こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

妻からの警告

2018年05月16日 | 妻の名言

”私も(コロ)健ちゃんと一緒にそうしてあげようか?”

私が例によってまた、なんのために生きているのか?などと昨日から言い出したものだから、妻から、”じゃあ一緒に思い悩んで、ダークサイドに行ってあげようか?”というようなことを言われてしまったのだ。去年も同じようなことを言われたのに、また言われてしまった(『私の方が大変なのよ、だってそっちの方が楽だもの2017年08月21日)。

それは私が困るからやめてくれと言ったら、

”マイナスとマイナスがくっつけば、プラスになるでしょ?それでいいんじゃない?”

などと追いうちをかけてくる。すごい考え方で、たしかにそれもありかもしれないが、もしもうまくいかなかったときのリスクが高い。

ということで、人生を暗めに悩み多きものとして考えることはやめた。

そうはいってもなー、人生悩ましいことは多い。悩みなど一切なく、毎日のことにがんばって精力を傾注していけたらいいのだけど、なんでそうならないのだろう?

でもとにかく、あんまり悩んでいると、妻もその悩みに付き合うと、おどされているのだか警告されているのかわからないことになってしまった。これからは、その辺りにも気をつけなくては。

あんまり妻に依存するのも考えものということか。

プラスマイナスゼロならいいか

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

 

 


朝の鶴岡八幡宮を妻とナイトと歩きながら

2018年05月15日 | 鎌倉暮らし

連休が終わって、しばらく仕事がキツキツなので、気分が晴れないけど、梅雨前のこの時期、かろうじてカラッとした日が続いている。

日々、家庭と、仕事と、仕事で関わる人たちと、仕事以外の諸々のこと、どれもがうまくいくわけではないし、うまくいっているようでも、うまくいっていないのかもしれない。何のために生きているのか、などということを昨晩考えていたら、朝刊に”なぜ生きるのか”というような書籍の広告が載っているのをみて、ちょっと読んでみようかとも思ったけど、みんな同じようなことを考えているのかと気がついて、かえって考えることがバカバカしくなってやめた。また、別の機会に考えてみることにする。

昼間の人出が嘘のように静まり返った鶴岡八幡宮を妻とナイトと、何も考えずにぼーっとして歩いていると心が軽くなる。今日、明日の予定とか、ナイトとコロの調子とか、子供達の事とか、頭に浮かんだことをつらつらと、話すだけでもけっこう気分転換になっていい。これが、妻に隠し事でもがあったりしたら、あまり楽しい通勤の散歩とはならないだろう。

気楽に歩きながら、ふと横を見ると太鼓橋の向こうの森の緑がだんだん深くなってきていることに気がつき、ハッとする。日の出が早くなって、朝の気温上昇がきつくなってくると、ナイトが大変で、妻に言わせるといまの時期は遅くとも5時台には散歩に連れていきたいそうだが、それでは夜遅い人間の方が参ってしまう。子供達が家を出ていってくれたら、夜が早くなるので、それもできるようになるだろう。もうしばらくはないとに我慢してもらうしかあるまい。

何も考えないで歩いていたものだからか、その続きでつらつらと、いつも以上にとりとめのない話を書いてしまった。

昨日は朝のうちに書いた記事をアップし忘れていたら、夜になってしまった。そうしたら、なんだかタイミングの合わない、調子っぱずれな記事になってしまったので、この記事はさっさとアップすることにする。

さて、そろそろ頭のモードを変えることにしよう。

深く考えないことも大事

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


今週はどんな出来事が待っているかな?

2018年05月14日 | 日々思うこと、考えること

昨日の大雨が嘘の様に今日はいい天気となった。今日は夏日になるところも出るぐらいに気温が上がるらしい。

電車に乗り遅れそうになったので、けっこうな早足で歩いたら電車に乗った途端汗がどっと出た。せっかくかけてあったアイロンがとれてシワシワになってしまった。

5月の第3週。これといった特徴のない週が始まる。毎日、毎週、毎月、毎年、日々仕事をしているうちに、年を取っていく。少しの違いはあるものの、私自身が大きく変わることもない。それはそれでありがたいことだけど、取り巻く環境が変わればそれはあっという間に変わってしまう。

政治や社会には色々なことがまた起こるだろう。週末は悲しい事件が相次ぎ、暗い気分になってしまったけど、誰か、胸のすく様なクリーンヒットを打ってくれないだろうか?スポーツ選手頼りしかないというのもちょっと残念。私もその一助となりたいが、ここのところの異動続きで体勢が整わず、なかなか難しい。

またまた残念な人たちがマスコミを賑わすというのだけは勘弁してほしい。

よい一週間となりますように

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

 


母の日とは何の日?

