北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

学は通のためにあらざるなり

2011-09-10 23:45:59 | Weblog
 釧路の学力低下問題に関心を持つ人が増えてきました。

 議会でも基礎学力問題研究議連という党派を超えて問題意識を共有する動きが出ていますし、今回の議会でも何人かの議員さんから学力向上に向けた質問が多く出されました。

 ある議員さんは質問の中で、ご自身が仕事の関係で採用した高卒の人の思い出を語りました。

 それは採用した高卒の子が二けたの足し算ができなくて結局仕事を辞めていった、というお話。

 二けたの足し算は、学習指導要領では小学校二年生で習熟すべき学習内容のはずですが、それができない子が中学も高校も卒業できたということも問題と言えば問題です。

 しかしいずれにしても、社会に出るためには小学校四年生程度の学力は最低必要と言われる中で、それだけは身につけさせるような教師の教育力強化が必要だ、というのがこの議員さんの主張。


 いざ答弁となると、質問の中で具体的な提言をされた場合はなかなかその場でその是非については答えにくいものなので、どうしても「今後の検討」という形でとりあえず預かるという形が多いものです。

 しかしもはや子供たちの低学力現実にはなりふり構っている余裕もないわけで、ありとあらゆる力の総動員が必要になるでしょう。





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 行政としては学校教育と言うツールがあるためにこれを最大限機能強化して利用することで学力向上という成果を上げたいところです。

 しかしながら、子供たちの学力を取り巻く環境は学校教育と言う単一のツールだけでなんとかなるものでもないのが難しい。

 社会教育や家庭教育との合わせ技となる連携が必要ですので、私としても市長を支えながら、地域経済の安定などそのバックグラウンドの改善にも精一杯努めたいと思います。


 教育指導力ということになるとよく塾の先生が引き合いに出されますが、習熟度別クラス編成を自由にできる民間教育機関と、どうしても公平性を求められる学校教育との前提の違いは大きいものがありそうです。

 それでも、私としては学校では子供たちに、学習することへの夢や動機づけをしてもらうことに期待を寄せたいところ。

 私がよく引き合いに出す、ウィリアム・A・ワードさんの言葉。


 凡庸な教師は良くしゃべる
 良い教師は説明する
 優れた教師はやってみせる
 偉大な教師は心に火をつける


 最後の「心に火をつける」の原文は”inspire”という単語を使っています。

 生徒の心をインスパイアする教師像であっていただきたいものです。


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 ところで、『何のために学ぶのか?』と面と向かって訊かれたら皆さんはどう答えるでしょう?

 「立派な大人になるため」とか「悪い人にだまされないように」とか、いろいろな理由が思いつくかもしれませんが、そういうときは品格ある答えがよろしいでしょう。

 私の好きな言葉は孔子の弟子だった荀子の次の言葉。

「それ学は、通のためにあらざるなり。窮して困(くる)しまず、憂えて意(こころ)衰えざるがためなり。禍福終始を知って惑はざるためなり」

 学ぶということは、出世や金儲け(=「通」ということ)のためではなく、困ったことになっても苦しまず、憂いても心が衰えないということ、何が禍で何が幸せなのかを知り、ものごとをどうするとどうなるのか、という因果の法則を知って、惑うようなことにならないためだ、と言っているのです。

 難渋しても逃げない、たじろがない、迷わない、そんな人になるために学ぶのだ、と。

 このあたりが経済一辺倒と違う東洋哲学の深甚なるところですが、日本人にもこのあたりはしっくりくるのではないでしょうか。

 学ぶは一生なり。

 生涯学習は実践あるのみです。

コメント (2)
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