叔母が、退院して家での介護が一週間経ちました。
毎日「痛い!痛い!」 (腰の左側が痛むようで)
で、15分も椅子に座っていられません。
結果、デイサービスも行けません。
入院中に在宅支援の往診に切り替えを頼みました。
初往診は25日に来ます。
お風呂も10日間入っていません。
体を清拭すると、皮膚が乾燥して ポロポロとむけます。
骨の1本1本が痩せていてむき出しの骸骨のようで、痛ましくかわいそうです。
血の循環も悪くなり、このままでは良くないと思ったので、今日、在宅医療マッサージというのを受けさせようと、マッサージ師二人に説明に来てもらいました。
院長と実際に叔母を担当する施術士です。
その院長という方が、(30代と思われるが)偉そうな態度で、しばらくぶりに
むかつきました。
玄関を入り、弟子の施術士はジャンバーを脱ぎました。
院長は、顔もえばっている様でいつまでたっても、ジャンバーを脱ぎません。
15分くらい我慢していましたが・・・
「上着を脱ぎませんか?」 と言ってしまいました。
あわてて、「どうもすいません」と言いましたが・・・・
いい気持ちはしません。この人が担当だったら断ります。
でも、お弟子さんは人のよさそうな優しい感じだったので・・・
契約しました。
保険(後期高齢)が利いて 一割負担で一回20分 423円(交通費込み)
たった20分で 4000円 交通費 230円 高い!
(これを週に2~3回 やる必要が効果のためにある、と言われましたが、今でさえ私のスケジュールの中(月、木のデイサービスのお迎え。行きは迎えに来てもらい、叔母は体力がないので4時間デイにいるのが、精一杯のため私がお帰りは迎えに行く。水曜日は医者の往診が月に2回。以外に毎週訪問看護婦さんの見回りがあり、家を空けられない。)というように 叔母の介護の占める時間は、多大なものがあり、これ以上はストレスになり、自分の体に即、きます。保険適用だからと何遍も言われましたが、週一でダメならお断りします、と言いました。)
週一でやってみて、負担に感じなければ増やしてもいいし、また後でゆっくり考えればよいし。。。。
そんなに何回も、保険が使えなかったら、頼めないですね!
私たちの病気、変形性股関節症も対象になっていましたが、保険を使用するには、医者の処方が毎月いるようでした。
実際に12月から施術が始まりますので、詳しいお話はまたさせていただきます。
今日は、車椅子で頑張っている方のお話です。
◆岩淵大起(いわぶちだいき) 1984年岩手県生まれ。2002年、高校2年でエッセー
「まだ17歳だけど、人生って面白いと思う」 (ポプラ社) を発表。
[母は戦友] 支えられ挑戦
父はおもちゃ屋の経営者。母は経理、営業、店番と一緒に働きながら、家事もこなしていました。一人息子の私は生後2ヶ月目に肝臓障害が発覚。さらに3歳のとき、第二頸椎脱臼になり一生歩けないことが分かりました。
年長で幼稚園に入るまで、付っきりで面倒をみてくれたのは母でした。こと障害に関しては、健常者の母は「人生の先輩」とはいきません。だからこそ、手探りで一生懸命ぶっかってくれました。仕事や家事で忙しいのに、入院中の病院で夜中一時間おきに体温を測ったり、手術準備で一週間絶食した時は、絶食に付き合ってくれました。一緒に歯を食いしばってきたのは母も同じ。私の“戦友"ですね。
がむしゃらでちょろちょろ動き回る母と比べると、父は
「黙って大起を信じろ」という寡黙タイプ。高校の時、トラブルを起こし、学校から言われて、相手の生徒宅に父と謝罪に行きました。納得のいかない私は
「なぜ謝るのか」と尋ねました。父は
「当たり前だ」としか言いません。余計なことは言わず、他者のせいにもしない。
何か問題を起こしたとき、まず自分の責任として引き受けることを、この時父から学びましたね。
生まれながらに歩けませんが、小学校から大学まで通って勉強し、さらに色々な事に挑戦しました。スキー、水泳、テニス、ピアノ、バイオリン、絵、車椅子陸上、オートバイ、ピアス、アメリカ留学・・・。
両親は「障碍者だから外に出さない」というのではなく、一人の人間として扱ってくれました。ダメでもやってみよう。そこから学ぶことがある。そんな前向きな性格になれたのも、両親の方針があったからこそです。
昨年春、愛知県の日本福祉大学4年の時、大手メーカーから入社の内々定をもらいました。会社から通知があってすぐ、母の携帯を鳴らしました。
「合格したよ」そう言うと、母は突然泣き出し、おえつが数分続きました。新幹線のホームにいたので、周囲に母の泣き声が聞こえそうで、そのまま切りました。恥ずかしさもありましたが、実はもらい泣きしそうだったのです。
私の将来を本当に心配してくれていたんだなと、痛感しました。
障害のことで、親を責めたことはありません。むしろ車椅子でなかったら、今の私はない。つらいことがあったからこそ、幸せをかみしめることができたと思います。本当に愛情を注いで育ててもらった。両親には感謝だけです。
25歳になり、今年から社会人。一生懸命働くことで自身をつけ、その姿を両親に見せる。そんな親孝行を続けていけたらと思っています。
〜東京新聞より〜
ただただ涙が出ました。
私たち、頑張れる! 頑張りましょう!