2018年05月13日 | 家族のこと

母の日、とは日頃の母の苦労をいたわり、母への感謝を表す日だ。

私の周りには母、と呼ばれる人が3人いる。私の母と妻の母、そして妻。三人が母としてどんな人生を歩んできたか、それがどんなものだったかを考える必要はない。私も、私の子供達も、妹も弟も、姪たちも元気に育ってきた。それだけで母として十分やってきてくれたということがわかる。

今日は私に用事があり、東京に住む母に会いに行くことはできなかったので、昨日仕事帰りに東京のデパートからプレゼントを贈った。

妻の指示で、エプロンを選んだ。夕方、電話で話をしたらずいぶん喜んでくれていた。

妻の母は、義理の弟と一緒に東北に引っ越してしまったので、やはり今日は会えなかった。義母が大好きなクッキーを贈った。

母たちの世代も少しずつ、病気になったり、亡くなったりする人が出てきて、元気がないように見えていたので、良いプレゼントができてよかった。

いつまで経っても、母は母。日々感謝していきたい。

ありがとう

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


帰ってきた腕時計・・・実はずっと一緒だったのね

2018年05月12日 | 日々思うこと、考えること

大型連休に入る前の日にあった研究会のあと、打ち上げがあって遅くなった(『どれが雑草?』4月29日)。まずは2連休だったのであまり気にしていなかったのだけど、週明けの月曜日、朝起きたら腕時計が見当たらない。カバンの中を一通り見たのだけど無い。研究会の時に着ていた背広のポケットにでも入れたままにしているのかもしれないと、探してみたけれどやっぱり無い。打ち上げで酔っ払っていたけど、どこかのタイミングで時計を外したことはかすかに覚えている。だけど、それが打ち上げの席だったのか、帰りの電車の中だったのか、妻が駅まで迎えに来てくれた車の中でのことだったのかが定かでない。とはいえ、腕時計がないからといって困るご時世ではないので、そのまま仕事に出た。

その腕時計、高級品というわけではなく、30年近く使っているセイコーの普通のものだ。しばらく使わない事もあったりする、肌身離さず使っているというようなのものでは無い。私は骨細で手首が細すぎて、腕時計が似合わない。それでも必要に迫られ、学生時代は腕時計をはめていたけど、携帯・スマホを使うようになって、腕時計を使う必要はすっかり無くなり、似合わない腕時計をはめる事もやめていた。ところが、ここ数年(冬場を除く)出勤時にフラットコーテッドレトリバーのナイトを連れて行くので、電車の発車時刻を歩きながら気にしなくてはならなくなり、また腕時計をはめるようになった。あとはここ1年のジム通いのおかげか前腕が太くなって腕時計をはめても多少は様になるようになったという事もある。

私は腕時計を2個持っていて、これはそのうちの2番手。普段使っていたオメガのダイバーウォッチのリングの表示板が何かの拍子に取れてしまったので、十数年ぶりの再登板となったのだった。近所の時計屋さんで電池を替えてもらったら最初のうちは少し遅れたりしていたけれど不思議なことにしばらく使っているうち正しく時を刻むようになった。そんなことで、最近は愛着を感じながら使っていただけに、今回の行方不明は結構ショックだった。

大型連休後半に入ってまた、腕時計が必要のない生活になったので、捜索もうっちゃっていたのだが、連休が終わって通勤がはじまるとやっぱり不便だ。月火水は雨だったから散歩はしなかったが、木曜になって困った。ちょっと油断して、同じく散歩中の近所のワンコと遊ばせていたりすると、あっという間に時間が経ってしまう。ナイトには悪いが、朝の散歩は時間厳守だ。遊ぶのは、妻と一緒の帰りにしてもらっている。

