昨日、山のような仕事に音をあげ、“時間がない”などと嘆いてみせたが、あとになって時間は全ての人に等しく流れているものなのにあんなことをいうのはおかしかったと気がついた。
あんなことを言ってみたはいいけれど、結局仕事はいつも通りに進んでいった。手術例の切り出しがあって、途中で迅速診断が挟まり中断し、迅速診断が終わったら切り出しを再開し、やっと終わってホッとして気がつけば昼。昼休みにメールを整理していると、仕事の指令が一つ二つ。いったいいつやればいいのだろうと悩みながら午後の仕事に戻る。標本の山が昨日よりは低いと喜びながらも難しい症例が立ちはだかる。診断を出せるものは出し、そうでないものは追加検査をオーダーして終える。どうしても返事だけはしておかなくてはいけないメールを出していると夏の夕暮れはどこへやら。
それでもこれはほかの誰とも同じ時間軸の上で進んでいること。それぞれの人がしなくちゃいけないことがたくさんあって、それぞれのことをしている。患者さんは手術を受け、外科医は手術を行う。窓の外では選挙カーが走りまわり、九州では大雨が降り、沖縄では慰霊の日の式典に多くの人が集まっている。イギリスではEU離脱の是非を問う国民投票が行われ、どこかの国ではミサイルの発射実験を繰り返している。今も世界のどこかで誰かが生まれ、テロが止むことはなく、誰かがいろんな形で死んでいく。時間は自分だけのためにではなく、同じ空間にいる皆のために進んでいる。
だから、昨日の“時間がない”という表現ははなはだ自己中心的で、不適切なものなのだ。時間は皆に同じく平等にある。それをどう使うかは本人次第で、不平不満をこぼしても意味のないことだ。そんな当たり前のことに気がついたら、問題が一つでも片付いたわけではないのに、心がふと楽になった。時間に追われる必要などどこにもないのだ。
ナイトにもコロにも