Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

江夏の21球

2014-06-04 22:01:07 | 他スポーツ
友人とのメールで、スクイズの代表的なケースに挙げられていたので、久しぶりに1979年の日本シリーズの「江夏の21球」を思い出しました。当時、私は8歳で、父の運転する車でラジオを聞いていましたが、父が「いい場面だからじっくり聞こう」と路地に車を止めた記憶がかすかにあります。

当時は3勝3敗の日本シリーズ第7戦で、1点リードされた9回裏の近鉄の攻撃でした。広島は抑えの江夏をマウンドに送りますが、近鉄は無死満塁と江夏を攻めました。近鉄は3割打者の佐々木に期待を掛けましたがあえなく三振で、続く打者の石渡のスクイズを江夏が外したことで、有名な山際淳二のノンフィクションになっている場面です。

この結果はいろんな影響がありました。当時の近鉄の監督、西本幸雄さんは8回目の日本シリーズで日本一に一番近づいた場面でしたが、これを逃したことで一度も日本一になれず「悲運の闘将」と呼ばれることになります。

西本氏は日本一になれなかったことより、8回日本シリーズに出たことに誇りを持っていて、「私は悲運ではない。いい選手に出会えて8回も優勝できた。」(当時はクライマックスシリーズはなく、日本シリーズには優勝チームが出ました。)と後に語っています。

また、スクイズの前に三振した佐々木恭介氏にとっても痛恨事でした。自分が打っていれば、西本監督も無理なスクイズのサインを出さないで済んだという思いは、引退後近鉄の監督になったときもあったそうです。

勝者江夏も、そのノンフィクションによれば複雑な心中を抱えながらのマウンドでした。当時、古葉監督が延長戦を想定してリリーフ投手にブルペンで投げさせましたが、藤井寺球場では江夏から偶然ブルペンが見える構造になっていました。

俺を信頼していないと多少面白くない心理状態で投げていた江夏ですが、一塁手衣笠が掛けた声で落ち着き、あの球史に残る場面ができたと書いてありました。もちろん、もしこのスクイズが決まって近鉄が日本一になれば、近鉄が主役のノンフィクションができたでしょうから、勝負とは残酷なものです。
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石の上にも四年(遠藤保仁)

2014-06-04 18:20:59 | 他チーム
昨日のコスタリカ戦はまだ映像を見ていないので保留にして、代表期間なので代表選手をネタにします。今回は代表最多キャップを誇るベテラン、遠藤保仁選手です。遠藤は最初から突出した選手ではなかった、意外な過去があります。

遠藤の名前を最初に聞いたのは1999年ワールドユースナイジェリア大会でのU-20代表でした。ただ、当時は早くから大器と言われたボランチ稲本潤一の控えで、たまたま稲本の不調でチャンスが回ってはきましたが印象的な選手ではなかったです。

実際、当時のトルシエ監督にはあまり評価されていなかったようで、五輪代表は落選し、2002年日韓W杯では注目すらされていませんでした。そんな遠藤が表舞台に出てきたのは、G大阪で攻撃的な采配を好む西野監督(現名古屋監督)に出会ったのがきっかけでした。

2003年で駒場スタジアムで見た遠藤は、FKやCKのキッカーを任せられていて、「あれ?遠藤は守備専門の選手じゃなかったんだ?」と驚いた記憶があります。ジーコ監督にA代表に呼ばれたのは必然でした。しかし、この四年が苦しい時期だったのでタイトルの「石の上にも四年」が出てきました。

当時のジーコ監督は、国際Aマッチデーでない日によく親善試合を組んでいました。そういう試合では中盤は遠藤と小笠原(鹿島)が多く起用されました。しかし、海外でプレーする小野伸二や稲本潤一が戻ってくると、遠藤も小笠原も判で押したようにベンチという日々でした。

遠藤はこのジーコ采配の影響で、代表キャップ数は順調に稼いでいましたが、肝心のドイツW杯は出番なしで終わります。ここで消える選手なら今では覚えていないと思いますが、遠藤は岡田監督に認められて、代表のダブルボランチが遠藤と長谷部というコンビになりました。

最初は守備は大丈夫か?と思った起用でしたが、見事このコンビで南アフリカW杯予選を勝ち抜き、後任のザックもこのコンビを継続して現在に至ります。今の時代に若手だったら、遠藤のテクニックなら十分海外で通用したと思いますが、おそらく最後になるブラジルW杯でのプレーは楽しみです。
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