思い出したように、カバンの中を隅から隅まで手を突っ込んで何度か探してみるのだけど、やっぱり見つからない。探す服の範囲も広げ、他のジャケット、背広のポケットも探したがやっぱりみつからない。さては、家に帰って、カバンだか背広から出して何処かにおいたかと家の中も探したが、やっぱり無い。酔って帰った日のことなので、妻に相談するのはどうも気が引ける。

カバンが怪しい時は、ひっくり返してみるのが一番、というのはよく知っていたのだけど、それはまだやっていなかった。でもついに、昨晩、床に頭を擦りつけてまで探してもみつからないので、いわば”衝動的に”カバンを全部ひっくり返したら、出て来た。薄い腕時計で、カバンのどこの仕切りに隠れていたのかはわからないけど、とにかく、カバンの中の他の住人たちと一緒に当たり前のように落っこちて来た。なんてことはないずっと私のそばで時を刻んでいたのだった。腕時計にしてみたら、私に見つけられるのを待ってもいなかったろう。

飲み屋にまで電話して、今度はJRに問い合わせようとも思っていたが、そんなことをする前に見つかり、何はともあれよかった。腕時計が見つかったおかげで、今朝は安心して駅まで歩いていくことができたし、もちろん遅刻もしないで済んだ。

これからも大事にします

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


若者を食い物にする残念な大人たちが潰す日本の未来

2018年05月11日 | 日本のこと、世界のこと

 もう、日本の将来がどうの、という気も起こらなくなってきた。テレビや新聞で連日連夜、この国のトップの人たちの生き様がこれでもかと流されている。

 こういう人たちをみて、同じように生きていったら、世の中渡っていけるのだと考える若者はどんどん増えていくに違いない。高級官僚がこの程度の国だから、外交的地位は低いままで、いつの間にか、中国に追い越され、抜き去られてしまった。制裁対象、などといっていた国からも相手にされなくなってしまった。かといって、今の政権の人たちがダメというわけではない。大野党の元幹部という人が、かつてのその政党が政策にこだわりすぎていて、そのうちに力を失った、というようなことを述懐しているのを読んだけど、野党は野党で、イデオロギーのお勉強ばかりしていたから、実際の政治をする能力がどれほどのものであったのかはわからない。ただ、政権交代がほとんどないというのは、経済の安定につながりはするが、そのために国の活力は無くなってしまった。

 日本の将来はとても暗くみえる。原因の第一はやっぱり少子高齢化だろう。

 とある日のわが家の夕食時、保育所の足りないことが子供(といっても大学生)も参加して議論となった。妻が、10年以上の経験のあるベテランの保育士でも手取りが月に15万円足らず、というようなことではさすがにやっていられないわよ、と憤慨したのがきっかけだった。その原因の一つに国や自治体はそれなりに補助金を出しているけれど、経営者は経営に熱心で、そのようなお金を人件費に回さないで、施設の拡充などに使っているという記事があったのを私が話した。

 保育所だけでなくて、森友学園、加計学園そして教育格差。どれも若者の養育、教育が食い物にされているがゆえに起こる問題だ。子供はどんどん減るのに、それを食い物にしている大人が多いから、養育、教育費がバカ高くつき、子供を持ちたくても持てない若者が増える。そして少子化はさらに進む。少子化の時代、教育産業がさらに大きくなる必要があるとはとても思えないが、そこに従事している人がいる限りはそうとばかりもいえないのだろう。

 なんとかならないか、と思うが、それはそう難しいことでもない。少なくとも政治家と役人が、分け隔てなく、嘘をつかずに誠実にそれぞれの仕事をやっていったら、随分違うと思う。若者を食いつぶす大人たちを見つけ出して、改めさせるしかこの国の将来を明るいものにする方法はない。

悪循環

ブログランキング・にほんブログ村へいいね!のかわりに


病理医は遅すぎる、なんてことはない(下)

2018年05月10日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

(昨日『病理医は遅すぎる、なんてことはない(上)』からの続き)

