こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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死出の旅立ちのお手伝い(3/5)病理解剖と医療監査

2016年01月07日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

今日も昨日の続きで、病理解剖について。

私が模索したい病理解剖とは、医療過誤を暴こうとか、同僚医師の能力を評価しようなどということではない。そもそも医師も看護師も臨床検査技師も薬剤師も、医療に携わる者の誰も患者の症状を増悪させようとなんて思っていない。性善説に立つことが、医療従事者相互のあり方だし、そうでなくてはチーム医療は立ち行かない。なお、医療過誤、医療事故が疑われる症例については、医療事故調査制度に委ねられるべきだ。この制度における病理医の役割について考えるのは別の機会にゆずり、ここでは通常の病理解剖について考える。

私がまだ駆け出しの頃、今でも尊敬している先輩病理医が「医療監査(Medical audit)」という言葉を教えてくれた。医療監査という言葉を大ざっぱに言えば、医療施設そのものをチェックするような作業で、診療報酬不正請求とか、医療安全体制の不備とか、人員の不正配置などが無いかを調査する。事務方を中心に、看護部門、検査部門などのコメディカル部門が対応することが多い。院長とか副院長とかといった病院幹部を除くと、これらに医者がタッチすることは少ない。最近でこそ、医療事故防止とか感染対策とかに医者が加わるようになったが、長らく医者はこういったことには疎かった。病院で医者は仕事さえ、すなわち、勉強さえしていればいいというようなもので、勉強好きが多い医者にはちょうどいい。ある意味気楽なのだが、何かあった時に責任をとるのは医者だし、近視眼的に勉強ばかりしていると、社会常識すら失ってしまう。結局なんでもやらなくてはいけなくなってしまうので、なかなか難しい。

それはさておき、その先輩病理医が言っていたのが、患者さんに施している治療が最適なものであるかの判断は病理医にしかできないということだった。病理医による医療レベルの監査の必要性、その先輩はそんなことが言いたかったのではないかと私はそのとき思った。

病理医による医療監査のための材料はもちろん、生検診断、手術組織診断および病理解剖だが、生検診断、手術組織診断といった外科病理診断はすでにルーチン化され、技術は確立されている。

ところが、病理解剖についてはまだまだ活用しきれてはいないと思う。これまでの病理解剖は病気の本質を突き止めていくことが目的だったけれども、その新たな活用法の一つとして死の質の評価に用いることはできないだろうか。

医療の質の評価というのは、すでに行われている。例えば、がん治療であれば、治療法の選択に始まり、終末期にいたっては、在宅にするかなどだ。 だがその評価は、患者やその家族からの聴き取りが主であり、多少医療者の意見が加わる程度だろう。こういった研究は有意義なものだが、アンケート主体の研究は客観性にかけたものとなってしまう危険性がある。ここに病理解剖という客観的評価を加えたらどうだろう。

 具体的方法はいくらでも考えられるだろうが、大切なことは病理医がその研究をコントロールするということだ。当事者、すなわち患者やその家族、現場の医療者、特に臨床医が結果に関わるようではいけない。病理医が主体となって、病理解剖を通じて死への道程を評価し、それをこれから死んでいく人の死に方にフィードバックする。そういったことはできないだろうか。

 でも、こんなことをすると病理医の仕事がまた増えてしまう。ただでさえ人手不足の病理医に余計な負担をかけないでやる方法はあるだろうか。

 具体化は可能か

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