こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

後悔してもはじまらない

2013年02月13日 | 日々思うこと、考えること
あのとき、ああしておけば良かった。と思ったことは、数えきれないほどある。
良かった、といって、何が良かったのかわからない。

今、こうして生きているのだから、これまでのことはすべて良い選択であったのかもしれない。だが、もっと良い選択があったのかもしれないが、その、“良い”が何かはわからない。
すべての事物が時間とともに一緒に流れているわけで、この世界は一つで、私の人生も一つ。

だから、あれやこれやこれまでのことを後悔したところで、一方向にしか進んでいない人生、どうしようもない。
みんなで前に向かって進んでいるのだから、これからのことを考えていくしか無い。

人生、後悔をしても、何もはじまらない。
もちろん、立ち止まり、振り返ることは必要ではある。

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私は大人になれるか

2013年02月12日 | 日々思うこと、考えること
さまざまな他の社会人の言動というのに接すると、子供っぽい人のあまりの多さに驚く。
特に、昨今の事件・事故においてはさらにその印象が強くなる。

体罰の問題はすでにずいぶん語りつくされているが、これが一番子供のまま年を取ってしまった人を象徴しているように思う。体罰をされるがまま競技人生を送り、そのまま自分で考えることなく、競技人生を終え、そのまま指導者になった人たち。そういう人たちは、体罰を介在させない指導方法というものを知らないので、体罰でしか後進を指導できない。そして、それが繰り返される。こういう人たちは、大人ではなく、ただ年を取った子供だ。

大した力もないのに力で相手を威嚇するしかできない人たち、ということになる。
医者にだってこういう手合いは多い。多少教養でもあればいいのだが、医者の場合、日常業務が忙しすぎてそれを身につける暇がない。そういったのがばかばかしいと思うような医者は、勤務医であれば楽なオフィス開業などをしてペースダウンしていく。中には、そうやって少し大人になる人もいるが、金をもうけすぎて、余計子供っぽくなってしまう人もいる。難しい。

ただ年を取る人と、大人になっていく人とに世の中の人を分けることができる。ただ年を取ってしまった人は、我がままで、傍若無人、いつまでたっても幼稚である。どうも、最近、そういった人たちのことがうっとうしく感じられる。
歩いていてもそういう人が目につく。乱暴な運転をする人、周りを気にしないで電車に乗っている人。

日本人がダメなのか、世界中で幼稚な人間が増えているのかわからない。
そんなことは、どうでもいい。私にとって、一番重要なのは、私は大人になれているのか、それとも、この先大人になれるか、ということだ。

では、大人とは何か、ということになるが、それがわかるのが、本当の大人ではないかと思う。
幼稚な私は、残念ながらまだわからない。

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結局、三連休

2013年02月11日 | 家族のこと
フラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩に行って、そのまま仕事に出かけると妻に言ったら、
「昨日、一昨日はオンコール(病院から呼ばれたら対応できるような範囲内にいるという状態)だったから行ってもいいかと思っていたけれど、今日はフリーでしょう?なんで病院に行くの?」
と尋ねられた。
私が、「三日、顕微鏡を覗かないと馬鹿になるし、まあ、病院に顔を出すというのも大事だからね」と答えたところ、
「家でもできることはいくらでもあるのだから、今日は、そうしたら?」と説得された。
というようなわけで、家で論文読みなどの勉強をすることにして、その前にクイーンと、ナイトの散歩に出かけた。

いい天気で、鎌倉はずいぶんな人出、山道も人があふれていたが、ナイトはおとなしくついてきてくれた。
例によって、こっちこっちと引っ張られていったら、普通のハイキングコースの下に数十のやぐらがあって驚いた。

家に帰ったら、私大の二次試験が早々に終わって、試験会場から直帰した息子がいた。
妻が金沢八景の園芸店に買い物に出かけてしまったので、午後は息子と一緒に勉強することになった。時々言葉を交わしてわかったが、大学受験というのはずいぶんと長丁場だ。
国公立大学の二次試験まであと2週間ほど。息子も胸突き八丁というところのようだ。