 現代の医療は複数の専門家が同時進行で病気の診断・治療にあたる。もちろん、自分一人でなんでもやっているんだ、みたいな臨床医もいるが、その先生はその範囲でできることをやっているだけだ。複数の専門家が対応するとなると、どこか一つのパーツが欠けても困る。

 だから、なんでも知っていなくてはいけない病理医が欠けたり、勉強不足で力量が足りなかったりしたら、それはそれで困るのだ。そして、同時進行であるということは、あとから病理医が追いかけるなんていうことがあってもいけない。

 病理医は遅すぎてはいけないのだ。

 最近の医療の高度化は著しくて、悪性腫瘍の分類には免疫組織学的、分子生物学的な判断がほぼ必須のものとなったものもある。最近改定された癌取扱い規約のうち、頭頸部腫瘍取扱い規約(第6版、2018年1月)で、中咽頭扁平上皮癌の病理組織学的組織分類にp16の免疫染色が要求されることに違和感を感じる病理医は多い。そもそもp16の免疫染色ができない施設は少なくないので、”行なっていない腫瘍”が含まれているのもなんだかなのだけど、いずれにしてもそのことが診断に要求されるのであれば仕方ない。また、脳腫瘍(脳腫瘍取扱い規約第4版、2018年3月)は診断確定には遺伝子異常の検討が必須事項となってきた。診断の章のⅡが分子診断で、病理診断はⅢになってしまっている。かといって、病理診断がなくなるわけでも無く、結局は勉強しなくてはいけない。

 病理医の仕事が、腫瘍の形態学的診断、病変の広がりとこれに関連する予後などついて診断していた時代から、臨床”各”科から矢継ぎ早に要求されるこれらの、先端診断について、十分に知らなくてはいけなくなった。

 というようなわけで、病理医にはしなくてはいけないことが山盛りで、病理は遅くてもしょうがない、なんて開き直ってはおられず、しなくてはいけないことがどんどん増えている内科医や外科医、そのほかの臨床医と協力し、一緒に走っていかなくてはいけない時代となった。

冗談にならない

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


病理医は遅すぎる、なんてことはない(上)

2018年05月09日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

 医者のジョークで、

「内科医は何でも知っているが何もできない。

 外科医は何でもやるが何も知らない。

 精神科医は何も知らないし、何もできない。

 病理学者は何でも知っているし何でもできる、しかし遅すぎる。」

 なんていうのがあると昔聞いた。昨日、病理診断科の部屋で誰かが言い出して、ひとしきりその話題で盛り上がった。親父が米国に留学していた頃にはあったらしいので、50年以上前はこんな認識だったのだろう。

 今では、そんなことは全くなくて、内科医も外科医もなんでもできるし、なんでも良く知っている。精神科医もきっとそうだろう。

 そこで病理医の登場となる。

 なんでも知っている、というより、なんでも知らなくちゃならない。

 なんでもできる、というよりはなんでもできなきゃならない。

 そして、遅すぎてはいけない。

 知らないことはたくさんあって、それは増え続けていて、悩みは増える一方だ(『わかったこと、わかっていないこと』2011年4月30日)。

 なんでもできる、というのは摘出された臓器に対してのことであったり、さらには病理解剖のことを指していたわけだけど、今やそれらだけではすまなくなっている。(明日に続く)

いつまでもじっとしてはいられない

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


愚痴を言わない人

2018年05月08日 | 家族のこと

私は妻の愚痴というのをほとんど聞いたことがない。もしかすると、これまでにもたまにはこぼしていたのかもしれない。思い返してみるとあれがそうだったのかというようなことも多少はあったけど、それにしても記憶はほとんどない。元来ポジティブ思考な妻(『プラス思考の人と私の違い(1/3)』2016年7月16日)にしてみたら、愚痴なんていくらこぼしても何も変わらないことだから、周りの人に愚痴をこぼすよりは考え方を変える方がよっぽど良い、と考えているのだろう。そして、実際考え方を変えて行動している。妻に限らず、愚痴をこぼさない人というのは私の周りを見回すと決して少なくない。そういう人は、たいていの場合、自信に溢れた幸せな人生を生きている様に見える。


