こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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死出の旅立ちのお手伝い(4/5)コロ健が考える病理解剖

2016年01月10日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

今回のシリーズは、あくまでもコロ健という1人の中年病理医が、自分が残りの病理医人生を歩んでいく上で考えることであり、日本の病理医の標準的な考えではないことを断わっておく。「フラジャイル」の岸京一郎とももちろん違う。

 

さて、病理解剖については、すでに“病院で死ぬことと病理解剖”と題し、6年前に4回に分けて書いている。そのことを書いたきっかけは、入院中だった義父の突然の死だった。この時の記事を読み返すと、私の病理解剖に対する考え方は、まだ、「病理解剖とは病気の原因を明らかにすることで、医療・医学の向上に資するためにおこなうべきもの」にとどまっていた。

今回、病理医として、改めて病理解剖というものがあくまでも科学的で、客観的な作業でなくてはならないものだと考えた。これは日常の生検診断、組織診断と同じことだが、死の質向上という観点からは少し違ってくる。

これとは別に、病理外来のようなところで病理医に求められることもある。それは臨床家としての病理医であり、臨床医が説明できない解剖の所見とか、手術所見を診断した病理医がわかりやすく患者さんとか、その家族に説明することだ。あの時の私も、遺族としての私が病理医としての私に、義父の死に至る経過を説明してもらえなかったことが心残りだったのではないかと思う。だからこそ、病理解剖の客観性をきちんと担保し、病理解剖のシステムや目的を明確にしていく必要がある。

明日、最後に、そのためにコロ健は病理解剖のあり方を5つにまとめてみたい。

 

 

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