私は妻の愚痴というのをほとんど聞いたことがない。もしかすると、これまでにもたまにはこぼしていたのかもしれない。思い返してみるとあれがそうだったのかというようなことも多少はあったけど、それにしても記憶はほとんどない。元来ポジティブ思考な妻(『プラス思考の人と私の違い(1/3)』2016年7月16日)にしてみたら、愚痴なんていくらこぼしても何も変わらないことだから、周りの人に愚痴をこぼすよりは考え方を変える方がよっぽど良い、と考えているのだろう。そして、実際考え方を変えて行動している。妻に限らず、愚痴をこぼさない人というのは私の周りを見回すと決して少なくない。そういう人は、たいていの場合、自信に溢れた幸せな人生を生きている様に見える。
ところで、その愚痴というのは一体どういうことなのだろう。そもそも、今日のこの記事を書くこと思いついたのは、連休中に会った年配の女性から、「妻の愚痴と、なんとかは嵐のようなものだから、じっと頭を低くして、通り過ぎるのを待っていたらいい」というようなことを言われたからだった。私がそのようなことを考える男性の一人かと思われたのは大変心外で、さらには私たち夫婦に対して随分失礼な人だと思った。たしかに、連れ合いが愚痴っぽくて参るなんていう話はよく耳にする。ツイッターでも男女問わず、連れ合いの愚痴に起因する不満をぶちまけているのをしばしば読む。その方も私たち夫婦にもそんなところもあるだろうぐらいに思ったのだとしたら、気の毒だ。私が愚痴をこぼすことはあっても妻は愚痴をこぼすことをしない。さらには私の愚痴も飲み込んでくれる(それこそ、スルーしているだけかもしれないが)ので、問題になることはない。愚痴というのは相対する人への意見ではないものの、聞いて楽しい話ではないし、話す方にとっても言ったところで大して建設的ではない内容ということだ。やがて通り過ぎてしまう嵐のようなものということはそんな程度のものだ。
聞く方の捉え方も大事だ。いちいちうるさい、とか、そんなことどうでもいいことじゃない、なんてまともに取り合わないでいたら、そういうことはみんな愚痴になってしまう。相手の立場に立って、傾聴すること、そうしたら愚痴は愚痴ではなくなる。私も、こんなブログを書いているようだから、いつまで経っても”愚痴を言わない人”にはなれないかもしれないが、”愚痴を聞いてあげることのできる人”にだったら、考え方ひとつでなることができるかもしれない。案外そういう方が楽しいかもしれない。
聞き上手ということか