ところで、その愚痴というのは一体どういうことなのだろう。そもそも、今日のこの記事を書くこと思いついたのは、連休中に会った年配の女性から、「妻の愚痴と、なんとかは嵐のようなものだから、じっと頭を低くして、通り過ぎるのを待っていたらいい」というようなことを言われたからだった。私がそのようなことを考える男性の一人かと思われたのは大変心外で、さらには私たち夫婦に対して随分失礼な人だと思った。たしかに、連れ合いが愚痴っぽくて参るなんていう話はよく耳にする。ツイッターでも男女問わず、連れ合いの愚痴に起因する不満をぶちまけているのをしばしば読む。その方も私たち夫婦にもそんなところもあるだろうぐらいに思ったのだとしたら、気の毒だ。私が愚痴をこぼすことはあっても妻は愚痴をこぼすことをしない。さらには私の愚痴も飲み込んでくれる(それこそ、スルーしているだけかもしれないが)ので、問題になることはない。愚痴というのは相対する人への意見ではないものの、聞いて楽しい話ではないし、話す方にとっても言ったところで大して建設的ではない内容ということだ。やがて通り過ぎてしまう嵐のようなものということはそんな程度のものだ。

聞く方の捉え方も大事だ。いちいちうるさい、とか、そんなことどうでもいいことじゃない、なんてまともに取り合わないでいたら、そういうことはみんな愚痴になってしまう。相手の立場に立って、傾聴すること、そうしたら愚痴は愚痴ではなくなる。私も、こんなブログを書いているようだから、いつまで経っても”愚痴を言わない人”にはなれないかもしれないが、”愚痴を聞いてあげることのできる人”にだったら、考え方ひとつでなることができるかもしれない。案外そういう方が楽しいかもしれない。

聞き上手ということか

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


心は休めた大型連休

2018年05月07日 | ガーデニング・菜園・花・緑

今年の大型連休、3日に出勤し、そのあと親父の誕生日会。4日の午前にはナイトの受診で戸塚の犬猫病院に行ったが、あとは鎌倉からは出なかった。鎌倉市内は人だらけで出歩く気にもならなかったので、それはそれでよかった。おかげで、ここ数ヶ月サボっていた庭いじりがやっとできた。妻に任せっぱなしだったのだけど、1人では手が回らないこともあるようで、雑草が少し目立ってきていた。花壇の手入れも私がやりっぱなしだったりしたものだから、どうも良くなかった。妻と相談し、これまでどうにもこうにも上手く落ち着かないでいる駐車場の横の花壇をベジタブルガーデンにすることにした。

ベジタブルガーデンのアイディアは、先月妻と一緒に横浜の赤レンガ倉庫に行ったときにやっていたイベントで見た寄せ植え(上の写真)。ラベンダーとかローズマリーとともにバジル、パセリなどがみっちり植えられていた。こんな風にできないかと、コストコで花壇の枠を買い、土をひっくり返し、盛り土してパセリ、イタリアンパセリ、バジル、大葉、九条ネギ、などを植えた。

 

横浜のベジタブルガーデンと比べたら、まるでスカスカだし、そもそも土だってこの3倍は必要だったけど、これは予算の都合上仕方ない。それぞれが大きくなってくれることを期待するしかない。今夜の大雨が心配だが、雨で土が少し固まってくれたらいい。

あと、ナイトのお腹の調子は翌日からよくなった。ただの腸炎だったのだろうか。

こんな今年の連休はまずまず良かった。仕事関係のことはほとんどできなかったし、土やら植木鉢を運んで筋肉痛となってしまったけど、心を休めて英気を養うことはできた。子供が大きくなって、一家で行動するということもなくなったけど、うまい具合に子離れできている様に思っている。

早速今日から難問山積

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


子供を育てにくく、長生きしにくい国(下)

2018年05月06日 | 日本のこと、世界のこと

昨日からの続き)

