照る日曇る日 第1966回
「あとがき」によれば、作者は1934年にカリブ海の仏領グアドループに生まれ、数多くの著作と世界の有名大学で講義や講演を行ってきた著名な作家で、2018年には、ノーベル賞の代わりに特別に設置されたニュー・アカデミー文学賞を受賞している。
生涯にわたって世界各地を旅し、その土地ゆかりの人々と巡り合い、名物料理を味わい、自分でも料理を楽しんできた作者が、その過ぎ越しをしみじみと振り返り、もはやそれほど長くない行く方を額に手を当てて眺めやる趣のある半生記だが、私の心に一番しみたのは、本書の終わりに近い18章の「夢の旅、旅の夢」だった。
それは、もはや充分に老いて、旅行などその気があっても実行できなくなってしまった作者が、若くて元気な日に自分がした旅を、牛の食事のように何度も夢の中で辿り直した記録である。
枕元に呼び出されたインドネシアやチリへの現実と幻想が入り混じったような虚実皮膜の旅行記は、どこかプルーストの有名なあの本の記述にも似ているようだ。
「ニューヨークを発つとき、セネカ・パパガッロは翌年わたしたちをエチオピアに呼ぶと約束してくれる。だがその約束は果たされず、彼からは一通のポストカードも手紙もeメールも来なかった。当たり前だ。彼はわたしの想像が生み出した人間なのだ。でもいまだ確信があるわけではない。笑顔が眩しく人のいいこの大男に、本当には会っていないと言えるだろうか?」
と、作者は呟いているが、実際は、もはや寄る年波と身体の障害でペンを執ることすらできなくなった彼女の言葉を綴っているのは、その生涯の大半を共にしたパートナーの英国人リシャールであるという。(「訳者あとがき」に拠る)
それなら、ここに登場する「笑顔が眩しく人のいいこの大男」は、作者のコンデとリシャールと、そして、いまこの文章を読んでいるあなた、によって立ち上げられ、織りなされた三者協同の「見果てぬ共同の夢」のようなものかもしれない。
さはさりながら、「同性愛者の息子を素直に受け入れることができなかった」と、自伝に書かざるを得なかった、誠実な作家にして“普通の母親”の傷口の疼きは、何回ノーベル賞をもらったとしても、到底収まることはなかっただろう。
朝比奈が最後に振ったアレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・ウン・ポーコ・マエストーソ 蝶人