散歩の疲れと日焼けで、論文を読んでいて眠くなってしまったが、目の前で頑張っている息子の手前、なんとか起きていたがつらかった。

さらに、病院のメールボックスを開いてみたら、明日のカンファレンス、会議、学会用の写真の依頼、等々々々…、連休なら連休らしく、最後までぐったりしていればよかった。
結局のところ、3連休となったが、最後の最後で、胃が痛くなってきた…


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娘のこと、息子のこと

2013年02月10日 | 家族のこと
先日、Google calendarに中三の娘の英検とあったので、「頑張ってね」とメールしたら、その日は予行演習で、その翌日が本番との返事が来た。
いいとこみせようと思って出したメールだが、ちょっと失敗したような気がした。

だが、娘とメールのやり取りをすること自体、まずない。こうやって、たまのメールを出してみると、高三の息子のことに比べて娘のことを、これまであまり気にかけてこなかったな、と気がつき、反省した。

娘には、食物アレルギーがあり、反応が出るとアナフィラキシーショックを起こす可能性があり、給食などでは小学校、中学校に原因となる食物の除去食を出してくれるように頼むことなど、いろいろ大変だった。
だが、一番大変だったのは本人で、最初のアレルギー反応が出た幼稚園に入る前までずいぶん明るかった子が、それ以来笑顔が少なくなり、小学校ではアレルギーのことが友人にわからないようにするためにずいぶん苦労し、目立たないよう生きるようになってしまった。
家でもおとなしい娘に比べ、明るく愛嬌のある息子のことばかりかまっていたように思えた。

そのメールのやり取りをして以来、少し娘のことを気にするようなったら、彼女が何を考えて、何をしているか、多少はわかるようになった。女の子を育てるのは難しいなどと、最初からダメだと思っていた私が悪かったようだ。

娘からのメールには、「(応援してくれて)ありがとう」の一言がついていて、嬉しかった。

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ぬいぐるみのクマが出てくる映画

2013年02月09日 | 読書、映画、音楽、美術

ここ数日、寒さがぶり返してきてしまった。
用事があって、妻と都内に出かけた。


用事が済んだ後に、たまには映画でも観ないかと妻に誘われ、テディベアが動くというコメディー映画を観た。


かわいいクマのぬいぐるみが出てくるということで楽しみにしていたのだが、あにはからんや、中年夫婦にちょうどいいパロディー映画、懐かしい話がたくさん出てきて、青春時代を思い出しながら楽しむことができた。

ここのところ、なんだか意味もなく気張っていた心が少しほぐれたような気がする。



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英語の論文、日本語の論文

2013年02月08日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
「向こうの先生って、病気についての問い合わせがあると、論文をささっと読んで、返事しているんですよね。私なんか、読むのだけで何十分もかかって、さらにそれを返事にしようとすればもっとかかるのに。やっぱり、英語が母国語でないとつらいですね。」
以前、海外留学から帰ってきた先生が、私にこんなことをこぼしていた。

今、医学論文を含め、自然科学の論文はほとんどが英語で書かれている。英語圏の国の研究が極端にすぐれているわけではなく、PubMedという、アメリカ国立医学図書館の国立生物工学情報センター(NCBI)が運営する医学・生物学分野の学術文献検索サービスが、インターネットの普及とともにどんどん、拡大したことが大きいと思われる。

したがって、医学において最新の知識・知見を得るには英文論文しかないといっても過言ではない。日本語での論文もあるにはあるが、世界中の人が共通の言語として使っている英語論文に比べれば、人口的にも圧倒的に少ない日本の論文が世界に立ち向かうことはほぼ不可能だ。私が専門としている分野など、国内には研究者が少なく、情報はやはり英語論文から得ることになる。

論文を書くにあたっても、非英語圏の学者が母国語で論文を書いても全く相手にされない。すくなくとも、抄録は英語で書いておかないといけない。
英語がコミュニケーションの手段ではなく、テストで点数をつけられるもの、と刷り込まれている人間にとっては、読むのも書くのもハードルが高い。
もともと科学論文というのは書式が決まっているので、型通りに記載してあるのだが、読むのも書くのも英語を母国語としない人間にとっては難しい。
特に、英語圏の学者の書いた論文のなかには、格調高く書いているのだという強い意志が感じられるような難しい単語が多くて読みにくいものさえある。その点、非英語圏の外国人による英文論文というのは、平易で比較的読みやすいが、それでもアルファベットもしくはそれに近い文字を使っている国なので、日本人からみればお互い方言を使っている程度にしか見えず、うらやましい。
中国で漢字をみれば7割方意味が分かるのと同じようなものだろう。そして、論文を書くのもわれわれ日本人よりは簡単に違いない。

