少年時代のスポーツ中継といえば平日夜は巨人戦が定番でした。野球は月曜日は休みと決まっていたので、ボクシングの世界戦は月曜日の夜に行われていました。
物心ついた頃からスカパーがあった若い世代だと信じられないでしょうが、当時の巨人戦は9時30分になると中継が終わってしまい、続きを知ろうとしたらラジオ中継しかありませんでした。
そんな時代の中、私は多少あまのじゃくで、当時テレビ埼玉でホームゲームを全試合中継していた西武の試合を見ていました。もっとも、西武もロードに出ることもあるし、土日祝日はデーゲームなので結果を知った録画放送を見るほどのファンではなかったので、休日は巨人戦を見ていました。
当時、西武ライオンズは西鉄時代を知るベテラン東尾がエースでしたが、通算250勝した東尾が250敗するほど、東尾といえども勝ったり負けたりが精一杯だった弱いチームでした。当時率いていた根本監督はチームの半分を新人と移籍組にするなど大胆な改革を行っていましたが、結果が出るのは広岡監督の就任を待たないといけませんでした。
この時代、パリーグで強かったのは阪急と近鉄でした。あの当時、阪急が本拠地にしていた西宮球場は独特の雰囲気があり、西武がここでのロードゲームを勝てるようになるには時間がかかりました。今振り返ると、阪急も近鉄も弱小チームだった時代を抜け出したのは先日亡くなられた西本監督が率いてからで、近鉄は西本監督の就任前は優勝したことがなかったチームだったと聞いています。
阪急も西本監督時代をコーチとして経験した、名将上田監督が後を継いで強豪の地位を維持していて、この関西の2チームを突破しなければ、新参者の西武が優勝する道はないという壁でした。
90年代にサッカーファンになった私は、1979年にワールドユースが日本で開催されていて、家から近い大宮サッカー場や国立競技場が会場だったことを後で知って、当時8歳だからどこまで記憶に残ったかはわかりませんが、当時サッカーファンだったら若き日のマラドーナを生で見られたと思うと少し残念です。
ただ、今のスポーツ好きの原点がこの時代ですから、今こうしてブログが書けるのもこの時代を経験したからこそだと、最近になるといい経験をしていたと思えるようになりました。
物心ついた頃からスカパーがあった若い世代だと信じられないでしょうが、当時の巨人戦は9時30分になると中継が終わってしまい、続きを知ろうとしたらラジオ中継しかありませんでした。
そんな時代の中、私は多少あまのじゃくで、当時テレビ埼玉でホームゲームを全試合中継していた西武の試合を見ていました。もっとも、西武もロードに出ることもあるし、土日祝日はデーゲームなので結果を知った録画放送を見るほどのファンではなかったので、休日は巨人戦を見ていました。
当時、西武ライオンズは西鉄時代を知るベテラン東尾がエースでしたが、通算250勝した東尾が250敗するほど、東尾といえども勝ったり負けたりが精一杯だった弱いチームでした。当時率いていた根本監督はチームの半分を新人と移籍組にするなど大胆な改革を行っていましたが、結果が出るのは広岡監督の就任を待たないといけませんでした。
この時代、パリーグで強かったのは阪急と近鉄でした。あの当時、阪急が本拠地にしていた西宮球場は独特の雰囲気があり、西武がここでのロードゲームを勝てるようになるには時間がかかりました。今振り返ると、阪急も近鉄も弱小チームだった時代を抜け出したのは先日亡くなられた西本監督が率いてからで、近鉄は西本監督の就任前は優勝したことがなかったチームだったと聞いています。
阪急も西本監督時代をコーチとして経験した、名将上田監督が後を継いで強豪の地位を維持していて、この関西の2チームを突破しなければ、新参者の西武が優勝する道はないという壁でした。
90年代にサッカーファンになった私は、1979年にワールドユースが日本で開催されていて、家から近い大宮サッカー場や国立競技場が会場だったことを後で知って、当時8歳だからどこまで記憶に残ったかはわかりませんが、当時サッカーファンだったら若き日のマラドーナを生で見られたと思うと少し残念です。
ただ、今のスポーツ好きの原点がこの時代ですから、今こうしてブログが書けるのもこの時代を経験したからこそだと、最近になるといい経験をしていたと思えるようになりました。