毎日「痛い!痛い!」 (腰の左側が痛むようで)
で、15分も椅子に座っていられません。
結果、デイサービスも行けません。
入院中に在宅支援の往診に切り替えを頼みました。
初往診は25日に来ます。
お風呂も10日間入っていません。
体を清拭すると、皮膚が乾燥して ポロポロとむけます。
骨の1本1本が痩せていてむき出しの骸骨のようで、痛ましくかわいそうです。
血の循環も悪くなり、このままでは良くないと思ったので、今日、在宅医療マッサージというのを受けさせようと、マッサージ師二人に説明に来てもらいました。
院長と実際に叔母を担当する施術士です。
その院長という方が、(30代と思われるが)偉そうな態度で、しばらくぶりに
むかつきました。
玄関を入り、弟子の施術士はジャンバーを脱ぎました。
院長は、顔もえばっている様でいつまでたっても、ジャンバーを脱ぎません。
15分くらい我慢していましたが・・・
「上着を脱ぎませんか?」 と言ってしまいました。
あわてて、「どうもすいません」と言いましたが・・・・
いい気持ちはしません。この人が担当だったら断ります。
でも、お弟子さんは人のよさそうな優しい感じだったので・・・
契約しました。
保険(後期高齢)が利いて 一割負担で一回20分 423円(交通費込み)
たった20分で 4000円 交通費 230円 高い!
(これを週に2~3回 やる必要が効果のためにある、と言われましたが、今でさえ私のスケジュールの中(月、木のデイサービスのお迎え。行きは迎えに来てもらい、叔母は体力がないので4時間デイにいるのが、精一杯のため私がお帰りは迎えに行く。水曜日は医者の往診が月に2回。以外に毎週訪問看護婦さんの見回りがあり、家を空けられない。)というように 叔母の介護の占める時間は、多大なものがあり、これ以上はストレスになり、自分の体に即、きます。保険適用だからと何遍も言われましたが、週一でダメならお断りします、と言いました。)
週一でやってみて、負担に感じなければ増やしてもいいし、また後でゆっくり考えればよいし。。。。
そんなに何回も、保険が使えなかったら、頼めないですね!
私たちの病気、変形性股関節症も対象になっていましたが、保険を使用するには、医者の処方が毎月いるようでした。
実際に12月から施術が始まりますので、詳しいお話はまたさせていただきます。
今日は、車椅子で頑張っている方のお話です。
◆岩淵大起(いわぶちだいき) 1984年岩手県生まれ。2002年、高校2年でエッセー
「まだ17歳だけど、人生って面白いと思う」 (ポプラ社) を発表。
[母は戦友] 支えられ挑戦
父はおもちゃ屋の経営者。母は経理、営業、店番と一緒に働きながら、家事もこなしていました。一人息子の私は生後2ヶ月目に肝臓障害が発覚。さらに3歳のとき、第二頸椎脱臼になり一生歩けないことが分かりました。
年長で幼稚園に入るまで、付っきりで面倒をみてくれたのは母でした。こと障害に関しては、健常者の母は「人生の先輩」とはいきません。だからこそ、手探りで一生懸命ぶっかってくれました。仕事や家事で忙しいのに、入院中の病院で夜中一時間おきに体温を測ったり、手術準備で一週間絶食した時は、絶食に付き合ってくれました。一緒に歯を食いしばってきたのは母も同じ。私の“戦友"ですね。
がむしゃらでちょろちょろ動き回る母と比べると、父は
「黙って大起を信じろ」という寡黙タイプ。高校の時、トラブルを起こし、学校から言われて、相手の生徒宅に父と謝罪に行きました。納得のいかない私は
「なぜ謝るのか」と尋ねました。父は
「当たり前だ」としか言いません。余計なことは言わず、他者のせいにもしない。
何か問題を起こしたとき、まず自分の責任として引き受けることを、この時父から学びましたね。
生まれながらに歩けませんが、小学校から大学まで通って勉強し、さらに色々な事に挑戦しました。スキー、水泳、テニス、ピアノ、バイオリン、絵、車椅子陸上、オートバイ、ピアス、アメリカ留学・・・。
両親は「障碍者だから外に出さない」というのではなく、一人の人間として扱ってくれました。ダメでもやってみよう。そこから学ぶことがある。そんな前向きな性格になれたのも、両親の方針があったからこそです。
昨年春、愛知県の日本福祉大学4年の時、大手メーカーから入社の内々定をもらいました。会社から通知があってすぐ、母の携帯を鳴らしました。
「合格したよ」そう言うと、母は突然泣き出し、おえつが数分続きました。新幹線のホームにいたので、周囲に母の泣き声が聞こえそうで、そのまま切りました。恥ずかしさもありましたが、実はもらい泣きしそうだったのです。
私の将来を本当に心配してくれていたんだなと、痛感しました。
障害のことで、親を責めたことはありません。むしろ車椅子でなかったら、今の私はない。つらいことがあったからこそ、幸せをかみしめることができたと思います。本当に愛情を注いで育ててもらった。両親には感謝だけです。
25歳になり、今年から社会人。一生懸命働くことで自身をつけ、その姿を両親に見せる。そんな親孝行を続けていけたらと思っています。
〜東京新聞より〜
ただただ涙が出ました。
私たち、頑張れる! 頑張りましょう!