとしたり、僭越千万にも近時の歌詠みの勤務評定に挑んだりしています。

在原業平は「その心あまりて、ことば足らず」、文屋康秀は「ことばたくみにて、その身におはず」、喜撰は「ことばかすかにして、初め終りたしかならず」、大伴黒主は「そのさまいやし」と言いたい放題ですが、そういう夫子自身の歌の出来栄えはほとんど凡庸そのもので、彼が批難した歌人の域にすら達していないと私は断じます。

「仮名序」の元になったのは、紀淑望の手になる「真名序」ですが、こちらのほうが貫之バージョンより遥に面白い。古の天子が侍臣に和歌を献じさせたのは、その出来栄えによって「賢愚の性が相分る」からだ、というのです。

なるほど下手な歌詠みは宮廷で立身出世できないからこそ、人々は歌道に必死に精進邁進したんだ。これならよく分かります。おそらくはこの下世話極まる周辺事情こそが、本邦詩歌世界の根本推力源だったのでしょうね。


   さあ急げ!車がトンネル出る前に身の上相談の結論が出る 蝶人


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