Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

FW向きの勝負強さ(大津祐樹)

2011-12-30 17:47:31 | ワールドサッカー
先月末のU-22代表のシリア戦、シリアを中心に見たと書きましたが、もう一箇所注目ポイントはありました。それは、ドイツのボルシアMGに在籍している大津祐樹のプレーで、この試合は左MFで出ていましたがストロングポイントはどこかというところに注目していました。シリア戦では香川を彷彿させるような豪快な切り返しも見せていますが、シリアのDFに読まれてしまい、まだ完成はしていない選手の印象です。

関塚監督がサイドハーフで使うのだから、MFらしい運動量やテクニックが何度も見られると期待していましたが、ゲーム中はバイタルエリアに何度も飛び込んできた山田直輝や東と比べるとさほど目立たなかった印象です。調べたら、J1通算わずか6得点でドイツに移籍したという情報です。

しかし、ドイツで大津が得たものも確実にあったと、このU-22代表でのバーレーン戦、シリア戦の連戦で示しました。それはこぼれ球や味方のクロスに確実に詰める勝負強さで、結果的に2得点を挙げたことで、日本代表をロンドン五輪に近づけた功労者の一人になりました。次のアウェイのシリア戦に呼べるかどうかはわかりませんが、ドイツで出場機会がないならU-22代表で試合に出れば経験になるだろうと思ったのか、ボルシアMG側が親心を見せてくれたと思っています。

しかも、得点パターンもGKのキャッチミスのこぼれ球に反応したバーレーン戦のゴールとシリア戦のダイビングヘッドとまったく違うパターンを出すことに成功し、このまま大迫の調子が上がらなければ1トップでの起用もあるかもしれないというプレーです。まだ1試合しか生では見ていませんから、どういう選手か語り尽くすことはできませんが、どうもFW向きではと思っています。

関塚監督が1トップにキープを求めるなら、大津のプレースタイルでは厳しいかもしれませんが、1トップにはキープよりは裏に飛び出す方を期待しているので、ここに大津というのは面白いかもしれません。今でこそ代表のエースストライカーの岡崎も、五輪代表時代は定位置を保障された選手ではありませんでした。

今でこそ、J1で6点しか取っていないことがひっかかっていますが、ドイツで何点も取れる選手になれば皆そんなことは忘れてくれます。香川真司がドルトムントでポジションを取ったことで、やればできるという雰囲気になっていることも追い風で、大津にはいつかボルシアMGのエースストライカーになるという気持ちでいて欲しいです。
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近鉄バファローズの思い出

2011-12-30 16:06:12 | 他スポーツ
浦和の全日程が終了した今はこういうオフネタが多くなりますが、私がファンの西武の前に何度も立ちふさがったライバル、近鉄バファローズの思い出です。今はオリックスと合併してなくなってしまいましたが、西本監督の訃報で思い出しました。

少年時代は毎年買っていた週刊ベースボールの選手名鑑に、球団の通算成績が載っていたのですが、近鉄の通算成績はかなりの負け越しで、少年時代西本監督の下で優勝した姿が記憶にある私には意外でした。

今回西本監督の訃報があって当時のことが記事になっていましたが、近鉄は西本監督の下での優勝が初優勝でした。そこまで29年かかっているので、それは通算成績も負け越すはずです。実際、西本監督は近鉄の指揮を引き受ける前はライバル阪急の監督で、球団創設以来一度も優勝がなかった近鉄がなんとしても初優勝をと思い、本社の社長まで引っ張り出して引き抜いたそうです。

近鉄は昭和25年のパリーグ創設のメンバーで一番最後まで残ったチームで、当時の球団名は沿線の特産品の真珠から取った「近鉄パールズ」でした。しかし、その年の成績は最下位で、パールズでは弱そうという理由で球団名をバファローズに変えます。

しかし、球団が弱かったこともあって経営面では苦しんだようです。当時、親会社の近鉄の社長が運輸省に運賃の値上げを申請に行くと、「赤字部門の解消はどうなっているのですか?」と必ず聞かれたそうです。赤字部門とはもちろんバファローズのことで、当時の近鉄は収容人員は多いものの大阪から遠い藤井寺球場と、大阪市内にあるものの収容人員の少ない日生球場のどちらを使うかが悩みの種だったそうです。

それでも、赤字は容易には解消しませんでしたが、近鉄バファローズのスタッフは懸命に努力して、いいチームを作っていました。私にとって近鉄の監督と聞かれると一番最初に思い出すのは仰木監督で、主砲ブライアントの活躍で、全盛期の西武に土をつけた1989年の優勝は今でも思い出せます。

当時は西武も強かったものの近鉄も何とか西武に勝とうと懸命に努力して、外国人選手の獲得がうまく、130試合制だった当時のパリーグで77勝しながら優勝できなかったという珍記録も残しています。その後はローズ、中村紀洋を主軸に据えた「いてまえ打線」で2001年のパリーグを優勝していますが、ついに日本一になることはできませんでした。

たぶん後継球団がない以上、私達オールドファンが口にしない限り近鉄バファローズの名前が出ることはないと思いますが、何かの機会に思い出したら記事にすることが、近鉄への思いを伝えることになると思います。
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