今、あちこちでサルスベリ(百日紅)の花が満開だ。
ピンクや紫や白の小さなブーケをたくさん枝に付けているように見える。
花に暗い私はサルスベリの花と木が、同じものとは長い間認識していなかった。
サルスベリの木は、「猿が滑って落ちる」ほど、つるつるの肌をしており、その木肌は葉がすっかり落ちた冬の間、とても際立つ。でも、花が咲いている間、葉もたくさん生い茂り、その木肌が目に飛び込んでくることはほとんどない。
そんなで、あのつるつるの木肌の木が”サルスベリ”なのは知っていたが、サルスベリの花とどうしても一致してみることはできなかった。以前住んでいたマンションの庭にもサルスベリの木が植わっていて、実際、そのつるつるだった木に、たくさんのピンクのブーケが付いているのをさんざん見ていたのだが、結びつかなかった。
と、なぜ、これほどまでに、”ブーケをたくさん挿したような綺麗な花”と”ツルツルの木肌の木”という、それぞれがそれなりに印象的な所見であるのにこれほどまでに乖離していたのか、そのことを考えてみた。
そこからわかるのは、人間、花なら花、木なら木、と、全く別なものとして、いわばパーツ別に物事を捉える傾向があるのではないか?
要するに、近視眼的というか、視野が狭いというか。そんな意味合いだ。
「記憶力のテスト」なんかで、絵をみせられて、絵全体のイメージ、というかメッセージは理解しているのに、描かれていた主要人物のネクタイの模様は?とか横にいたおじいさんは杖をついていたか?とか、池に浮かんでいた小舟はモーターボートだったか手漕ぎボートだったか?なんていう、ちょっと意表をつく質問があって、それぞれがあったのはわかっているのに、ディテールはわからない。それと同じ。
美しい花のついたサルスベリを見て、つるつるの木肌に気がつかない。花も木肌も印象が強いので、それぞれを独立した存在としてみてしまう、そんなところではなかろうか。
それぞれの要素を統合するのが、私が生業としている病理診断であり、こういった独立した所見(病変)を統合することができるよう、常にトレーニングをしているのだが、普段の生活ではそれなりの興味が無いとなかなかできないということか。いってみれば、ループス腎炎の診断をするときには糸球体病変のみならず、間質尿細管病変をも含めた総合的な診断をしなくては臨床的な説明には不十分なのに、糸球体病変に基づいたクラス分類だけで済ませてしまえば、十分と思って、そこで終わらせてしまう。というような感じか。
普段から、総体的、総合的に、事物を見るようにつとめないといけない。
なにはともあれ、長い間花をつけるということで、百日紅(サルスベリ)。