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ホワイトボードからの出発(サガン鳥栖)

2021-03-08 21:24:47 | 他チーム
先日、浦和が鳥栖と対戦したので、1997年にサガン鳥栖ができたときのことを思い出しました。当時、Jリーグ準会員だった、鳥栖を本拠地にしていたPJMフューチャーズの運営会社が経営不振で倒産し、鳥栖サポーターが天皇杯の会場だった国立競技場に来て救済を訴えました。その熱意は実り、市民クラブの「サガン鳥栖」として再出発することになりました。

もっとも、当時の鳥栖の記者会見を覚えていますが、新クラブ名のサガン鳥栖の名前は、ホワイトボードに黒マジックで書かれていました。この名前にはいくつか由来があり、砂のように小さなものでもたくさん集まれば「砂岩」のような大きな岩になれるという意味と、佐賀の人という意味の「さがんもん」という意味もありました。

当時の鳥栖は「お金がない」が口癖で、グラウンドも芝生がはげた劣悪な環境で、新装なった鳥栖スタジアム(現駅前不動産スタジアム)に2000人ほどの観客でJ2を戦っていました。2000年、浦和がJ1昇格を賭けて戦った最終戦の相手が鳥栖で、鳥栖の監督が「勝てばスポーツ新聞の一面になる」と選手を鼓舞したエピソードも後で知りました。結果的に浦和が土橋のゴールで昇格しましたが、これがなかったら浦和の強化が数年遅れていたことは間違いありません。

鳥栖のピンチは再び訪れます。2003年、J2リーグの長丁場である44試合で、鳥栖はわずか3勝しかできない惨敗を喫します。これを受けて、「サガン鳥栖再建委員会」が開かれ、一時は解散案も議論されたと聞きます。佐賀県と鳥栖市が支援の方針を打ち出し、佐賀県が推薦したプロ経営者を社長に据えて、何とか存続することができました。

そんな鳥栖が、本気でJ1を狙い始めたと感じたのは2010年頃でした。当時、J2得点ランキング上位に豊田が入り、韓国人の尹晶渙監督を呼んで強化した結果、2012年についにJ1に上がることができました。当時の鳥栖は、藤田のロングスローという武器を持っており、これを豊田の頭に合わせて勝利した試合も覚えています。

それから、今までJ1を一度も陥落していないのは立派です。写真のフェルナンド・トーレスも鳥栖に来ました。昨年、経営危機が発覚し選手の年俸を半額まで絞る厳しい経営ですが、このチームが持っている粘りは相当で、今回も乗り越えるのではと思っています。
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