だが、論文を読むのも書くのも言語の問題だけでもない。
結局のところ、日本語の論文でも読まない人は読まないし、書かない人は書かない。
リサーチマインドという言葉があるが、常にそういった感情を持っていないと、勉強はなかなかできない。気力も体力もいることだが、これを失ったら病理医なんてつまらないと思い、なんとかつないでいるが、いつまでもつか日々心配している。

何はともあれ、コロ健もただのぼやきにしないためには、標本をたくさん見てデータを出して、論文を書かないといけない。

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これはこれで弱いものいじめ

2013年02月07日 | 日々思うこと、考えること
昨日の首都圏でのJRの大雪対策について、ずいぶん苦情が出ている。
刻々変わる天候を確認もせずに、前の夜から間引き運行を決めていたことはひどい、などである。

コロ健も、昨日の朝、鎌倉駅でみぞれにもなっていない雨をみて、ホッとしたと同時に、いつもの比較的空いている横須賀線が運休になっているのを知ってがっかりした。いつもの電車だと座れる確率が高く、通勤は楽だ。だが、昨日はその電車の前の電車に乗ることとなり、もちろん座ることはできなかった。戸塚を過ぎた辺りから超満員となり、横浜辺りではギュウギュウ。昔、中央線沿線に住んでいた頃の通勤を思い出すほどだった。

だが、仕方ない。大雪で横須賀線が止まるようなことになったら、もっと大変なことになるに違いないだから。

病院の近くの駅で降りた時は、結構な土砂降り。みぞれのようなかんじで、実際病院に着く頃には雪になっていた。あと、2度くらい気温が低かったら、すごく積もっただろう。
埼玉方面から通勤してくるレジデントは1時間ほど遅れて来た。
「これまでで一番混んでいました」とのこと。昨日の夕刊でもそんなことが書いてあった。

Facebookには、JRひどい、というような書き込みがたくさんあった。天気図を読めばわかる、などと書いている人までいたが、JRは気象庁ではない。都知事まで文句を言ったとかいうが、そりゃ、わからなくもないが、心が狭いともいえる。
雨粒一つ降らなかったとでもいうなら、文句の一つもいいたくなるが、そうではない、ちゃんと雪は降ったし、積もるところでは積もった。
JRにも気象庁にも落ち度は無いように思う。

弱いものいじめ。

どうして、よってたかってこういうことをするのだろう。
今回の場合、JRも気象庁も対応や予報は結果として失敗だったが、そのことを否定しているわけではないし、開き直っているわけでもない。それを、言い返されないことをいいことに、文句をいう。

これは、いじめだと思う。

誰かのミスをよってたかって責め立てる。
こういうことを、大人がやっていたら、子供達だってまねをする。

これで、JRの運行に携わっている人や、気象庁の予報官から自殺者でもでたら、「いじめ自殺」である。
マスコミにしても、ツイッター、フェイスブック利用者にしても、こういうことには注意が必要だ。

大雪が降るという予報が最初に出たときに、ある先生が、
「日本人て、なんでこんな状況でも頑張って正しい時間に出勤しようとするのだろう。
雪でしたから、で済ませればいいのに」と言っていた。
的を得た言葉である。

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木に竹を接がないように

2013年02月06日 | 電脳化社会
ここのところ毎日ブログの記事をアップしているのだか、残念なことがある。
それは、文章の推敲が十分にできていないということだ。
以前、夜中に書いた手紙はそのまま出したりしないようにという記事の中で、ブログなどではいいかげんな意見を軽々に発信してはいけない、ということを自戒をこめていっている。だが、記事の内容もさることながら、文章の読みやすさも大切だ。それには、文章を推敲しなくてはならない。
とくに一つの文章の中で、論理的に矛盾が生じないようにしなくてはならない。

こんきも、いつも、思ったことを慌てて書いているので、その日一日の文章でも、書きはじめから書き終わりまで論理的な矛盾がないように書くのはなかなか難しい。ましてや、一週間、一カ月、一年、人間変わっていくものとは言え、真逆のことをとくとくと言っているようでは格好悪い。

