嘘をついてしまうということは時としてある。その結果、全てが丸く収まり円滑に進んでいくこともある。でも、例えば愛していないのに愛していると言ったり、やったのにやっていない、とか逆にやってもいないのにやったなんて言っても、その嘘で誰か傷つく人がいたら、その嘘は良くなかったことになる。その嘘は明らかにして糾されなくてはいけない。
今の政治の世界は嘘がまかり通るようになってしまった。誰がみても、それは嘘だろう、ということを平気で言い通す。嘘(と思わざるを得ないこと)を平気で言うのには何かの信念があってのことだろうが、みているとまるでブラック企業で働く人と同じで、洗脳されているかのようにみえる。目の前の権力者だけが絶対で、公僕であるにもかかわらず、その嘘で傷ついた人たちに目はいかない。嘘をついた人は、墓場まで嘘を持っていくのだろうけど、その人の魂が救われることはない。
スポーツの世界でも、嘘やインチキは多い。ドーピングはわざとやるインチキの代表だけど、ラフプレーも紙一重だ。一発退場の反則なんて、全くわざとだ。私も、ライバルを蹴落とそうとラフプレーをしたことがある。これは厳しい当たりで、反則でなければそれでいいと。だけど、いまでもその時の嫌な気持ちは思い出され、私の心をチクチクと痛め、このまま死ぬまで続くだろう。私は相手に謝る機をそのまま逸してしまった。スポーツという、比較的厳密なルールのあることでそうなのだから、社会一般ではそういったことは数知れずある。
なんにしても、大切なのは常に真実を明らかにすること。自分でやったことは自分で責任を取る。でも、それが自分の意思でなく、誰かに唆(そそのか)されてやったのだったら、その唆した人物を明らかにするべきだ。これが人生の残り時間が半分を過ぎている人であればそのことを墓場まで持っていくことも考えるだろうが、若者であれば誰かにやらされたと言うことは、何も隠さず明らかにするべきだろう。ほとんどのことはきっといつか明らかになる。ならば今明らかにしてしまえばいい。人間関係なんて、自分のいま見えているところだけではない。世界は広い。人生、やり直しはいくらでもきく。
勇気を出して