わが家であれば、家のローンと車のローンに加えて教育費がかかる。この教育費がばかにならない。おそらく、学校に行かせるだけならとくに問題はないのだろうけど、やれ部活の合宿だ遠征だ、旅行だ遠足だというようにどんどんかかる。さらに、受験ともなると塾代、模試代、受験料と費用はうなぎのぼりとなる。わたしは定職を持つことができ、なんとか収入の算段がついているからこういったものに、なんとかお金を出すことができたが、そうでもない人にとってはこれらは厳しい負担となる。教育が”産業”化しているから、投資を余儀なくされるが、投資をしたくない人も出てくる。今は、将来のことがシュミレートできるので、そうなると子供を持つこと自体がリスク要因となってしまう。そしてそれなら結婚もしないで良いだろうとなるのは当然だ。

右肩上がり、人口増。発展途上国がまだまだ多かった頃の人生設計はもはや成立しない。中高年層も生きるに厳しい世の中となっている。定年が60歳、長くて65歳となっても、寿命は80歳ぐらいまではある。死ぬまでの10年、20年を退職金と年金でやりくりしていくというのは結構大変だ。私にしても、子供2人がそろそろ大学を卒業というところまではくることができたけれど、今度は自分の老後の心配をしなくてはいけない。長生きするのも大変な時代となってしまった。

1人で過ごすのが1番となる

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


子供を育てにくく、長生きしにくい国(上)

2018年05月05日 | 日本のこと、世界のこと

5月5日はこどもの日。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」というのが、この祝日の趣旨だそうだ。調べてみると意外なことがわかる。

子供を育てることは、とても楽しい、というか楽しかった。でも、いま、 ツイッターとかには、子育てがとても大変という話をよくみる。とくにお金がかかる。という話。

たしかに、大変な時代だ。子育てには金がかかる。

(明日に続く)

子育ては楽しいけど・・・

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


休みといってもいろいろあります

2018年05月04日 | 日々思うこと、考えること

今年の大型連休も、いよいよ後半。休みもあと3日。

昨日は午前中に迅速診断があって出勤。外来は開けないものの手術だけはするということで、病理も当番が出勤した。手術を待つ患者さんのことを考えるといことだろう。当番というわけではなかったのだけど、付き合いのある科からの依頼なので私も出ることにした。関東地方は一昨日の晩から大荒れだったけどまあなんとか着いて仕事は無事済ませた。

夜は父の誕生日会ということで親戚一同、親父の家に集まった。一同と言っても、両親に弟と私の家族4人と妹の家族4人。この歳でまた両親が健在というのは嬉しいものだ。1日が83歳の誕生日だったのだけど、昨日ならみんなが集まれるからとちょっと遅れてのお祝いとなった。少し前に大病をしたので、心配しているのだけど今の所元気にしてくれている。長生きして欲しいものだ。

2、3日前からナイトのお腹の調子が悪く、今日は朝から病院に連れて行った。お腹の薬をいただき、2、3日経過観察となった。

ちょっと買い物をして家に帰ったら、娘が高校時代の友達3人を連れてきて、しばし女子校の再現。私も張り切り、急遽炭をおこしてバーベキューをご馳走した。気がついたら、18時半。でもまだ明るい。随分日が長くなったものだ。

休みといっても、それなりにいろいろとやることはある。

明日は庭いじり

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


いまの幸せを壊さないでと憲法記念日に思う

2018年05月03日 | 日本のこと、世界のこと

今日は憲法記念日。大日本帝国憲法が改正されて生まれた日本国憲法は70年間変わらず守られてきて、今日で71歳。

最近、改憲論議がかまびすしい。自主憲法策定という意見があるけれど、これ以上に良い憲法があればの話だと思う。どの条文もよく書けているので、このままでどこが悪いのかが私にはわからない。それぞれが短くて様々に解釈できてしまう”ゴム型(伸び縮みする)”憲法だからよくないというけれど、日本人にはこれがあっているのではないか。四角四面にしてしまっては、窒息してしまいそうだ。

でも、きっちりしている条文もある。それが、15条

第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

Wikipedia『日本国憲法第15条』より


公務員が私たち国民に対する奉仕者であるということは憲法で定められている。これはきちっとしている。全体とは国家であって、これに対して一部とは特定の政治家や企業のこととなる。でも、最近の公務員の暴走ぶりはどうみてもおかしい。いわゆる高級官僚と呼ばれる公務員は、一部の政治家と結託してやりたい放題にみえる。問題なのはそこに税金が投入されるということ。それも億単位。重税に苦しむ身としてはなんとも悲しい現実だ。税金の納付書の封筒が送りつけられてくるのを見るたびに、悲しくなる。もし一部への奉仕のために税金が投入されているのであれば、それは憲法に反することになる。

