毎日、風もなく穏やかに晴れ渡った冬晴れです。
はや、5日が経ちました。
ぼーっと生きてんじゃ…と怒られそうです。
今日は、私の愛読紙 『高野山教報』からご紹介します。
『いのちの逞しさ』
村上 公教(高野山本山布教師)
私の寺に菩提樹が一本植わっています。
今から二千五百年前、お釈迦さまがこの木の下で悟りを得られたので
菩提樹といわれています。
熱帯地方では高さ20メートル以上に成長する常緑樹で、寒さに弱く日本で
育てるには温室が必要でしたが、近年には地球温暖化の影響で、関東以南の
温暖な地域では路地植えで越冬できたり鉢植えの観葉植物として見かけるように
なりました。
私の寺でも、山門から入ればお参りの方にすぐにわかるように路地に植えています。
今年で五年目で高さも3メートルほどになり、嬉しいことに根付いてくれたようです。
毎年冬には葉を落とすものの5月頃には新芽を出し、7月頃には先の少し尖った
葉っぱを数多くつけ、逞しい木だなと感心して眺めます。
今年の冬は寒い日が多く、目が顔を見せるのが例年より遅かったのでとうとう
枯れてしまったのかと落胆しましたが、立派に芽をつけ夏の空に向かって
葉を茂らせてくれました。
木とは与えられた場所で文句も言わず、インドから比べると寒い日本でも立派に
生き抜いている、菩提樹からも学ぶべき点は多くあるなぁと思わず木に手を
合わせました。
その時に浮かんでくるのが、
「禿かぶろ なる樹、定んで禿なるに非ず。春に遭う時はすなわち栄え華さく」
というお大師さまのお言葉です。
禿とは、冬に葉を落とし寂しげに枯れたような木々のことです。
その木々もいつまでも葉を落としたままではありません。
春になれば暖かい陽光と風を得て、芽を吹き葉を茂らせきれいな花を咲かせる、
という意味です。
この言葉を私たちの人間関係に当てはめてみれば、あまり良い点を見つけることが
できない人でも、いつの日かすばらしい人に成長する可能性を秘めているかも
しれない。
愚かなものはいつまでも愚かではない。
見限ってはいけない。
こちらも良い点を探す努力をしなければならない。
また、人生に当てはめると、寒い冬のような苦労を味わう時期もあれば、
それに耐え努力すれば春のように花開く素晴らしい時期もきます。
あきらめてはいけません。
木々も人も同じではないでしょうか。
お大師さまは「草木また成らず、如何にいわんや有情をや」
と述べておられます。
一見 精神や心がないように見える草木ですら悟りを得て仏になることが
できるのだからすべての人がどうして仏になれないことがあるだろうか。
この言葉は、お大師さまの生きとし生けるものへの優しい眼差しが込められた
生命尊重の言葉です。
逆に言えば草木ですら仏になれるのだから、人としてありがたい命を授かった
私たちも悟りを目指そうというみ教えでもあります。
「咲いて散るのが草木の花で、散って咲くのが人の花」
という浪曲の名台詞があります。
亡くなった後にまわりの人に何を残せるかでその人の人生の評価が決まるのです。
これは何も多くの財産を遺族に残したということではなく、精神的な財産、
つまりどれだけ一生懸命に生きたか、どれだけ人を愛し愛されたかで、
その人の価値が人の心に素晴らしい花として永遠に残っていくということです。
今日生きる この時代に生きる どう生きる どう生きてきたかを
生き方を試される 年齢になりました。私。
一生懸命 自分を見つめて
あきらめず、おごらず、いばらず、くさらず、(自分に)負けず
今年も生きていこうと 思います。
『変形性股関節症に負けないで』