朝、昼休み、帰宅途中、夜帰ってから、と断片的にちょこちょこ書いていると、話の内容が微妙にずれて、木に竹を接いだような文になってしまい、それが重なって最初と最後とでは言っていること、思っていることが違ってしまったりする。
朝のうちは元気で、建設的なタイトルを思いついて書き始めるのだが、昼休みに起承転結の承の部分を10分ほど書き足す。だが、夜は仕事だけでもヘトヘトで、おまけに難しい症例があったり、カンファレンスでへこんだり、とかしたあとだと、ネガティブな文章になってしまったりもする。
だが、いつもそんなでは、お付き合いいただいている方々に申し訳ない。



従って、なるべくそうはならないように、記事をアップするに際しては推敲をしなくてはいけない。
だが、その時間が無い。とりあえず、記事としては完成させることを最優先とするので、帰りの電車の中ではスマホとにらめっこで、締めくくりの文章までなんとか書く。
それから推敲するのだが、文章の切り貼りまではできないので、てにをはを直すのが精々となる。
コメントをいただいたときなど、もう一度読み直して、いまいちの文章を読んで改めて直してしまうこともある。

でも、本当は、考えを整理してきちんと推敲したいのだが、なかなか十分に行うことができない。下手なりに満足のいく文章とならず、こんきもが時々ストレスに感じられる。
まあ、手をいれすぎてかえっておかしな文章になるときということもしばしばある。




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人間は生まれながらにして役者だから

2013年02月05日 | 生き方について考える
やっていることと考えていることがまるきりバラバラであるということに悩んでしまったが、どうやら、悩む必要など無かったようだ。
なぜなら、人間は生まれながらにしてそのようにできているからだ。

というのも人間、生まれた瞬間に大きく息を吹い、そして泣く。
生きていく上で必要なものが供給されていれば泣く必要など無いのだが、とりあえず泣く。

自分がここに生まれたことをを周囲に知らしめ、やがて腹が減れば泣き、気持ち悪いことがあれば泣く。何のために泣いているかといえば、他者へのサインであり、自分が苦しい、悲しいといった、自分にとって危急のことがおきているということを”泣く”という行為で演じているということになる。

やがて、赤ん坊は笑うことを覚える。大人になって笑わない人がいるように、笑わなくても生きていられるのだが、とりあえず、あやすと笑うようになる。
笑えば、周囲の人間がかまってくれる。だんだんとその機会が増え、人は笑うこと、愛想を振りまくこと、というのを覚えていく。
平時であれば、人の笑顔を見て、嫌な気分がする人というのは少ない。

泣くこと、笑うこと、こういったことを人間はずいぶん早くから学び、演じる。
役者である。

役者であるからには、上手下手があるのは仕方ないが、それでも、最低限のことはできる。

涙を流すこと、声を立てて笑うこと。

人間は生まれながらにして役者である。
だから、心と裏腹なことを言ってしまうのだし、心にも無いことを言ってしまう

以前、自殺について考えた時、「あなたこそが主役だから」という記事を書いた。
期せずして、人間誰しもがそれぞれの人生という劇の中で主役を演じているということに気がついていたのに、いざ、自分(コロ健)のこととなった時、私が私の人生を演じている、ということに気がつかないでいた。

私は私で私の人生を生まれた時から演じている。
観客がいない時もあるかもしれないが、それでも、一番の客である自分自身だけはいることを忘れずにいれば、役者としては満足である。


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私はずるい

2013年02月04日 | 生き方について考える
この間から、「自分で考える」だの「自分で決める」などと、急に自分で自分でなどと口走っているが、よくよく考えてみたら、ずいぶん狡い言い方だ。
こんな、50近くのオヤジの立場で、偉そうなことを言ったところで、そんなのまったく何の普遍性も無い。ブログのような誰もがアクセスできるところで、普遍性の無いこと、すなわち自分の偏狭な視点での考えを述べても意味が無い。
自分の日記だなんだと言いながらも、誰かに読んでもらっていることを期待もしているのであれば、自分なりにもっともっと人生のこと、生きることというのを深く考えなくてはならない。

