こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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よりよく生きるにはどうしたらいい?

死出の旅立ちのお手伝い(2/5)適切な医療評価の必要性

2016年01月06日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日の続き。



病理医による病理解剖の目的は、病気で亡くなられた方の、おおもととなった病気(主病変)の検討とそれ以外の病気(副病変)の検索、および直接死因となった病気の解明だ。 

例えば、肺癌の患者さんであれば、癌に対して行った治療がどの程度効果があったかを調べることが第一の目的となる。

だが、癌は良く治療されていたのに、別の病気が直接死因となって亡くなってしまうことは少なくない。

例えばそれは、抗癌剤による免疫力の低下による感染症だったり、予期せぬ心筋梗塞だったり、消化管出血だったりする。

そんな複雑な病態を検討するのが病理解剖の目的だが、私が考える医療者としての病理医が行うべき病理解剖のあり方はこれとは少し違う。

違うというと語弊があるが、これまで行ってきた病理解剖は、生かすための医療技術の進歩により必要最低限のものとなっており、これからはさらにもう一段階進んだ病理解剖を考えるべきだと思うのだ。


今や多くの人が病院で死ぬけれど、果たして皆上手に死んでいるのだろうか。

医療過誤による死はあってはならないが、そうでないにしても、無用な延命治療や過剰医療は無かったかとか、より費用のかからない代替医療は無かったかとか、などを評価することはまだまだなされていないように思う。

医療資源は限られているし、わが国の社会保障制度は破たん寸前だ。


「あの人(故人)も、大病院で高名な先生に診ていただいて死んだのだから本望でしょう。」と言ったところで、大先生の診断の主診断までで、あとは世界共通となりつつあるプロトコルに従って治療する。

今後、エビデンスに依拠した治療法以外の“独特(オリジナル)の”治療法というものは無くなり、治療法は治療ロボットが示してくれるようになる。

基本的な疾患の治療に対しては“さじ加減”という言葉は減っていくだろう。

だが、生身の患者さんに接する現場は違う。

現場では想定していなかったことが次々と起こる。

それに大先生が指示した無理な治療のために却って余命が短くなるということだってありうる。

ぎりぎりまで闘ったら、次は上手に死ぬことを考える人がいてもおかしくない。

新薬にしても製薬会社は資本主義的存在であり、新薬開発こそが製薬会社の存在意義のひとつであることを忘れてはいけない。


生活の質、すなわちクオリティーオブライフ(Quality of life:QOL)の向上は生きている人すべてが持つ権利だ。

健康の人も、病気の人も等しく持っている。

万策尽き、これ以上の回復の望みがないような人に対し、家族や医療者の勝手な考えでいたずらに延命治療を行うことは許さないことだ。

安楽死は定義の問題があって、容易に制度化することはできそうにないが、終末期医療はずっと前から始まっている。

終末期医療の結果を評価することはあまり行われていないが、このような“緩やかな死”が”上手な死に方であったか”を評価するための病理解剖があってもいいのではないかと思う。

 ではどうしたらいいのだろう

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