ちょっと古いネタですが、仙台FW柳沢敦選手が今季限りでの引退を表明しました。高校時代から「富山に柳沢あり」と有名で、日本サッカー協会の選手強化プロジェクトの「トレセン制度」の一期生です。高校選手権で全国区になりますが、浦和が何度も壁として優勝を阻まれた鹿島時代の活躍が印象的です。
柳沢は、FWでありながら、あまり点を取ることにこだわらない、独自の哲学の持ち主でした。いい動き出しでボールを引き出したり、ドリブルでアクセントをつければ、見てくれる人は見てくれるだろうという考えでした。それでも、彼の世代はユース代表がアジア予選を勝ち抜いて、マレーシアで行われた1997年ワールドユースではU-20日本代表のエースストライカーでした。
トルシエ監督、ジーコ監督の時代には日本代表にも入りますが、代表で50試合以上のキャップ数がありながら10点ちょっとのゴール数は今思うと不満もあります。FWなのに、DFの中沢と同レベルの得点でいいの?とは思いますが、たぐいまれなサッカーセンスと自己犠牲のできる精神は立派だったと思います。
そんな柳沢ですが、一度問題を起こしています。トルシエ監督時代の五輪代表で、外出禁止だった合宿を抜け出して女性とデートしているところを写真週刊誌に撮られ、規律違反として代表を外されています。トルシエは特にそういう規律にはうるさい監督でしたが、たぶん誰が監督でも同じ処分が下されたと思います。当時のスポーツ紙の一面は「柳沢、女で失格」というものでした。
そのあおりを食ったのが小野伸二で、柳沢が代表を外され、吉原が急遽負傷の中山の代役で南米選手権を戦うA代表に呼ばれたので、選手が手薄だったフィリピン戦で、彼を交代させる余裕がなく、フィリピンDFの無謀なタックルで靭帯を断裂する重傷を負います。もちろん、フィリピンDFのプレーが一番悪いですが、この怪我で小野伸二のサッカー人生にも影響が出たと、今でもちょっと根に持っています。
しかし、先ほどの問題を除けばプロ意識の高さは評価されており、当時鹿島にいたジョルジーニョやレオナルドからプロとしての体のつくり方を学ぶなど、やるべきことをやっていたからこその37歳までのサッカー人生だったでしょう。よくやったと、十分言えるサッカー人生だったと思います。
柳沢は、FWでありながら、あまり点を取ることにこだわらない、独自の哲学の持ち主でした。いい動き出しでボールを引き出したり、ドリブルでアクセントをつければ、見てくれる人は見てくれるだろうという考えでした。それでも、彼の世代はユース代表がアジア予選を勝ち抜いて、マレーシアで行われた1997年ワールドユースではU-20日本代表のエースストライカーでした。
トルシエ監督、ジーコ監督の時代には日本代表にも入りますが、代表で50試合以上のキャップ数がありながら10点ちょっとのゴール数は今思うと不満もあります。FWなのに、DFの中沢と同レベルの得点でいいの?とは思いますが、たぐいまれなサッカーセンスと自己犠牲のできる精神は立派だったと思います。
そんな柳沢ですが、一度問題を起こしています。トルシエ監督時代の五輪代表で、外出禁止だった合宿を抜け出して女性とデートしているところを写真週刊誌に撮られ、規律違反として代表を外されています。トルシエは特にそういう規律にはうるさい監督でしたが、たぶん誰が監督でも同じ処分が下されたと思います。当時のスポーツ紙の一面は「柳沢、女で失格」というものでした。
そのあおりを食ったのが小野伸二で、柳沢が代表を外され、吉原が急遽負傷の中山の代役で南米選手権を戦うA代表に呼ばれたので、選手が手薄だったフィリピン戦で、彼を交代させる余裕がなく、フィリピンDFの無謀なタックルで靭帯を断裂する重傷を負います。もちろん、フィリピンDFのプレーが一番悪いですが、この怪我で小野伸二のサッカー人生にも影響が出たと、今でもちょっと根に持っています。
しかし、先ほどの問題を除けばプロ意識の高さは評価されており、当時鹿島にいたジョルジーニョやレオナルドからプロとしての体のつくり方を学ぶなど、やるべきことをやっていたからこその37歳までのサッカー人生だったでしょう。よくやったと、十分言えるサッカー人生だったと思います。