私は病理医という仕事を持っており、その仕事を全うするために多大な時間を費やしている。従って、哲学書、小説をはじめとする人生を勉強するための書物を読む時間というのは、物理的にほとんど無い。それでも、なんとか時間をひねり出して読むようにはしている。
そして、自分で考えないといけない。
この、考えるというのがせめてもの自分が生きている証しとなるのだが、そのときに、果たして私は普遍的なことを目指して考えているだろうかと思う。

自分自身の置かれた立場からの考え方。これまで生きてきた中での考え方であり、それは、コロ健、というきわめて小さな存在が、自分のことしか考えないでいることにしか過ぎない。

どうしたら、少しでも多くの人が幸せな気持ちで過ごせるか、などということは、実はそれほど考えていないのではないだろうか。自分の身は安全なところに置いて、言いたいことを言っているだけのような気がしてならない。
いや、実際、そうなのだ。

私は、ずいぶんとずるいことをしながら生きている、ということになる。
自己弁護に明け暮れ、言いたいことだけ垂れ流している。
ホトホト情けなくなる。
だが、いったいどうすればいいのか、と考えたところで、即座に妙案が出てくるわけではない。

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差別化と格差社会

2013年02月03日 | 日々思うこと、考えること
水でも空気でもどこか一点をあたためることで対流が生じものが動き始める。
人間の社会でも同じで、皆が平等で動きがなければ何も動かない。
したがって、人より多く食べたい、人より安全に暮らしたい、といったことを考えるようになったのが初期の人間の欲望で、現代社会ではそれが極限まで達している。
猿は、人間に似ているが、ほかの猿より多く食べたい、安全に暮らしたいといったことは考えない。
犬や猫もそうだろう。
フラットコーテッドレトリバーのナイトは、飢えさえしなければ、ほかからなにか奪ってこようという気は無いように見える。


人間の欲望がこの先どうなるか末恐ろしいが、欲望がなければ経済は回らない。
全員が全員、同じ性能、値段の物しか入手できなければ一番いいのだが、どうしてそうならないのだろう。

例えば、時計。
3000円くらいの物から、上は1000万を超える。時間が正確であればいいという人も、どちらかを選べと言われたら、後者を取るだろう。
世界中の人が同じ時計を使っていれば、格差は生じないのに、と思う。

飛行機の座席もそう。
ファーストクラスはエコノミーの倍するが、全員が同じレベルの座席で同じサービスしか受けれなければどれほどいいかと思う。自家用ジェット機など言語道断だ。
だが、現実はそうではない。国内線ですら1000円アップで差がつけられている。


そもそも、人間はお互い差をもって産まれてくる。社会にとって自分がどこに一番フィットするのか、わかればいいのだが、社会は常に変化しているので、それは分からない。その差を埋めるためにいろいろなモノが存在する。
現状ではお金がその最たるものだ。

今、格差社会をどこまで容認するかという問題を、格差社会が悪だ、というような風潮があるように思う。これはまことに危険な考えで、社会を停滞させてしまう。
それに、どうもこういった論調でいろいろいうのは既得権益を持ってきただけの人たちのような気がする。


次々と新しい、技術、アイディアが出てきて、古くからのモノはどんどん駆逐、置換されていく。そういったことを貪欲に受け入れ、次への発展へとつなげていかなくてはなるまい。厳しい世界だ。

だが、日本でいえば、明治維新からわずかに150年足らず、社会システム、経済システムが安定するにはまだまだ時間がかかるということなのだろう。
私たちは今まだ、単なる時代の過渡期の一部にいるだけで、この格差社会というのも、そのうちの一つの現象にすぎないのではなかろうか。



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今年は何冊読めるかな・・・2013年1月の読書記録

2013年02月02日 | 読書、映画、音楽、美術
本など読んでいる場合ではないとしばしば思う。
それに、スマホのおかげでこんきも(このブログ)の更新が往復の電車内で楽にできるようになって、これまでの読書の時間にあきらかに食い込んでいる。
なかなか、難しいところだけど、他人の考えに触れるということは人間としては最低限必要なことだ。時間は限られているが、なんとか読書の時間をひねり出して、今年も1冊でも多くの本を読みたい。