憲法を元にしたらいろいろな話ができる。

憲法に手をつけるなんて議論がなかった時代は幸せだったのかもしれない。その間、国民は無関心でいたけど、改憲が現実のものとなった現状では、私たち国民は憲法を知って、議論できるようにして国民投票に備えなくてはいけない。戦後の大日本帝国憲法改正の時も国民の間で広く議論されたということになっている。もしかすると、私たち国民が憲法について議論する良いきっかけになるのかもしれない。

いまの憲法の下で私たちは幸せだと思うが、これは錯覚なのだろうか?

でも、急ぐ必要はない

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→


つまみ食い的活字拾い・・・2018年4月の読書記録

2018年05月02日 | 読書、映画、音楽、美術

ここのところ、本を全く読まなくなってしまった。何よりも読書の時間が、ほかのことにより大きく割かれているのが原因だ。

活字を読むこと自体、なんとなく面倒になっている。新聞記事はまだ読んでいるが、本となるとハードルが高い。何かにつけてスマホばかり。朝日新聞の書評欄が4月から突如、日曜版から土曜日に変更になったということも大きい。お知らせはあったのだろうが、習慣というのはそうそう簡単に変えられない。あれで最後のタガが外れてしまったような気がする。

文章を読むのは最近では誰かのブログを読むということがあるけれど、大抵はものの1分あれば読み切ってしまう。文章のほとんどないものも多い。ちなみに、このブログ(こんきも)の平均セッション(滞在)時間はほぼ1分。確かにそんなものだろう。そもそも私は文章家ではないからそんなに大した文章を書く時間も能力もない。もともと、アウトプットではなくてインプットが好きな人間だ。でも、いまやっていることは、活字をつまみ食いしているようなものに思えてくる。

そんな私がインプットを怠ったらどうなるか。というようなことは、これまで何度も書いてきた(「2015年6月の読書記録・・・スマホいじりにはご注意を」ほか)のでここでは割愛するが、これが私だけではなくて人類共通の脅威となりつつあるのが恐ろしい。読書というのは、別の人格を知る最良の方法だと思う。昔は、電車の中で本を読んでいる人はたくさんいた。それがやがでマンガに凌駕され、今や文庫本も漫画も電車内で見かけることはほとんどない。タブレット端末やスマホを覗き込んでいる人はたくさんいるけど、見た感じとしては、3分の1はゲーム。残りの8割ぐらい(全体の5、6割)はニュースかSNSかで、あとはネット漫画。小説を読んでいる人は全体の1%もいるだろうか、というところ。これからの世の中、一体どうなっていくのだろうかと心配になる。

で、それは人ごとではなくなっていて、私自身読んでいない。この前に読んでいたのがラッセルの”幸福論”でこれが難しかったのか、私の読書力が及ばなかったのかわからないが、色々な店で共感できる部分はあったのだけど、挫折してしまった。それから、私の読書習慣も堕落の一途。ブログを書いている以外はスマホをぼんやりいじっているばかりとなってしまった。これではいけないということで、”まずは活字を”ということで、ショートショートなら読み切れるだろうということで、この前、本棚を整理していたら出てきた星新一を再読することにした。ショートショートなら、この本に収載されている作品は、星新一にしてはB級群で、大して印象には残っていないが、まずまず1冊読破することができた。

これで次はラッセル、と急いではまたしくじるので、何か読みやすそうなものを探すことにする。

 

4月の読書メーター
読んだ本の数:1
読んだページ数:336
ナイス数:11

おせっかいな神々 (新潮文庫)おせっかいな神々 (新潮文庫)感想
久しぶりに再読
読了日:04月30日 著者:星 新一

読書メーター

まずは本を手に取ろう

ブログランキング・にほんブログ村へ←いいね!のかわりに→

PVアクセスランキング にほんブログ村
読書履歴はコチラで→