2013年1月の読書メーター読んだ本の数:3冊読んだページ数:649ページナイス数:118ナイス

 下に見る人
下に見る人感想「負け犬の遠吠え」の作者とは知らず、タイトルと帯を読んで購入。それにしても、タイトル負け。そもそも社会人生活を学生生活の延長においているのがどうかしている。自分が変わろう、成長しようという意志が感じられない。「あたしは、このままのんびり過ごして年取っていけば良いの。生きてりゃ、この先いいこともあるだろうし、なるようにしかならないわ。」読んで、自分の糧にならない本というのは滅多に無いが、これはそんな無駄な本。いや、こういう、ブログネタ程度の文章でも、私のような人間には売れるということがわかったか。読了日:1月29日 著者:酒井 順子


ふくわらい
ふくわらい感想体も言葉もバラバラにして、それを再構成した作品。そして、その再構成はみごとにあるべきところに落ち着いて、というか、定にしても、守口にしても、ほかの誰にしても何がどこに落ち着いてもよかったということだったのだ。だって、今あるあなたがすべてだから。小説そのものもいろいろなパーツからできている。筒井康隆、開高健、谷崎潤一郎、ほかにもいろいろな作家の文体、テーマが織り込まれているように読めた。そして、最後に一つの作品となっている。いろいろと楽しめる、小説好きのための作品。この作品、傑作ではないか。読了日:1月25日 著者:西 加奈子


間抜けの構造 (新潮新書)
間抜けの構造 (新潮新書)感想書評での評価が高かったので、思わず手に取ってしまったが、この本から何か学べる、人生の役に立つことが得られると思って買った私が間抜けだった。なんていうことはない、芸人ビートたけしのただの半生記。オールナイトニッポンの頃からTVタックルまで、月に2,3度彼のしゃべりを聞かされてきた者にとって、何ら新しいことは無かった。その都度彼がしゃべり散らしていたことが思い出される。彼にしてみれば、この本が数十万部の大ヒットとなったことが、次なるネタになるだろうし、買った者はなんだかんだとからかわれるんだろうな。読了日:1月24日 著者:ビートたけし

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医局に頼らない生き方

2013年02月01日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル
日本の医師は医学部を卒業すると、2年間の臨床研修を行うという制度が2004年に始まった。早いもので、制度が始まってから、もうすぐ10年になる。
医学部卒業後の教育に、いろいろと問題があった頃のことで、この制度の開始時、医学生には好意的に受け入れられたのではないだろうか。
問題の一つは、医学部の教授の問題。
教授の要件というのは、すぐれた研究活動を行い論文を量産し、さらに後進にも論文を書かせることができることである。
ところが、日本の医学部教授は、学問以外のことにも絶大な権力を持っている。それが、人事権だ。
医局人事というものを握ってさえいれば、自分の意にそぐわない人間は邪魔になればどこかに飛ばしてしまえる。だから、下の人間、すなわち医局員は教授という絶対権力に従うしかない。
まあ、そこから、有形無形のハラスメントが生まれることとなる。

まだ、カルテが紙であったころ、教授回診で担当医がしどろもどろだったりしたら、カルテを窓から放り出した、とか、外科の教授は手術台の下で下手な助手を蹴る、だのいう逸話は尽きることが無く、精神的、肉体的な暴力というのがさんざんあった。
自分の学術的もしくは技術的なこととはべつのところで、理不尽なことがまかり通っていたため、大学医局というものに嫌悪感を示していた医者は多かった。そんなことで、臨床研修制度は多くの医学生に歓迎されたのだろう。

すべての事象にはいい面と悪い面がある。大学医局に属さないことで、幅広い年齢層の医者との交流を得ることができなくなる、などという不具合もある。そもそも大学医局に属したくない、ということで、学問ができなくなる、という主客転倒の事態も起こる。
いずれにせよ臨床研修制度の導入は日本の医学界を改革したことにはなるだろう。この流れ、良いか悪いかは別として、維持してくしか、道はあるまい。
だが、大学医局という、ある意味頼ってさえいればいいだけの楽な組織の解体によって、日本の医学徒はただ勉強をして、教授のいうことを聞いていればいいというわけにはいかなくなった。
一人一人がしっかりした将来像を持って、自分で考えていかなくてはならなくなった。
全てのことは表裏一体である。

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